2026/5/18
久留米絣とブリヂストンを生んだ筑後川流域の歴史

久留米にも行った。久留米は歴史的にどういう場所だったのか詳しく知りたい。
キュリオす
福岡県久留米市は、筑後川の恵みと肥沃な平野に支えられ、古くから稲作や綿花栽培が盛んだった。江戸時代には井上伝が久留米絣を考案し、明治以降は地下足袋からタイヤ産業へと発展。水害との闘いの中で培われた創意工夫が、この地の産業を育んできた。
筑後川のほとりに立つと、その広大な流れと、どこまでも続く平野に目を奪われる。夏には特に、その開けた土地が太陽の熱を一身に受けていることを肌で感じるだろう。福岡県の南部に位置する久留米は、この豊かな自然環境のただ中にあり、古くから人々の営みが続いてきた土地である。約2万年前の旧石器時代にはすでに人々が暮らし、温暖な気候と水利を生かして、全国的にも早い時期から稲作が始まったと推測されている。さらに古代国家の地方政庁である筑後国府が置かれたことで、北部九州における行政と交通の要衝としての役割を担うことになった。この肥沃な大地と、時に荒々しい大河が交錯する場所で、久留米は一体どのような歴史を紡いできたのか。その問いの答えは、この土地固有の条件と、それに応じた人々の選択の中に見出すことができるだろう。
久留米の歴史を語る上で、筑後川と久留米城、そして有馬氏の存在は不可欠である。久留米城は、室町時代後期の永正年間(1504〜1521年)に土豪の砦として築かれたのが始まりとされている。その後、天正15年(1587年)の豊臣秀吉による九州仕置を経て、小早川秀包が入城し、近世城郭としての体裁が整えられた。
関ヶ原の戦いの後、筑後一国は田中吉政の所領となり、久留米城にはその子の田中則政が置かれたが、慶長20年(1615年)の一国一城令により破却されたという経緯がある。 しかし、元和6年(1620年)に田中家が無嗣断絶となると、その所領は分割され、丹波国福知山藩主であった有馬豊氏が筑後中部・北部21万石の領主として久留米に入封した。
有馬氏は、初代豊氏から明治維新に至るまで約250年間、11代にわたって久留米藩を治めた。彼らは久留米城の大改修を行い、それまでの東向きだった城の構えを南向きに改め、二の丸、三の丸、外郭を整備した。 城の北西を筑後川、東を沼地に囲まれた要害としての地形を最大限に活用し、藩政の中心として機能させたのである。 この有馬氏の統治下で、久留米は城下町として発展し、後の産業の礎が築かれていくことになる。
久留米の土地は、筑後川がもたらす豊かな水と肥沃な筑後平野に恵まれ、古くから農業が盛んであった。特に綿花栽培に適したこの環境は、江戸時代後期にひとつの画期的な産業を生み出すことになる。 1800年頃、久留米藩の城下に暮らしていた当時12〜13歳の少女、井上伝が「久留米絣」の技法を考案したのだ。 古着の藍染めの色あせた部分が斑点模様になっていることに着目した伝は、糸を括って染め分け、織り上げることで、独特のかすれた模様を持つ布を作り出した。 この「加寿利」(後の久留米絣)は、通気性が良く丈夫であることから、普段着や作業着として広く普及し、多くの弟子たちが伝のもとで学び、その技法は筑後地域全体に広まっていったのである。
明治時代に入ると、久留米は足袋の生産地としても知られるようになる。特に「つちや足袋」(現在のムーンスター)の倉田雲平や、「しまや足袋」(現在のアサヒシューズ)の石橋徳次郎といった企業家たちが、足袋製造に専念し、生産の機械化を進めた。 そして大正12年(1923年)、両社は滑りやすい足袋の欠点を改善するため、ゴム底を貼り付けた「地下足袋」を開発した。これは全国で爆発的なヒット商品となり、足袋製造業からゴム製品製造業へと業態を転換する契機となった。 さらに、日本足袋から独立した石橋正二郎が、自動車の普及を予見し、昭和6年(1931年)に「ブリヂストンタイヤ」を創業。 久留米は、ゴムの原料が採れるわけでも、主要な輸入港があるわけでもないにもかかわらず、「地下足袋」という身近な製品から、やがて世界のトップメーカーへと成長するタイヤ産業へと発展していく。 この背景には、単なる地の利だけでなく、新しいものを生み出そうとする創意工夫と探究の精神があった。
久留米が筑後川の恵みを受けて発展してきたことは確かだが、その歴史は常に水との共存、そして時に水との闘いの連続でもあった。筑後川は、利根川(坂東太郎)、吉野川(四国三郎)と並び、「筑紫次郎」の異名を持つ日本三大暴れ川の一つに数えられている。 その豊富な水量は、筑後平野の農業を支える一方で、たびたび大規模な洪水を引き起こしてきた。明治22年(1889年)、大正10年(1921年)、昭和28年(1953年)に発生した大洪水は「筑後川三大洪水」と呼ばれ、甚大な被害をもたらした記録が残る。
江戸時代、筑後川流域の治水事業は、各藩が自領を守るために個々に行うことが多かった。久留米藩も安武堤防の築造を行うなどしたが、対岸の藩との連携が乏しく、かえって洪水被害を増幅させる側面もあったという。 これは、同じく大河が流れる地域における治水事業とは異なる点である。例えば、特定の藩が広域的な視点で大規模な治水を行い、その恩恵が広く及んだ事例と比較すると、筑後川では各藩の個別最適化が、結果として全体最適化を阻害する状況が見られた。 しかし、この絶え間ない水害との対峙が、久留米の人々に逆境を乗り越えるための実直なものづくりの精神や、創意工夫を促す原動力となったとも考えられる。 肥沃な大地がもたらす豊かさと、暴れ川が突きつける厳しさ。この二律背反する自然条件の中で、久留米の産業と文化は独自の道を切り開いていったのである。
久留米の街を歩くと、その歴史が現代に息づいていることを感じさせる。江戸時代から続く久留米絣は、1957年に重要無形文化財、1976年には国指定の伝統的工芸品に指定され、今もその伝統技術が守り伝えられている。 現代の生活様式に合わせた洋服や小物、インテリアなども生み出され、国内外で評価されている。 また、日本のゴム産業発祥の地としての顔も健在である。かつて地下足袋を開発したムーンスターやアサヒシューズは、今や日本を代表する靴製造企業となり、ブリヂストンは世界的なタイヤメーカーとしてその地位を確立している。 JR久留米駅前には、ブリヂストンの創業者である石橋正二郎の胸像や、世界最大級のタイヤのモニュメントが設置されており、ゴム産業の歴史が街の象徴として存在している。
久留米城の遺構としては、本丸の石垣や内濠が残り、その跡地には藩祖有馬豊氏を祀る篠山神社や、歴代藩主の武具・工芸品などを展示する有馬記念館が建てられている。 二の丸や三の丸は、ブリヂストン久留米工場の敷地の一部となっており、歴史と現代産業が隣接する風景を見ることができる。 久留米は、福岡市、北九州市に次いで福岡県内第3位の人口規模を持つ中核市として、交通の要衝であり続けるとともに、多様な産業が集積する地域の中核を担っている。
久留米の歴史を紐解くと、そこには九州一の大河である筑後川と、その恵みを受けた肥沃な平野という、揺るぎない自然条件がある。この土地は、古くから人々の生活を支え、稲作や綿花栽培といった一次産業の基盤を築いてきた。そして、その恵みを最大限に生かしつつ、時に水害という厳しい試練に直面しながらも、人々は常に創意工夫を重ねてきたのである。
井上伝による久留米絣の誕生や、地下足袋からタイヤ製造へと発展したゴム産業の軌跡は、この土地固有の「ものづくり」の精神が具現化したものと言えるだろう。自然の恩恵を享受し、それを産業として昇華させる力。そして、困難に直面した際に、既存の枠組みにとらわれず、新たな技術や発想で乗り越えようとする粘り強さ。久留米の歴史は、こうした土地の条件と人々の営みが織りなす、具体的な物語によって形作られてきたのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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