2026/5/20
なぜ広島は川だらけのデルタ地帯に発展したのか

広島へ行くと、川がたくさん流れている。なぜあんな川がたくさんある場所が中心地に選ばれたのか?
キュリオす
広島の街に数多く流れる川は、治水が困難な場所である一方、水運の利便性や防御上の優位性、土地開発の可能性といった利点があった。毛利輝元による築城以来、人々は水害と向き合いながらデルタ地帯に都市を築き上げてきた。
広島の街を訪れると、目に飛び込んでくるのはいくつもの川の流れだ。太田川が瀬戸内海に注ぐ手前で幾筋にも分かれ、市街地の至るところを縫うように流れている。その様子はまさに「水の都」と呼ぶにふさわしい。しかし、これほどまでに川が入り組んだ場所が、なぜ中国地方の中心地として選ばれ、発展してきたのだろうか。治水が困難を極めるであろうことは、容易に想像できる。自然の猛威と隣り合わせのこのデルタ地帯に、いかにして都市が築かれ、人々は生活を営んできたのか。その問いは、広島の歴史を紐解く上で避けて通れない出発点となる。
広島の都市としての始まりは、安土桃山時代の武将、毛利輝元がこの地に城を築いたことに遡る。天正17年(1589年)、輝元はそれまでの本拠地であった吉田郡山城(現在の広島県安芸高田市)を離れ、太田川河口のデルタ地帯、当時「五箇村(五ヶ庄)」と呼ばれていた場所に新しい城の建設に着手したのだ。この地は、上流から流されてきた土砂が堆積してできた広大な三角州であり、小島や砂州が点在する低湿地であった。輝元は、数ある候補地の中から、最も広い島地であった五箇村を選定したという。
築城工事は穂田元清と二宮就辰を普請奉行として急ピッチで進められ、天正18年末には堀と城塁がほぼ完成し、翌年には輝元が入城した。この新しい城は「広島城」と名付けられ、城下町も同時に整備されていった。地名の「広島」は、毛利家の祖先である大江広元にちなみ「広」の字を冠し、デルタの造成が島作りであったこと、あるいは水軍の長であった福島信房の苗字に「島」の字があったことなどから付けられたという説がある。
関ヶ原の戦い後、毛利輝元に代わって福島正則が城主となり、外堀や外郭の整備を進め広島城を完成させた。さらに西国街道(山陽道)を城下町を通るように南下させ、出雲・石見街道も整備し、町人町の拡充を図った。その後、福島正則は洪水による城の損害を幕府の許可なく修築した咎で改易され、元和5年(1619年)に浅野長晟が新たな城主として入城する。以後、明治維新までの約250年間、浅野家が広島藩主を務め、このデルタ地帯を政治・経済・文化の中心として発展させていくことになる。
治水が大変そうな場所にあえて城と町を築いた背景には、このデルタ地帯が持つ複数の利点があった。まず、最も重要なのは水運の利便性である。当時の物流の主役は海上交通であり、太田川の河口に位置する広島は、瀬戸内海へのアクセスに優れていた。川を通じて内陸部との物資輸送も可能であり、太田川水系では古くから河川舟運が発達していたのだ。城下町の整備とともに舟運はさらに発展し、年貢米、木炭、紙、鉄など様々な物資が川船で運ばれた。
次に、防御上の優位性も挙げられる。多くの川が複雑に流れ込むデルタは、天然の堀として機能し、敵の侵入を阻む要害となり得た。広島城は、内堀、中堀、外堀の三重構造を持ち、西は旧太田川(本川)を天然の堀として利用していた。平地に築かれた「平城」でありながら、その実戦的な城構えは、水の力を防御に最大限に活かした結果と言えるだろう。
さらに、土地開発の可能性も魅力であった。デルタ地帯は低平で軟弱な地盤という課題を抱える一方で、干拓によって新たな土地を生み出すことができる。毛利輝元による築城以降、江戸時代を通じて太田川が運搬してきた土砂を利用した干拓が進められ、海に向かって土地が拡大していった。これらの「新開」と呼ばれる土地は主に耕作地として利用され、城下町の発展を支える基盤となった。
もちろん、治水への課題は常に存在した。太田川流域は、花崗岩が風化してできるマサ土が多く、土砂崩れや洪水が頻繁に発生しやすい地形的特徴を持つ。加えて、高潮の被害も度々街を襲った。広島藩は、城側の堤防を高くし、対岸を低くすることで洪水を遊水させる「水越の策」を講じたり、川ざらえ(浚渫)を行ったりと、様々な治水事業に取り組んだ。また、鉄穴流し(製鉄のための砂鉄採取)が土砂の供給を増やし、川の埋没を早めるとして禁止されるなど、上流からの土砂流出にも対策が講じられた。これらの工夫は、水害の脅威と向き合いながら、この地で都市を維持・発展させるための知恵であったと言える。
広島のように、河川が運んだ土砂が堆積してできた三角州(デルタ)に中心都市が築かれた例は、国内外に少なくない。例えば、大阪は淀川の広大なデルタ地帯に発展した都市であり、古くから水運の要衝として栄えた。また、イタリアのヴェネツィアも、アドリア海のラグーン(潟)に築かれた水の都として知られる。これらデルタ都市の多くに共通するのは、水運の利便性から商業や交易の中心地として発展しやすいという側面だろう。陸上交通が未発達だった時代において、大量の物資を効率的に運ぶには船が最も有効な手段であった。
しかし、デルタ都市には共通の課題も付きまとう。地盤の軟弱さ、洪水の危険性、そして高潮による被害だ。例えば、アメリカのニューオーリンズはミシシッピ川のデルタに位置し、過去に何度もハリケーンによる高潮や洪水で甚大な被害を受けている。広島も例外ではなく、江戸時代から度重なる洪水に見舞われ、特に明治から昭和初期にかけては、数年おきに大規模な水害が発生している。
他のデルタ都市が治水のために大規模な運河や放水路を整備してきたように、広島もまた、水害との闘いの歴史を歩んできた。江戸時代の「水越の策」のように、ある程度の水害を許容しつつ被害を最小限に抑える方法が取られていた時期もある。しかし、近代に入り都市機能が集積するにつれて、より抜本的な治水対策が求められるようになった。この点は、地形的な制約と経済的な発展の狭間で、為政者や住民が常に判断を迫られてきたデルタ都市の宿命とも言える。広島がこの課題に対し、どのように大規模なインフラ整備で応えていったのかは、後の時代に大きな影響を及ぼしている。
現代の広島市街地を流れる川は、太田川放水路、天満川、旧太田川(本川)、元安川、京橋川、猿猴川の六本とされる。かつては七本の川が存在したとも言われるが、戦後の河川改修によって一部は統合・埋め立てられ、現在の姿になった。特に大きな転換点となったのが、昭和初期に計画され、戦中の中断と戦後の困難を経て昭和42年(1967年)に完成した太田川放水路である。これは、太田川の洪水を市街地デルタに流入する前に分派させ、広島市中心部を水害から守るための大規模な事業であった。放水路の完成以降、広島市中心部は大規模な水害をほとんど免れており、その洪水調節機能は現在も100万都市の安全を守っている。
現代において、川の役割は、かつての主要な物資輸送路から変化している。陸上交通の発達により川船による輸送は一部を除き昭和10年代には終わりを告げた。しかし、川は都市の景観を形成する重要な要素として、また市民の憩いの場として、その価値を再認識されている。平和記念公園前の元安川などには、水辺に昇降するための階段状の施設である「雁木(がんぎ)」が今も多く残り、かつての舟運の歴史を伝えている。広島市では、これらの雁木や河岸緑地を活用した「水の都ひろしま」構想を進め、水辺のオープンカフェや水上交通の活性化など、新たな水辺の魅力を創出しようとしている。
しかし、デルタ地帯に築かれた都市としての課題が完全に消滅したわけではない。高潮対策や、上流部からの土砂流出による河床上昇への継続的な対応など、水辺との共生は現代においても重要なテーマである。太田川水系では、温井ダムのような多目的ダムが建設され、上流部からの洪水調節も強化されている。
広島の街を流れる無数の川は、一見すると治水を困難にする要素のように思える。しかし、その水の多さこそが、この地が都市として選ばれ、発展を遂げた根源であったと言えるだろう。毛利輝元がこのデルタに城を築いたのは、単なる平地の確保だけでなく、海上交通という当時の物流の要を抑える戦略的な判断と、複雑な水路を防御に活かすという合理的な見立てがあったからだ。治水の困難さは常に伴ったが、それは利便性や防御力と引き換えに受け入れられてきた課題であった。
都市の発展とともに、人々は水害と向き合い、堤防の築造から大規模な放水路の建設、そして現代のダム建設に至るまで、絶えず水との関係を再構築してきた。その過程で、川は都市の風景を形作り、市民の生活の中に深く根差していった。広島の川は、単なる地理的特徴ではなく、この都市の歴史と文化を織りなす、生きた証なのである。街を歩き、川の流れに目をやるとき、そこに流れるのは、400年以上にわたる人々の知恵と努力の軌跡だ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。