2026年5月16日
杵築の「サンドイッチ型城下町」はどのように生まれたのか?
大分県杵築市は、二つの高台に武家屋敷、谷間に商人の町が配置された「サンドイッチ型城下町」として知られる。本記事では、この独特な都市構造の成り立ちと、地形を活かした生活、そして茶や柑橘類などの名産品について解説する。
高台に挟まれた商家の町
大分県杵築の城下町を歩くと、独特の地形が視覚に強く訴えかけてくる。北と南、二つの高台に武家屋敷が並び、その谷間に商人の町が東西に伸びる。この高低差を巧みに利用した構造は、「サンドイッチ型城下町」と形容され、全国的にも珍しいものだと言われている。酢屋の坂や志保屋の坂といった石畳の坂道は、武家地と町人地をつなぐだけでなく、この町の立体的な景観を際立たせる。なぜ、このような独特の都市構造がこの地に築かれ、どのような生活や文化を育んできたのか。その問いは、坂道を上り下りしながら、過去の営みを想像させる。
木付から杵築へ、要害の変遷
杵築の地の歴史は室町時代に遡る。応永元年(1394年)、大友氏の一族である木付氏が八坂川の河口にある台山に城を築いたのが始まりで、当初は「木付城」と呼ばれた。この城は北に高山川、南に八坂川、東を守江湾に囲まれた天然の要害であり、戦国時代には島津氏の大軍による2ヶ月間の猛攻にも耐え抜いたことから「勝山城」の別称も持つ。
しかし、木付氏が文禄の役での大友義統の失態により改易されると、城主は杉原長房、早川長政、細川忠興へと変遷する。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの後、細川忠興が豊前一国を領すると、一時的に木付もその支配下にあった。寛永9年(1632年)には細川氏の転封に伴い、小笠原忠知が4万石で入封し、杵築藩が成立する。
正保2年(1645年)、小笠原氏が三河吉田へ加増移封されると、能見松平家7代目の松平英親が豊後高田から3万2千石で入部し、以降明治維新まで松平氏が杵築藩を治めることになる。松平英親は、それまでの山城部分を廃し、台山の北西麓に御殿を築いた。この時期に城下町の地割がおおむね整えられたと考えられている。さらに、正徳2年(1712年)、将軍徳川家宣から下賜された朱印状に「木付」が誤って「杵築」と記されていたことから、幕府に願い出て以降「杵築」の表記が用いられるようになったという経緯がある。
坂道が織りなす町の骨格
杵築の城下町を特徴づける「サンドイッチ型」の構造は、自然地形を最大限に活かした都市計画の結果である。八坂川と高山川に挟まれた河口の独立丘に築かれた杵築城を東端とし、その西側に広がる南北の台地には武家屋敷が、そしてその間の谷筋には商人の町が配置された。
この高低差は単なる景観上の特徴に留まらない。高台に位置する武家屋敷群は、高い石垣や土塀、長屋門が連なり、防御的な役割も果たしていた。一方、谷間の商人の町は、物資の流通や経済活動の中心となり、異なる機能を持つ地区が明確に分離されていた。酢屋の坂や志保屋の坂といった石畳の坂道は、これら武家地と町人地を結ぶ重要な交通路であり、町の生活動線を形成していたのだ。これらの坂は、馬や籠の歩幅に合うように勾配が工夫されたものも存在する。
このような構造は、限られた平地を効率的に利用しつつ、防御性と機能性を両立させるための知恵であったと言える。城下町は、武士の居住地、庶民が商売を行う町人地、そして寺院を集中的に配置した寺町などによって構成されるが、杵築ではその配置が地形と密接に結びついていた。
風土が育んだ「きつき」の産物
杵築の独特な地理と歴史は、多様な名産品を生み出してきた。温暖な気候と山間部の高低差に恵まれたこの地では、古くから茶の栽培が盛んである。寛文年間(1661年~1672年)頃には、松平英親が家臣に命じて宇治から茶の種子を取り寄せ、茶園を開かせたのが始まりとされている。 杵築茶は、深いコクと豊かな香りが特徴で、生産から流通までの一貫体制を確立し、銘柄確立にも力を入れてきた。
また、杵築は柑橘類の栽培も盛んな地域である。柑橘栽培の歴史は古く、文久元年(1861年)頃には、武家屋敷や農家で文旦や夏みかん、カボスなどが自給用に植えられていたという。明治時代には山口県から夏みかんの苗が導入され、温州みかんの栽培も本格化した。特に、地元の中学校教員が企業的経営の先駆的役割を果たすなど、珍しい形で発展を遂げた。戦後にはハウスみかんの栽培が始まり、一時は県下最大の産地となる。 徹底した管理のもとで育つ杵築のハウスみかんは、酸味が少なく、ほどよい甘さとみずみずしさが特長とされている。
守江湾に面する地域では、大小9つの河川が流入し、豊富な栄養分によって牡蠣の養殖が盛んに行われてきた。明治33年(1900年)から養殖が試みられ、戦後に本格化している。 さらに、粘土質の赤土と清らかな水に恵まれた山香地域では米作が盛んで、「山香米」として知られる。
手仕事の分野では、江戸時代から杵築藩の財政を支えたとされる七島藺(しちとうい)の栽培が近年復活し、畳表や草履などの伝統工芸品として見直されている。 また、明治10年創業の萬力屋が作る「きつき桧曲輪」に代表される木製品や、竹工芸もこの地の伝統として受け継がれている。
他の城下町との対比
杵築の「サンドイッチ型城下町」は、全国的に見てもその特異性が際立つ。一般的に城下町は、城郭を中心に堀を巡らせたり、平地に碁盤の目状の町割りを形成したりする例が多い。例えば、松本城下町(長野県)では、城を中心に武家屋敷や町人地が広がり、堀や食い違いの道が防御的な役割を担っていた。 津和野城下町(島根県)や萩城下町(山口県)のように、山陰の小京都と呼ばれる町では、武家屋敷の表門や藩校跡が残り、水路に鯉が泳ぐ風情ある景観が見られる。 また、角館(秋田県)では、火除けを境に武家と町人地を明確に分ける独特の町割りが見られる。
これらの城下町が平地や緩やかな傾斜地を利用して発展したのに対し、杵築は、河口の岬状の台地に城を築き、その西側に続く二つの高台と谷筋という起伏の激しい地形を、都市構造の根幹として受け入れた。これは、平地の少なさを逆手に取り、自然の要害を最大限に活用した結果である。武家屋敷と商人の町が明確に分離され、それぞれが高台と谷に配置されることで、機能的な区分だけでなく、視覚的な対比も生み出している。これは地形に逆らうことなく、むしろ地形を味方につけて都市を形成した、ある種の「適応の美学」とも言えるだろう。
現代に息づく歴史の景観
現代の杵築は、その独特な城下町の景観を貴重な観光資源として積極的に保存・活用している。国選定の重要伝統的建造物群保存地区に指定された武家屋敷群や石畳の坂道は、江戸時代の面影を色濃く残し、訪れる人々を魅了している。 特に、酢屋の坂から志保屋の坂を望む景色は、杵築を代表する景観として多くのメディアで紹介されている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。