2026/5/20
広島の古代・中世:安芸国と備後国、二つの国の歴史を辿る

広島の歴史について詳しく知りたい。古代から中世まで。
キュリオす
広島県域の古代から中世にかけて、人類の活動は旧石器時代に遡る。弥生・古墳時代を経て、7世紀には安芸国と備後国が設置された。瀬戸内海の要衝として厳島信仰が興隆し、荘園が広がるなど、陸と海の結節点としての歴史が形成された。
広島県域における人類の活動は古く、約3万年前の後期旧石器時代にまで遡る。廿日市市の冠山周辺では、石器の材料となる安山岩の産地として、多くの石器製作跡が確認されているのだ。縄文時代には気候の温暖化とともに海岸線に沿って貝塚が形成され、広島市の比治山貝塚などがその証拠として残る。弥生時代には大陸からの稲作文化が伝播し、福山市の亀山遺跡では環濠集落が営まれるなど、集落の防御を伴う社会の変化が見られた。
古墳時代に入ると、有力な地域集団の存在が明らかになる。東広島市の三ツ城古墳は全長約92メートルを測る県内最大の前方後円墳であり、その規模は当時の政治的・経済的な力の集中を示している。また、三次盆地を中心に多くの古墳が築かれ、出雲や吉備、筑紫といった周辺地域の文化と交流しながら独自の発展を遂げていたことが、出土品からも窺える。
7世紀になると、律令国家の成立とともに現在の広島県域に「安芸国」と「備後国」が設置された。安芸国は7世紀に阿岐国造の領域に置かれ、備後国は7世紀末頃に吉備国が分割されてその西端が当てられたとされる。それぞれの国には国府が置かれ、安芸国府は現在の府中町に、備後国府は現在の福山市に位置したと考えられている。これら国府の設置は、中央政府の統治がこの地域に及んだことを示し、地方行政の中心として機能していくことになる。
安芸国の歴史を語る上で欠かせないのが、厳島(宮島)に鎮座する厳島神社である。社伝によれば、推古天皇元年(593年)に佐伯鞍職が社殿を創建したのが始まりとされる。古くから島全体が神聖な地として崇められ、「神に斎(いつ)く島」という意味で厳島と呼ばれたという。島そのものが信仰の対象であったため、一般の人が直接足を踏み入れることを避け、社殿は海上に築かれたのだ。
平安時代末期、厳島神社は歴史上決定的な転換点を迎える。平清盛が安芸守に任官したことを契機に、平氏一門の崇敬を集め、仁安3年(1168年)には神主佐伯景弘によって大規模な社殿の修築が行われた。現在の海上社殿の優美な寝殿造りの原型はこの時に形成されたもので、満潮時には社殿全体が海に浮かぶような姿となる。清盛は平家一門の繁栄を願い「平家納経」を奉納するなど、厳島信仰は平氏の勢力拡大とともに全国に広がり、瀬戸内海の海上交通の安全を守る神としても崇敬された。
鎌倉時代に入ると、建永2年(1207年)と貞応2年(1223年)に火災で社殿が焼失するが、鎌倉幕府の庇護のもと仁治2年(1241年)に再興された。この再興で造営された主要殿舎が、現在に残る社殿の基礎となっている。室町時代以降も、大内氏や毛利氏といった有力武将が厳島神社を保護し、応永14年(1407年)に五重塔、大永3年(1523年)に多宝塔が建立されるなど、社頭景観がさらに整えられていった。厳島神社は、単なる信仰の場に留まらず、各時代の権力者たちの思惑と財力によってその姿を変え、瀬戸内の海上交通の要衝としての宮島の重要性を象徴する存在となっていったのである。
古代・中世の広島地域は、瀬戸内海という地理的条件がその発展を大きく左右した。律令政府は当初、官道である山陽道の整備を進め、陸路による税の輸送を原則とした。しかし、大量の物資を効率的に運ぶためには水運が不可欠であり、次第に瀬戸内海を経由する海上交通の比重が高まっていったとされる。広島湾は南北方向の風が卓越し、波も穏やかであったため、夜間航行も可能であったという指摘もある。
この海上交通の要衝として、多くの港湾集落が成立した。平安時代初期の仏教説話集『日本霊異記』には、現在の福山市にあった「深津市」という市場が登場する。ここでは瀬戸内海の対岸である讃岐国(香川県)の商人も訪れ、内陸の備後国府と瀬戸内海水運を結ぶ結節点として機能していた。尾道も古くから潮待ち・風待ちの港町として栄え、中継地として活発な商取引が行われていた場所である。
一方で、内陸部では荘園が広がりを見せた。荘園とは、貴族や寺社が所有する私的な土地で、律令国家の支配体制が揺らぐ中で発展した。広島県域にも多くの荘園が設けられ、備後国世羅郡に存在した大田荘は、仁安元年(1166年)に平重衡が後白河院に寄進して成立し、平家滅亡後には高野山に寄進された大規模な荘園であった。安芸国でも、蓮華王院領の沼田荘など、大規模な荘園が見られた。これらの荘園は、年貢米の輸送のために尾道のような港に倉敷地(倉庫の敷地)を設けるなど、海運と深く結びついていたのだ。荘園の発展は、地域の生産力を高め、経済活動を活発化させる一方で、領主と在地住民との間で土地を巡る紛争も引き起こした。
古代から中世にかけての広島県域は、東の備後国と西の安芸国とで異なる特徴を持っていた。これは、地理的な条件とそれに伴う文化圏の影響が大きい。備後国は山陽道を通じて畿内との結びつきが強く、内陸部には三次盆地のような広い平野が開け、早くから鉄生産にも従事していた。また、瀬戸内海の中央に位置する鞆の浦は、潮待ち・風待ちの港として栄え、畿内と九州を結ぶ海上交通の要衝であった。
一方、安芸国は備後国に比べて山が海に迫り、平野には恵まれない地形であった。都との連絡や陰陽(山陰と山陽)を結ぶ交通においても、備後に比べて不利な面があったとされる。しかし、安芸国はむしろ西方、すなわち周防・長門や九州とのつながりが強かった可能性がある。これは、安芸国府が太田川下流域の安芸郡の地に置かれたことからも推測できる。また、安芸国は当時、造船技術が最も発達した国の一つであったとも言われる。
この東西の対比は、古墳の様相や寺院の数にも現れている。例えば、備後国には早くから大規模な寺院が建立された一方で、安芸国では寺院数が少ない傾向にあったという。また、瀬戸内海沿岸部では縄文時代から香川県産の安山岩が流通するなど、海上を介した物資の動きが活発であった。古墳時代には兵庫県産の竜山石が石棺として広い地域で利用されており、これも船によって運ばれたと考えられている。このように、広島県域は、西の九州北部文化、東の吉備や近畿文化、北の出雲文化がそれぞれ接する地域であり、瀬戸内海を介して四国伊予とのつながりも深く、多様な文化と政治勢力がせめぎ合う場であったのだ。
現代において、古代・中世の広島の歴史を最も色濃く感じさせる場所の一つは、やはり厳島神社だろう。現在も宮島に渡れば、朱塗りの大鳥居と海上社殿が織りなす景観が広がる。これは、平安時代に平清盛が整備した寝殿造りの様式を今日まで踏襲しているものであり、その後の毛利元就による本社本殿の建て替えや、昭和大修理といった修復事業を経て、その姿を保ち続けている。満潮時には社殿が海に浮かぶ景観は、古代から続く島全体への信仰と、それを具現化した建築技術の結晶と言える。
厳島神社は、1996年にユネスコの世界文化遺産に登録され、国内外から多くの観光客が訪れる。かつては神聖な禁足地であった島は、室町時代後期にはすでに市が立つようになり、市街地が発達していた。近世には一般民衆の参詣も盛んになり、現代では世界的な観光地としてその門戸を開いている。しかし、その根底には、古代からこの地で海と共生してきた「海人」(あま)たちの営みがある。安芸国では佐伯郡に「海郷」、安芸郡にも「安満郷」という地名が残り、これらは古代の海人たちが暮らした地域を指すと考えられている。彼らは漁業や製塩業、そして船を使った運輸業を主な生業とし、瀬戸内の海上交通を支えてきた存在だ。
現代の宮島や瀬戸内海の島々では、かつてのような「海人」の暮らしを直接的に見る機会は減ったかもしれない。しかし、漁業や水産加工業、観光業に携わる人々の中に、その歴史の延長線上にある営みを見出すことはできる。海上社殿の維持管理には、今も昔も変わらず、海と向き合う技術と知恵が求められている。厳島神社の大鳥居も、しばしば倒壊と再興を繰り返し、現在のものは明治8年(1875年)に再建されたものである。その姿は、自然の力に抗いながら、信仰と文化を守り継いできた人々の不断の努力を物語っている。
広島の古代から中世の歴史を辿ると、この地は「安芸国」と「備後国」という二つの異なる特性を持つ国が並立し、それぞれが畿内や九州、あるいは日本海側との多様な接点を持っていたことが分かる。安芸と備後の対比は、山が海に迫る安芸の地勢と、平野が広がる備後の地勢、そしてそれに伴う人々の生業や文化の差異として現れていた。
現代の広島県が持つ多様な地域性や文化の基層には、この古代・中世における二つの「国」の存在がある。瀬戸内海を介した活発な交流と、内陸部の独自の発展が、それぞれの地域に独自の文化を育んだ。厳島神社に代表される海上交通と信仰の文化は安芸の象徴であり、一方で備後では内陸の鉄生産や港町尾道の商業的な活気がその特色を形成していた。
この地域が後に「広島藩」として統合されるまでの長い道のりは、単一の歴史軸で語れるものではない。異なる地理的条件と、それに根ざした経済活動、そして多様な文化が交錯し、時には対立しながらも、互いに影響を与え合ってきた。広島の地は、常に複数の潮流が流れ込み、混じり合い、新たな形を生み出す結節点であったと言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。