2026年5月14日
弘前城の天守が動いた!二度の曳家が語る文化財保存の歴史
弘前城の天守は、明治期と2015年に曳家によって移動された。これは石垣の損傷修復のためであり、解体再建ではなく文化財のオリジナリティを尊重した選択である。本記事では、弘前城の二度の曳家を軸に、その技術や他の城郭との比較、そして文化財保存のあり方について解説する。
弘前城の曳家、その足跡
弘前城の天守が動く、という話を聞いた時、多くの人はまずその規模を想像するだろう。石垣の上にそびえる重厚な木造建築が、文字通り「曳かれて」移動する。それはまるで、時間の流れから一時的に切り離され、新たな場所へと据え直されるかのような光景だ。しかし、この一連の動きは、単なる驚きだけでは捉えきれない、弘前という土地と、そこに暮らす人々の歴史保存に対する独特な姿勢が凝縮されたものなのではないか。なぜ、城は動かされ、そしてなぜ、それが一度ならず繰り返されてきたのか。この問いは、単なる工法の話に留まらない、文化財と地域の関係性を見つめ直すきっかけとなる。
天守が動いた過去と、石垣の変調
弘前城の天守が曳家によって移動したのは、今回が初めてではない。実は、明治時代にも一度、曳家が行われた記録が残っている。弘前城は、江戸時代初期の慶長16年(1611年)に津軽為信の子、信枚によって築城された。現在の天守は文化7年(1810年)に再建されたもので、これは江戸時代に再建が許された数少ない天守の一つである。 この天守は、築城当初の位置から、明治期に一度動いている。明治維新後、廃城令が出され、多くの城郭が取り壊される中で、弘前城もまたその運命にあった。しかし、市民運動によって天守は保存され、陸軍の施設として利用されることになった。この際、敷地利用の都合から、天守は曳家によって移動されたのだという。
そして、21世紀に入り、再び天守を動かす必要が生じた。主な理由は、天守を支える石垣の損傷である。弘前城の石垣は、築城から400年以上の時を経て、その多くが老朽化や地震の影響で変状を起こしていた。特に、天守台の石垣は「はらみ出し」と呼ばれる現象で、石垣が外側に膨らみ、倒壊の危険性が指摘されていたのだ。 この変状は、石垣内部の土圧や、度重なる地震、そして冬期の凍結融解作用などが複合的に影響したものと考えられている。石垣の修復は喫緊の課題であり、そのために天守を一時的に別の場所へ移す「曳家工法」が選択された。この大規模な石垣修理は、約10年の歳月をかけて行われる計画であり、天守はその間、仮設の台座に据え置かれることになった。
曳家工法の緻密な計画と技術
弘前城天守の曳家は、石垣修理という明確な目的のために、極めて緻密な計画のもとに実行された。曳家工法とは、建物を解体せずにそのまま移動させる伝統的な建築技術である。弘前城の天守は、高さ約14.4メートル、重さ約400トンという巨大な木造建築物であり、これを安全に移動させるためには、高度な技術と経験が求められた。
具体的には、まず天守の基礎部分を特殊なジャッキで持ち上げ、その下にレールを敷設する。そして、レールの上をローラーに乗せた天守を、油圧ジャッキやワイヤーロープを使って少しずつ牽引していくのだ。 この作業は、ミリ単位の精度が要求され、天守の構造に無理な力がかからないよう、常に監視しながら慎重に進められた。天守内部には多数のセンサーが設置され、移動中の傾きや歪みをリアルタイムで計測。わずかな異常も見逃さない体制が敷かれたという。
今回の移動は、天守台から南東へ約70メートル離れた仮設台座まで行われた。この距離は、石垣の全面的な修復作業スペースを確保するために必要とされたものだ。 天守を解体して修理後に再建する選択肢も検討されたが、曳家工法が選ばれたのは、文化財としてのオリジナリティを最大限に尊重するためである。解体再建では、部材の損傷や消失のリスクがあり、また建築当初の部材配置や接合方法といった情報が失われる可能性も否定できない。曳家は、建物の構造をそのまま保ちながら移動させるため、そうした文化財的価値の維持に貢献すると考えられたのだ。
他の城郭との比較から見えてくる「動く城」の特異性
日本の城郭において、天守が曳家によって移動される事例は決して多くはない。多くの場合、石垣の損傷や老朽化が進んだ際には、天守を解体し、石垣を修理した後に再建するという手法が取られてきた。例えば、熊本城の飯田丸五階櫓は、熊本地震で石垣が崩壊した際、一度解体されて修理後に再建された。また、名古屋城の天守も、戦災で焼失した後、鉄筋コンクリートで再建され、現在木造復元が検討されているが、これも解体・再建の議論が中心である。
しかし、弘前城の天守は、明治期と今回の二度にわたる曳家によって、その存在そのものが「動く城」という特異な側面を持つことになった。この違いは、単に工法の選択にとどまらない、文化財に対する考え方の違いを示唆している。弘前城の場合、天守は「石垣と一体となって初めて城である」という認識よりも、「天守そのものが独立した文化財として価値を持つ」という見方が強いのかもしれない。また、曳家工法は、解体・再建に比べて工期が短く、費用も抑えられるという実用的なメリットも大きい。 これは、限られた予算の中で文化財を維持していくための現実的な選択肢とも言えるだろう。
一方で、海外に目を向ければ、大規模な建造物の移動は、必ずしも珍しい事例ではない。エジプトのアブ・シンベル神殿は、アスワン・ハイ・ダム建設に伴う水没から救うため、岩盤ごと切り出してより高い場所へ移設された。これは、遺跡全体を保存するための国家的なプロジェクトであった。また、アメリカでは、歴史的建造物や住宅が、都市開発や道路建設の際に曳家によって移動されることが比較的多く見られる。これらの事例に共通するのは、対象となる建造物の文化財的価値だけでなく、その土地の歴史や人々の記憶をい含めて保存しようとする意志である。弘前城の曳家もまた、天守という具体的な建造物を通じて、そこに宿る歴史や地域の人々の記憶を守ろうとする試みと捉えることができるだろう。
石垣修理の現在地と、市民が曳いた綱の記憶
2015年に始まった弘前城天守の曳家は、2026年の石垣修理完了、そして天守の元の位置への帰還を目指して進行している。 現在、天守は仮設台座に据え置かれ、その足元では職人たちによる石垣の解体・積み直し作業が続けられている。この大規模な修復プロジェクトは、単に石垣を物理的に直すだけでなく、江戸時代の築城技術を再検証し、未来へと継承する場ともなっている。
この一連の動きの中で、地元の人々が「前に動かした時、記念にみんな綱を引っ張った」という話は、単なる逸話以上の意味を持つ。2015年の曳家では、市民が参加して天守を曳く「曳家体験」が実施され、多くの人々が綱を引くことで、この歴史的な事業に直接関わった。 この市民参加は、単なるイベントではなく、文化財の保存が専門家だけのものではなく、地域住民全体の共有財産であるという意識を育む機会となった。自分たちの手で城を動かしたという経験は、弘前城への愛着を一層深め、未来へと語り継がれる記憶となるだろう。また、この取り組みは、文化財の維持管理における資金調達や、次世代への技術継承といった現代的な課題に対しても、地域社会が一体となって取り組む重要性を示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。