2026/5/19
肥前国一宮・千栗八幡宮の「ちりく」の謎と二社併立の歴史

肥前国一宮の千栗八幡宮について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
佐賀県みやき町の千栗八幡宮は、創建1300年を迎える古社であり、肥前国一宮を称する。しかし、同じく肥前国一宮を名乗る與止日女神社も存在し、その背景には古代からの社格争いや地域信仰の多様性があった。本記事では、千栗八幡宮の創建神話や祭事、そして二社併立の歴史的経緯を解説する。
佐賀県三養基郡みやき町、筑後川の流れを眼下に望む小高い丘に、千栗八幡宮は鎮座する。その名は「ちくり」ではなく「ちりく」と読む。なぜこの地で栗の字を逆さに読むのかという素朴な疑問と、もう一つ、この神社が「肥前国一宮」を称しているにもかかわらず、肥前国にはもう一つの「一宮」が存在するという事実に、当地を訪れる者は静かな問いを抱くことになる。全国的に見ても一国に複数の一宮が存在する例は珍しくないが、肥前国におけるその経緯は、単なる社格の争い以上の、土地と信仰、そして時の権力が織りなす歴史の複雑さを物語っているように思える。
千栗八幡宮の創建は、奈良時代の神亀元年(724年)にまで遡る。当時の肥前国養父郡の郡司であった壬生春成(みぶのはるなり)が、狩りの最中に弓の先に白い鳩が止まるという瑞兆に遭遇したことに始まる。その夜、夢枕に現れた翁から千個の栗の実を授けられ、「この地に八幡神を祀るべし」との神託を受けたという。翌朝、春成が再びその地を訪れると、一夜にして千本の栗の木が生い茂っていたと伝えられる。この奇瑞が「千栗」の名の由来であり、読みが「ちりく」となる所以だ。
この不思議な出来事を聖武天皇に奏上したところ、天皇も大いに喜び、勅命によって社殿が造営されたという。 祭神は八幡神である応神天皇を中心に、仲哀天皇、神功皇后を祀る。 平安時代に入ると、千栗八幡宮は宇佐神宮の「五所別宮」の一つとして数えられ、朝廷からも篤い崇敬を受けた。
中世には、全国的に国司が管内の主要な神社を巡拝する「一宮制度」が確立されていく中で、千栗八幡宮も肥前国の一宮と称されるようになった。 戦国時代には戦火に見舞われ社殿が焼失することもあったが、天正11年(1583年)には龍造寺政家によって再興され、江戸時代に入ると佐賀藩祖・鍋島直茂が社領200石を寄進し、慶長14年(1609年)には表参道に石造りの肥前鳥居を奉納するなど、歴代藩主の崇敬を集めた。 さらに同年、後陽成天皇からは「肥前国総一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅額を賜り、その社格と権威は不動のものとされたのである。
肥前国には千栗八幡宮の他に、佐賀市大和町に鎮座する與止日女神社(よどひめじんじゃ、通称・川上峡八幡宮)も一宮を称している。二つの神社が一宮の地位を主張する背景には、一宮制度が必ずしも朝廷による明確な指定ではなく、地域の慣習や時の権力者の信仰によって形成されていったという歴史的経緯がある。
千栗八幡宮が一宮としての権威を確立した要因は複数ある。一つは前述の通り、創建の由来からくる古社としての歴史と、宇佐神宮の別宮としての格式、そして後陽成天皇からの勅額という、中央からの権威付けがあった点だ。 加えて、筑後川を挟んで筑後国一宮である高良大社と対峙する位置にあり、肥前国と筑後国の国境を守る要衝としての役割も大きかったのかもしれない。
一方、與止日女神社は『延喜式神名帳』に記載された「式内社」であり、肥前国の国府(現在の佐賀市大和町周辺)に近接していたという地理的優位性があった。 律令制下において国司が巡拝する神社の中で、国府に近い式内社が上位に位置づけられるのは自然な流れであったと考えられる。
この二社間の一宮を巡る争いは、特に近世に入って顕在化したとされている。 江戸時代初期には約60年にわたる論争があったとも伝えられるが、最終的には両社が「新たに一宮と記さない」という形で決着を見たという。 これは、どちらか一方に優劣をつけるのではなく、それぞれの歴史と地域における信仰を尊重し、実質的な共存を選んだ結果と解釈できるだろう。
一国に複数の一宮が存在する現象は、肥前国に限ったことではない。全国には備前国、紀伊国、越中国、相模国など、複数の神社が一宮を称する例が散見される。 これらの背景には、共通して一宮制度が国司の巡拝順序に端を発する非公式な序列であったこと、そして時代の変遷と共に国府の移転や地方権力者の交代、あるいは特定信仰の隆盛といった要因が複雑に絡み合っている。
例えば越中国(現在の富山県)には、射水神社、高瀬神社、気多神社、雄山神社の四社が一宮を称している。これは、古代の有力社、国府に近い神社、霊山信仰を背景とする神社がそれぞれ異なる文脈で一宮を主張し、近代の社格制度に至るまでその正統性が並立した結果とされている。 また、相模国や備前国でも、経済的利権や地域社会での権威を巡る争いが一宮の地位に影響を与えたことが指摘されている。
こうした事例から見えてくるのは、「一宮」という概念が、中央の画一的な基準によって定められたものではなく、各地方の歴史、地理、そして人々の信仰や政治的状況に深く根ざした、多様な姿を持っていたということだ。肥前国の二つの一宮も、まさにその多様性の一端を示すものと言えるだろう。
現在の千栗八幡宮は、佐賀県みやき町の地域に深く根ざした神社として、多くの参拝者を集めている。境内へと続く146段の石段は、「栄光への石段」と呼ばれ、バルセロナオリンピック柔道金メダリストの古賀稔彦氏が幼少期に足腰を鍛えた場所として知られている。
年間を通じて様々な祭事が行われるが、特に有名なのが毎年3月15日に行われる「お粥だめし(粥祭)」である。 これは、2月26日に炊いた粥を銅製の鉢に盛り、その表面に生じたカビの様子から肥前・肥後・筑前・筑後の四国のその年の天候や農作物の出来、災害などを占うという、1300年以上の歴史を持つ神事だ。 2005年の福岡県西方沖地震を言い当てたとも話題になり、遠方からも結果を尋ねる参拝者が訪れる。 また、9月15日に近い日曜日には、行列浮立が奉納される秋季大祭(放生会)が催され、伝統衣装に身を包んだ行列が地域を練り歩く。
千栗八幡宮は2024年に創建1300年を迎え、記念の奉祝祭も執り行われた。 長い歴史の中で幾度も再興を重ね、地域の人々の信仰の中心であり続けてきたこの神社は、今も変わらずその存在感を示している。
肥前国における二つの一宮という現象は、当初一見すると矛盾や争いの跡のように映るかもしれない。しかし、その背景を紐解けば、それは単一の権威が絶対的であったというよりも、むしろ多様な信仰の形が地域の中で並存し、それぞれの正統性を主張し続けた結果だと言える。
千栗八幡宮の勅額と古からの由緒、そして與止日女神社の式内社としての格式と国府近接という条件は、それぞれ異なる軸で一宮としての地位を確立するに足るものであった。江戸時代初期の「一宮と記さない」という妥協は、それぞれの権威を認めつつ、地域に混乱をもたらさないための現実的な解であったのだろう。この経緯は、中央集権的な宗教統制が及ぶ以前の、地方における信仰の自律性と、それが土地の歴史を形づくる強さを示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。