2026/5/20
江戸時代の広島は、川と海が育んだ西日本有数の城下町だった

江戸時代の広島について詳しく知りたい。
キュリオす
江戸時代の広島は、太田川の三角州に築かれ、毛利氏から浅野氏へと統治が移る中で発展した。米作に加え、塩、綿、牡蠣などの多様な産業と瀬戸内海の海運・太田川水運を基盤に、西日本有数の大都市へと成長した。
現代の広島市を歩くと、平和記念公園や原爆ドームといった近代史の記憶が色濃く残る。しかし、かつてここが「江戸時代有数の大都市」であり、中国地方の中心を担う城下町であったという事実は、その後の激動の歴史の中で時に見過ごされがちかもしれない。太田川が瀬戸内海に注ぐ三角州に築かれたこの町は、どのような姿を持ち、いかなる役割を担っていたのだろうか。その問いを抱えて、江戸時代の広島藩を紐解いてみる。
広島の都市としての歴史は、安土桃山時代の天正17年(1589年)、毛利輝元が太田川河口のデルタ地帯に広島城を築いたことに始まる。それ以前は「五ケ村」などと呼ばれていたこの地が「広島」と呼ばれるようになったのも、この頃からだという。毛利輝元は、山城であった郡山城から、山陽道に近く海に開けたこの地を選んで築城した。
関ヶ原の戦い後、毛利氏は防長二国(現在の山口県)に減封され、代わって福島正則が安芸・備後2国40万2千150石の太守として入封した。 福島正則は城の改修や城下町の整備を進め、城下町を横断する西国街道のルートを確定させるなど、現在の広島市につながる都市基盤を築いた。 しかし、幕府に無断で城を修繕したことが咎められ、元和5年(1619年)に改易、所領を大幅に縮小されて移封されることになる。
福島氏に代わって広島藩主となったのは、浅野長晟である。彼は徳川家康の三女を正室に迎えており、徳川家と姻戚関係にあった。 浅野氏は42万6千石の外様大名として、明治維新までの約250年間、広島藩を統治した。 浅野長晟は入城直後から農民支配の大綱を示した「郡中法度」を申し渡し、年貢の徴収を安定させるなど、藩政の基礎を固めた。 浅野氏の時代を通じて、広島城は戦闘の舞台となることはなかったものの、低地ゆえの洪水に悩まされ、たびたび修繕の記録が残っている。
江戸時代の広島藩は、安芸国一円と備後国8郡を領有し、現在の広島県の約8割を占める大藩であった。 その繁栄を支えたのは、地理的条件に根ざした産業と交通網の整備である。広島藩には平地が少ないにも関わらず、良質な米が豊富に生産され、天下の台所である大坂ではブランド米として流通したという。 この米は「建物米」として市場で換金率が高く、広島藩は大量の米を大坂に出荷することで大きな利益を得た。そのため、大坂の広島藩屋敷にはひときわ大きな蔵屋敷が設けられていた。
また、多様な自然環境の中で、中国山地や内陸部では和鉄、和紙、麻糸、木工品が生産され、瀬戸内沿海部では塩、綿、畳表、牡蠣、海苔、海産物などが盛んに生産された。 特に綿栽培は干拓地の拡大とともに発展し、「安芸木綿」として特産品となった。 塩づくりも活発で、竹原では赤穂藩の製塩技術を導入し、潮の干満を利用する入浜式製塩で安価で良質な塩を生産し、北前船によって全国に流通させた。 浅野氏は綿、和鉄、和紙を専売制とし、藩の財政を強化した。
これらの産業を支えたのが、瀬戸内海の海運と太田川水系の舟運である。 西廻り航路の整備により、瀬戸内海は西日本と大坂を結ぶ大動脈となり、広島藩内の尾道や宮島は諸国廻船の寄港地や交易地として栄えた。 また、太田川水系の舟運は、城下と領内を結ぶ物資輸送の大動脈となり、商品流通を活発化させた。 城下町には職種ごとに町が形成され、西国街道沿いは商業が発展し、現在の「本通り」の基礎となった。 寛永2年(1625年)には55町であった町人町は、宝暦7年(1757年)には64町にまで増加し、江戸時代後期には城下の総人口が7万人前後となり、江戸、大坂、京都、名古屋、金沢に次ぐ西国有数の大都市へと発展した。
江戸時代の広島藩は、石高42万6千石という規模で、全国の藩の中でも上位に位置する経済力を持つ大藩であった。 これは、加賀藩(金沢)の約102万石、薩摩藩(鹿児島)の約77万石、仙台藩(仙台)の約62万石といった、いわゆる「国持大名」に匹敵する、あるいはそれに次ぐ規模である。これらの大藩に共通するのは、広大な領地と多様な産業基盤、そして交通の要衝としての立地である。
しかし、広島藩には特異な点がある。それは、太田川の三角州という、平地が少ないながらも干拓によって土地を拡大し、米作だけでなく綿作や塩業、牡蠣養殖といった海に依存する多様な産業を発展させたことだ。例えば、東北地方の仙台藩が米作を主とし、北陸の加賀藩が米と手工業(加賀友禅など)で栄えたのに対し、広島藩は「山、川、里、海、島」という多様な自然環境を活かし、「日本の縮図」とも呼ばれるほどの多角的な産業構造を築いた。 これは、単一の特産品に依存するのではなく、地域ごとの特性を最大限に引き出すことで、藩全体の経済力を強固にしたと言える。
また、江戸の藩邸の規模も広島藩の存在感を示す。多くの有力藩が江戸城下に上屋敷を一つ持つのが一般的であったが、浅野氏は江戸城下に二つの藩邸を構え、その所在地は現在の霞が関(国土交通省庁舎)と永田町(国会議事堂)という、江戸の中心部に位置していた。 これは、幕府と広島藩の関係の深さ、そして藩の経済的な余裕を示すものだろう。一方で、参勤交代の経路では、広島から大阪までは海路を使い、大阪から江戸までは東海道の陸路を用いるのが一般的で、約20日間前後を要したという。 これは、瀬戸内海という地理的利点を活かした交通手段であり、他の内陸藩や日本海側の藩とは異なる特徴であった。
江戸時代の広島城下町は、原爆投下によってその多くが失われた。しかし、その面影や、当時の営みが育んだ文化の断片は、現代の広島にも静かに息づいている。現在の広島城の天守は、戦後に外観復元されたものであるが、城の石垣や堀は当時の面影をとどめている。 広大な敷地には、かつて武家屋敷や町人町が広がり、西国街道が城下の中心を貫いていたことが、現代の街路や地名から推測できる。
広島藩の藩主であった浅野家は、江戸時代を通じて学問と教育を重んじた。7代藩主浅野重晟は儒学者頼春水を招聘して武士教育のための学問所を開設し、後の修道中学・高等学校の礎を築いた。 頼春水の長男である頼山陽が著した『日本外史』は、幕末のベストセラーとなり、尊皇攘夷運動に影響を与えたという。 また、上田宗箇が興した武家茶道の上田宗箇流は、豊臣秀吉時代の桃山文化を継承し、藩の解体後も現代に伝えられている。 浅野家の別邸として作庭された縮景園は、中国杭州の西湖を模したと言われ、今も当時の趣を残す。
江戸時代に確立された干拓による新田開発の技術は、明治以降も引き継がれ、広島の土地利用の基盤となった。 牡蠣養殖も江戸時代初期から始まり、現代の広島を代表する産業へと発展している。 しかし、明治維新後、広島城は陸軍の拠点となり、軍都としての性格を強め、多くの建物が破却された。 その後、1945年の原爆投下により、石垣以外の建物は全て失われたが、戦後の復興の中で、広島は歴史と平和を象徴する都市として再建された。
江戸時代の広島は、太田川の三角州という地理的条件を最大限に活かし、城下町として、そして商業都市として独自の発展を遂げた。その姿は、一見すると他の大藩の城下町と類似しているように見える。しかし、その実態は、瀬戸内海の豊かな水産資源と、干拓による新たな土地の創出、そしてそれを基盤とした多角的な産業育成によって支えられていた。米作だけでなく、塩、綿、牡蠣といった特産品を全国に流通させることで、藩の財政を強固にし、独自の文化を育んだ。
現代の広島を歩くとき、多くの人がまず目に留めるのは、近代の悲劇と平和への願いだろう。しかし、その足元には、江戸時代に築かれた水辺の都市としての記憶が確かに横たわっている。川と海がもたらす恵みと、それを活かす人々の営みが、この地を西日本有数の大都市へと押し上げたのだ。その歴史をたどることは、現代の広島が持つ多様な側面を理解する上で、重要な視点をもたらすだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。