2026/5/29
焼津はいつから港町?古代の鰹から近代港建設までの道のり

焼津の歴史について詳しく知りたい。昔から港町だったのか?
キュリオす
約1400年前の弥生時代から鰹との関わりがあった焼津。江戸時代に漁業が発展し、近代になって住民の努力で港が建設された。現代も鰹節の一大生産地として、歴史と技術が息づく港町の姿を辿る。
焼津の港に立つと、潮の香りに混じって、どこからともなく鰹節を燻す匂いが漂ってくることがある。それは、この町が単なる漁港ではないことを静かに物語る。目の前には大型の漁船が係留され、活気ある市場が広がるが、ふと疑問が湧く。この焼津は、いつの時代から「港町」としての顔を持っていたのだろうか。遥か昔から海と共に生きてきたのか、それとも近代になってその姿を整えたのか。その問いの答えは、土の中から出土する魚の骨や、古い文献の中に刻まれている。
焼津と海、そして鰹との関わりは、想像以上に古い時代にまで遡る。約1400年前の弥生時代にまでさかのぼるとされており、焼津神社周辺の「宮の腰遺跡」からは、土器や祭祀具と共に鰹の骨が出土しているのだ。これは、古代の人々がすでにこの地で鰹を捕獲し、食料としていたことを示している。さらに時代を下り、平安時代初期に編纂された『延喜式』には、駿河国焼津浦から「堅魚(かたうお)」や「煮堅魚(にかたうお)」が貢物として納められていたことが明記されている。これらは現代の鰹節の原型と考えられており、約1100年前には既に加工された鰹が焼津から都へ送られていたのである。奈良の正倉院に残る『駿河国正税帳』にも、焼津を中心とする地域が煮堅魚の特産地として記録されているという。
しかし、この時代に現在の焼津漁港のような本格的な「港」が存在したわけではない。当時の焼津の海岸は、波が荒く、砂利浜が広がる地形であったため、船は沖合に停泊し、小型の舟で荷を運び込む形が一般的だったようだ。それでも、海産物の恵みと、それらを加工する技術が古くから根付いていたことは、焼津の歴史を語る上で重要な基盤となる。
焼津が本格的に漁業の町として発展を始めるのは、江戸時代に入ってからである。徳川家康が駿府に居を構えたことで、焼津は東海地方の要衝となり、海上交通の重要性が増した。この時期、焼津では鰹漁が盛んになり、特に「八丁櫓(はっちょうろ)」と呼ばれる高速の和船が特徴的だった。通常、櫓の数には制限があったが、焼津の漁船は特例として八丁櫓の使用が許され、これにより伊豆沖や遠州灘まで漁場を広げることが可能になった。
この時代には、現在の焼津港にあたる地域にはまだ整備された港がなく、浜辺での水揚げや、堀川(現在の黒石川)を利用した廻船業が営まれていたという。それでも、豊富な漁獲量を背景に、生魚の保存技術として鰹節の製造が発展していった。土佐から伊豆に伝わった燻製法がさらに改良され、「伊豆節」として高い評価を得ると、焼津はその技術を取り入れ、独自の「焼津節」として品質向上に努めた。明治時代に入ると、焼津の鰹節は全国的な知名度を獲得し、1903年(明治36年)の第5回内国勧業博覧会では全国一位の評価を受けるまでになった。
漁業の近代化は、明治後期に大きな転換点を迎える。1908年(明治41年)に石油発動機付き漁船が初めて建造されたのだ。これにより、漁船はさらに大型化し、八丈島沖から台湾近海、さらにはマリアナ・マーシャル諸島へと、漁場は飛躍的に拡大していった。この技術革新が、焼津を遠洋漁業の拠点へと押し上げる原動力となったのである。
漁業の発展とは裏腹に、焼津には長らく本格的な港がなかった。漁獲物の水揚げは砂利浜に直接行われ、魚の鮮度保持が難しいという課題を抱えていた。また、台風の際には漁船を清水港など他所の港に避難させなければならないなど、漁師たちは常に危険と隣り合わせであった。
こうした状況を打開しようと、港の建設を求める声は明治時代から存在したものの、具体的な動きが活発になるのは昭和初期に入ってからである。特に「焼津築港期成同盟会」の結成や、私財を投じて築港運動に尽力した持塚弥吉(もちづかやきち)のような人物の存在が大きかった。弥吉は「焼津時報」を発行して住民に港の必要性を訴え、署名活動を繰り広げた。
幾度もの陳情と調査を経て、1939年(昭和14年)にようやく国の事業として港の工事が本格的に着手された。しかし、太平洋戦争の勃発により工事は一時中断を余儀なくされ、多くの漁船が徴用されるなど、焼津の漁業は大きな打撃を受けた。戦後、食糧難の中で漁業の復興が急務となり、1951年(昭和26年)に焼津漁港(内港)が完成。これにより、大型船が直接入港し、効率的な水揚げが可能になったことは、焼津にとって画期的な出来事だった。そして1956年(昭和31年)には、焼津漁港の水揚高が68億円に達し、名実ともに日本一の漁港となる。これは、長年の悲願が結実した瞬間だったと言えるだろう。
日本には古くから多くの港町が存在するが、焼津の発展はいくつかの点で特徴的だ。例えば、瀬戸内海や日本海沿岸には、古代から中世にかけて廻船業や交易の拠点として栄えた港が多く見られる。これらの港は、物資の集散地として、あるいは軍事的な要衝として、多様な役割を担ってきた。対して焼津は、古くから鰹という特定の魚種に強く結びつき、その漁獲と加工に特化して発展を遂げてきた点が際立つ。
また、横浜や神戸のような近代に開港された国際貿易港とは異なり、焼津はあくまで漁業を核として、その物流と加工を支える形で港湾が整備されていった。その過程も、自然の地形を活かした河口港や砂浜での水揚げから始まり、漁船の動力化と漁場の拡大という内発的な要求が、本格的な漁港建設へと駆り立てたという経緯がある。これは、漁業の規模が拡大するにつれて、従来の接岸環境では対応しきれなくなり、住民の強い要望と努力によって港が「創り出された」という点で、自然発生的な港町とは異なる道を歩んだと言えるだろう。漁業の発展が港湾整備を後押しした構図は、全国各地の漁港にも見られるが、焼津の場合は特に鰹という単一魚種への集中と、それによる遠洋漁業基地化への動きが、港の形態を決定づける大きな要因となった。
現在の焼津は、遠洋漁業の拠点である焼津港と、近海・沿岸漁業の小川港、そして1964年(昭和39年)に大井川の河口を掘り込んで誕生した大井川港という、性格の異なる三つの港を持つ。焼津漁港は、その利用範囲が全国的である「特定第三種漁港」に指定されており、カツオ・マグロの水揚げ量は全国有数を誇る。
港の周辺には、水揚げされた魚を加工する工場がひしめき、特に鰹節の製造は現在も盛んだ。冷凍鰹の水揚げ量が日本一であるという地理的優位性も相まって、焼津は鰹節の一大生産地としての地位を維持している。「焼津鰹節」は地域団体商標にも登録され、その製造技術は市の無形文化財にも指定されているのだ。
しかし、現代の漁業は200海里漁業水域の設定や国際規制の強化、担い手不足など、多くの課題に直面している。焼津漁港もピーク時に比べ水揚量は減少傾向にあるものの、高鮮度保持のための超低温冷蔵庫や高度衛生管理に対応した卸売市場など、新たな設備投資を進め、持続可能な漁業と水産加工業の未来を模索している。
焼津が「港町」であったかという問いに対しては、単純な「はい」や「いいえ」では語りきれない多層的な歴史が見えてくる。古代から鰹という海の恵みと深く結びつき、江戸時代には漁業が発展を遂げたものの、現在の私たちがイメージするような「港」の姿は、近代になって人々の努力と技術革新によって形作られたものだ。
焼津の港は、自然の恵みを最大限に活かし、それを支えるために人々の知恵と労力が注ぎ込まれた結果、現在の姿になった。それは、単に船が停泊する場所というだけでなく、歴史の各段階で変化する漁業のあり方、そしてそれを取り巻く人々の生活と技術が凝縮された場所である。現代の活気ある漁港の風景の中に、遥か昔から続く鰹との縁や、港を築き上げた先人たちの熱意が静かに息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。