2026年5月16日
大相撲の本場所はいつから両国国技館?仮設から常設へ至る歴史
大相撲が両国国技館を定場所とするようになった経緯を解説。江戸時代の寺社での興行から、天候に左右されない常設館建設の必要性、初代両国国技館の誕生、戦後の蔵前国技館を経て、現在の両国国技館に至るまでの変遷を辿る。
土俵を囲む熱気と問い
東京、両国。JR両国駅を降りると、まず目に飛び込んでくるのは、あの特徴的な緑青色の屋根を持つ建物だろう。大相撲の本場所が開催される「両国国技館」である。一年六場所のうち、一月、五月、九月の三場所がここで行われ、その期間中は、駅周辺から国技館へと向かう道筋に、のぼり旗が立ち並び、力士たちの幟が風にはためく。館内に入れば、土俵を取り囲むマス席の壮観な眺めに圧倒される。私たちは当たり前のように、この場所で大相撲が開催される光景を目にしているが、では、いつからこの「両国国技館」が大相撲の定場所となったのか。そして、なぜ、その歴史の中で、相撲は専用の施設を持つに至ったのか。その問いは、単なる建築の歴史に留まらず、相撲という文化が日本社会においてどのように位置づけられ、変遷してきたかという、より大きな物語へと繋がっている。
仮設の土俵から常設館へ
大相撲が専用の常設館を持つまでには、長い道のりがあった。江戸時代の相撲興行は、「勧進相撲」として寺社の境内で行われるのが常であった。寺社の造営や修復費用を捻出するために催されるもので、深川の富岡八幡宮や本所の回向院などが主な興行地だったという。特に回向院は、天明年間から開催が多くなり、天保4年(1833年)以降は江戸における大相撲の定場所となった。
しかし、寺社の境内での興行は、常に天候に左右されるという大きな課題を抱えていた。当時の番付には「晴天十日之間」と記され、雨が降れば興行は順延された。雨が続けば、本場所の終了までに1ヶ月から2ヶ月を要することもあったという。 この不安定な状況を打開するため、明治中期頃から、天候に左右されずに興行を行える常設の相撲場の建設が検討され始めた。
明治42年(1909年)、ついに初代の「両国国技館」が、長らく相撲興行の地であった回向院の境内に誕生する。 設計は、日本銀行本店や東京駅を手がけた建築家・辰野金吾と、その弟子の葛西萬司が担当した。 日本初のドーム型鉄骨板張りの洋風建築で、約1万3千人を収容できたこの建物は、その特徴的な大屋根から「大鉄傘」の愛称で親しまれた。 「国技館」という名称は、当初「尚武館」の案もあったが、作家の江見水蔭が起草した披露文の一節「角力(相撲)は日本の国技」に感銘を受けた年寄尾車が強く推したことで定着したと言われている。 これにより、相撲は常設の舞台を得て、近代スポーツとしての地位を確立する大きな一歩を踏み出したのである。
しかし、初代国技館の歴史は平穏ではなかった。大正6年(1917年)に失火により全焼し、2年後の再建後も、大正12年(1923年)の関東大震災で再び焼失する。 外観を残して内装が再建されたものの、第二次世界大戦の東京大空襲で三度焼失し、終戦後はGHQに接収され「メモリアルホール」と改称された。 接収解除後も、相撲興行には使用されず、日本大学講堂として利用された後、昭和58年(1983年)に解体されることとなる。
戦後、両国国技館がGHQに接収されていた間、大相撲は明治神宮外苑相撲場や浜町仮設国技館など、各地を転々としながら興行を続けていた。 こうした中で、新たな常設館の建設が急務となる。昭和25年(1950年)、日本相撲協会が戦前から土地を所有していた蔵前に、仮設の国技館が建設され、本場所が開催された。 その後、約4年間の工事を経て、昭和29年(1954年)に正式な「蔵前国技館」が完成する。 蔵前国技館は、戦後の大相撲の黄金時代を支え、昭和59年(1984年)の秋場所まで、東京での本場所の会場として使用された。 蔵前は、江戸時代から勧進相撲が行われていた場所であり、初代国技館のあった両国とも隅田川を挟んで目と鼻の先に位置していたため、ファンにとっては「川の向こう側へ引っ越した」という感覚に近かったと言われている。
そして、蔵前国技館の老朽化に伴い、昭和60年(1985年)1月場所から、現在の「両国国技館」が新たな大相撲の本場所の舞台として開館した。 これにより、大相撲は39年ぶりに両国へと「帰還」したのである。 現在の国技館は3代目にあたる。
興行の安定と「国技」の確立
大相撲が専用の常設館を必要とした背景には、主に三つの要因が挙げられる。一つは、興行の安定化である。江戸時代の勧進相撲は、屋外の寺社境内で行われたため、常に天候に左右され、雨天順延によって興行期間が大幅に伸びることがあった。 これでは、興行主にとっても観客にとっても不便が大きく、近代的な興行としては非効率であった。常設館の建設は、年間を通じて安定した日程で興行を行うための不可欠な条件だったのである。
二つ目は、相撲の地位向上と「国技」としての確立への意識である。明治維新後、西洋化の波の中で相撲は一時衰退の危機に瀕した時期もあった。 しかし、日露戦争の頃には横綱・常陸山や梅ヶ谷らの活躍で人気が再燃し、相撲を日本の伝統文化、ひいては「国技」として位置づけようとする機運が高まった。 専用の「国技館」という名称を持つ常設施設を建設することは、相撲が単なる庶民の娯楽を超え、国家的なスポーツ・文化としての権威と格式を持つことを内外に示す象徴的な意味合いがあった。 実際、初代国技館の開館を機に、相撲を国技とする認識が広まったと言われている。
三つ目は、観客の収容能力と快適性の向上である。江戸時代の仮設小屋でも2階席、3階席が設けられるなど、多くの観客が訪れていた。 しかし、常設館はより多くの観客を収容し、かつ悪天候に左右されずに快適に観戦できる環境を提供することで、相撲人気をさらに高める上で重要な役割を担った。初代国技館が約1万3千人、現在の両国国技館が約1万1千人を収容できる大規模な屋内アリーナであることは、その表れである。 また、現在の国技館では、土俵が電動で昇降する仕組みや、冷暖房の完備など、観客の利便性や快適性を追求した設備が導入されている。
これらの要因が複合的に作用し、相撲は仮設の土俵を離れ、専用の常設施設である「国技館」を持つに至った。これは、相撲が時代とともに変化する社会のニーズに応え、自らの価値を高めてきた過程でもあると言えるだろう。
伝統芸能の舞台と相撲の殿堂
日本の伝統芸能やスポーツにおいて、専用の常設施設を持つことは、その文化が社会に深く根差し、一定の地位を確立した証と見なせる。大相撲の「国技館」は、この点で歌舞伎座や国立劇場、あるいは能楽堂といった他の伝統芸能の専用劇場と比較できるだろう。
歌舞伎は江戸時代から庶民の娯楽として親しまれ、芝居小屋で興行されてきた。明治座や歌舞伎座のように、その時代ごとに大規模な専用劇場が建設され、今日に至るまで歌舞伎の殿堂として機能している。これらの劇場も、火災や震災、戦災といった苦難を乗り越えながら再建を重ねてきた歴史を持つ点は、国技館の歩みと共通する。また、落語や講談などの大衆芸能には国立演芸場が、能・狂言には国立能楽堂が、文楽には国立文楽劇場がそれぞれ存在し、各々の芸能を専門的に上演・継承する役割を担っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
出典
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