2026/5/20
広島風お好み焼きはいつから?戦後の食糧難から生まれた重ね焼きの歴史

広島風お好みやきはいつからあるの?誕生の経緯について詳しく知りたい
キュリオす
広島風お好み焼きのルーツは、大正時代の一銭洋食に遡る。戦後の食糧難の中、小麦粉とキャベツを使い、鉄板文化と調達環境が重なり「重ね焼き」スタイルが確立された。復興の象徴として、市民のソウルフードとなった歴史を辿る。
広島の街を歩くと、ふわりと漂う甘く香ばしい匂いに誘われることがある。路地裏の小さな店から、活気に満ちた「お好み村」まで、その香りはどこか懐かしく、食欲をそそる。鉄板の上で薄く広げられた生地に、山盛りのキャベツが蒸し焼きにされ、豚肉が香ばしく焼ける。その上に中華麺が加わり、最後に卵で閉じられる。幾重にも重なった層が織りなす広島風お好み焼きは、単なる料理ではなく、この土地の歴史そのものを映し出しているかのようだ。なぜ広島の地で、これほどまでに独特な「重ね焼き」のスタイルが生まれ、深く根付いたのだろうか。その問いの根底には、戦後の苦難と復興、そして人々の創意工夫の物語が横たわっている。
広島風お好み焼きのルーツは、大正時代に関西地方で誕生したとされる「一銭洋食」に遡る。これは水で溶いた小麦粉を薄く焼いた生地に、ネギや削り節などのシンプルな具材を乗せ、半分に折ってソースをかけたもので、主に子どもたちのおやつとして駄菓子屋で売られていたという。広島市内でも昭和初期には「一銭洋食」が提供されていたが、その姿が大きく変わるのは、1945年(昭和20年)8月6日の原爆投下後のことだ。
壊滅的な被害を受けた広島では、終戦後、深刻な食糧難に直面する。人々は日々の食事を確保するのに必死だった。こうした状況下で、アメリカ軍からの配給物資として大量の小麦粉(通称「メリケン粉」)がもたらされた。日本では主食が米であったため、小麦粉の活用法が模索される中で、かつての子ども向けのおやつであった「一銭洋食」が再び注目されることになる。
当初はネギや蓮根などの屑野菜を散らし、ソースを塗って巻いたシンプルなものだったが、空腹を満たすための工夫が重ねられていった。高騰していたネギの代わりに、安価でボリュームのあるキャベツが使われるようになり、鉄板の上で重ね焼きにする調理法が広まる。 この時期のお好み焼きは、まさに「お好みで焼く」という言葉の通り、手に入る食材を自由に組み合わせて作られた。
昭和20年代後半には、広島市中心部の新天地広場にはお好み焼きの屋台が集まり、賑わいを見せた。 この頃、ある屋台の主人が、お好み焼きと焼きそばを合体させたものを販売したことが、現在のスタイルに近づくきっかけになったと言われている。 麺を加えることで腹持ちが良くなり、おやつから食事へとその役割を変えていったのだ。 昭和30年代には、麺や豚肉が加わり、具材が充実したことで二つ折りから円盤状へと形も変化し、1955年頃には現在のような広島風お好み焼きの原型が完成したとされる。
広島風お好み焼きが現在の「重ね焼き」という独特のスタイルを確立し、地域に深く根付いた背景には、複数の要因が重なり合っていた。
第一に、戦後の食糧難とアメリカからの小麦粉配給が挙げられる。原爆投下後の広島では、多くの人々が食料不足に苦しんだ。そのような状況下で、アメリカ軍からの配給物資である小麦粉は、貴重な栄養源となった。 小麦粉を薄く焼いた生地に、手に入りやすいキャベツを大量に乗せることで、少ない材料でもボリュームを出し、空腹を満たすことができた。キャベツを蒸し焼きにすることで甘みが増し、かさが減るため、多くの量を摂取できたことも、この調理法が広まった一因である。
第二に、広島における鉄板焼き文化の素地があったことだ。広島は戦前まで軍都であり、重工業が盛んであったため、鉄を扱う工場が多く、鉄板が比較的庶民の手に入りやすかったという見方もある。 戦後の焼け野原でも、簡易な調理設備として鉄板が活用され、屋台などで手軽に料理を提供する文化が育まれていった。鉄板の上で調理するスタイルは、多くの人々が一度に食事を摂ることを可能にし、復興期の市民の胃袋を支える上で重要な役割を果たした。
第三に、食材の調達環境と調理技術の進化が挙げられる。広島市観音地区が観音ネギの産地であったように、戦前から食材が調達しやすい環境にあったことも、お好み焼きが発展した理由の一つとされる。 そして、屋台が密集していた戦後の新天地広場では、各店舗が互いの調理技術やレシピを参考にし、競争しながら独自の工夫を凝らしていった。 例えば、当初はウスターソースが使われていたが、具材が増えて厚みが出たお好み焼きには味が染み込みにくかったため、ウスターソースに片栗粉などを加えてとろみを持たせた専用のお好みソースが開発された。 また、腹持ちを良くするために焼きそばやうどんの麺が加えられるようになり、現在のような重層的なスタイルへと進化を遂げたのだ。
これらの条件が複合的に作用し、広島の地で、混ぜ焼きではなく「重ね焼き」という独特の調理法と、その味を支える専用ソース、そして麺を組み合わせた現在の広島風お好み焼きが確立されていったのである。
お好み焼きと一口に言っても、その調理法や形態は地域によって大きく異なる。特に「関西風」と「広島風」は二大勢力として知られ、それぞれの歴史的背景と地域性が色濃く反映されている。
関西風お好み焼きは、一般的に小麦粉をだし汁で溶いた生地に、山芋や卵、キャベツなどの具材をすべて混ぜ合わせ、円形にまとめて鉄板で焼く「混ぜ焼き」が特徴である。 生地と具材が一体となることで、ふっくらとした食感が生まれる。麺が入る場合は「モダン焼き」と呼ばれ、別の料理として扱われることもある。 関西風のルーツもまた、大正時代に普及した「一銭洋食」にあるとされるが、戦後の食糧難の時代に、小麦粉をベースに具材を混ぜ合わせるスタイルが関西一円に定着していったという。 鉄板付きのテーブルで客が自分で焼くスタイルも多く見られ、食卓を囲むコミュニケーションの要素も強い。
一方、東京の下町で生まれた「もんじゃ焼き」もまた、粉もの料理の系譜に連なる。もんじゃ焼きは、ゆるく水溶きした小麦粉に具材を混ぜて鉄板で焼き、固形化しない糊状のものをへらで押さえつけて焦がしながら食べるのが特徴だ。 その起源は江戸時代末期から明治にかけて、子どもたちが鉄板に生地で文字を書いて遊びながら食べた「文字焼き」に由来すると言われている。 戦後の食糧難の時代には、うどん粉を溶いて醤油などで味付けしたシンプルなもんじゃ焼きが子どもたちに親しまれ、その後、キャベツやコーン、揚げ玉などの具材が加わって進化していった。 もんじゃ焼きは、お好み焼きとは異なり、鉄板に接する面の焦げ付きと内部の柔らかさが独特の食感を生み出す。
これらの比較から見えてくるのは、同じ「粉もの」というカテゴリーに属しながらも、それぞれの地域が置かれた環境や食文化、そして人々の創意工夫によって、全く異なる料理へと発展していったという事実である。関西風の「混ぜ焼き」が食材の一体感を追求したのに対し、広島風の「重ね焼き」は、限られた食材を最大限に活かし、それぞれの具材の味と食感を層として楽しむことを重視した。もんじゃ焼きが、子どもの遊びから発展し、独特の食感と食べ方で地域に根付いたように、食文化の進化は一様ではない。広島風お好み焼きの「重ね焼き」は、戦後の復興という特殊な状況下で、食料を確保し、栄養を摂るための知恵が凝縮された結果であり、他の地域のお好み焼きとは異なる、広島独自の歴史的背景と文化を色濃く反映しているのだ。
現代の広島の街を歩くと、お好み焼きが単なる郷土料理を超えた、市民の生活に深く根ざした「ソウルフード」であることがわかる。 「お好み村」のような集合店舗施設や、街角の小さな店に至るまで、広島市内には約600軒以上のお好み焼き店が集中しており、人口10万人あたりのお好み焼き店数は広島県が全国一位であるという統計もある。
広島風お好み焼きは、戦後の復興を象徴する食べ物として、多くの人々に愛され続けている。 焼け野原から立ち上がった人々に活力を与え、街と共に成長してきたその姿は、広島の歴史と復興の物語と重なる。 広島のお好み焼き屋の店名には「〇〇ちゃん」という愛称が多く見られるが、これは戦争で夫を亡くした女性たちが、自宅を改装して店を始めた際に、離れ離れになった家族に自分の居場所を分かりやすく伝えるため、自らの名前を屋号にしたことに由来するという説もある。
現在では、お好み焼きは広島を訪れる観光客の7割以上が食べると言われるほどの重要な観光資源となっている。 また、2010年(平成22年)にはNHKの朝の連続テレビ小説「てっぱん」のヒロインが広島風お好み焼き屋を開くストーリーであったことから、その人気はさらに加速した。 海外でも日本食ブームを背景に「okonomiyaki」が世界的に認知を広げ、2024年にはオックスフォード英語辞典にもその名が加わったという。
かつてはウスターソースをそのまま使っていたが、具材の増加に伴い、とろみのある専用のお好みソースが開発されたように、お好み焼きは常に進化を続けてきた。 広島のお好み焼きは、新鮮な地元食材を活かし、職人技が光る焼き方によって、キャベツの甘み、豚肉の香ばしさ、麺の食感などが幾層にも重なり合う。 鉄板の上でへらを使って切り分け、そのまま食べるという独特のスタイルも、広島の食文化の一部として親しまれてきた。
広島風お好み焼きの誕生と進化を追うと、それは単なる食の歴史に留まらない、ある種の普遍的な構造が見えてくる。それは、極限状態における人々の創意工夫と、コミュニティの形成、そして変化に適応しながらも核となるアイデンティティを守り抜く強さである。
戦後の食糧難という厳しい現実が、手に入りやすい小麦粉とキャベツを組み合わせ、「重ね焼き」という合理的な調理法を生み出した。 これは、乏しい資源を最大限に活用し、最も効率的かつ満足度の高い食事を提供するための、切実な知恵の結晶であったと言えるだろう。他の地域のお好み焼きが具材を混ぜ合わせることで一体感を追求したのに対し、広島では各具材を層状に重ねることで、それぞれの素材が持つ風味や食感を独立させながらも、全体として調和させる道を選んだ。この「重ね焼き」は、食料が限られた状況下で、いかにして多様な味覚と栄養を一枚の料理に集約するかという問いに対する、広島ならではの答えだったのではないか。
また、屋台文化の中で技術が共有され、改良が重ねられた点も重要だ。 「みっちゃん」に代表される初期の屋台が、麺や専用ソースの導入など、現在のスタイルの基礎を築いていった過程は、個々の店主たちの試行錯誤と、互いに学び合うコミュニティの存在なくしては語れない。 そこには、単なる商売を超えた、復興への願いと、人々の空腹を満たしたいという切実な思いが込められていたはずだ。
広島風お好み焼きが「ソウルフード」として定着した背景には、その味が単に美味しいだけでなく、困難な時代を乗り越えてきた人々の記憶と結びついているからでもある。 一枚のお好み焼きは、戦後の焼け野原に芽生え、人々の工夫と努力によって育まれ、街の復興と共に歩んできた、重層的な物語を今もなお語り続けている。そこには、過去の経験から学び、現在を生き、未来へと繋ぐための、具体的な示唆が秘められているように見える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。