2026年5月14日
島津四兄弟の足跡をたどる!鹿児島に残るゆかりの地巡り
本記事では、戦国時代の島津家を支えた島津四兄弟(義久、義弘、歳久、家久)のゆかりの地を巡ります。彼らが生まれた日置市伊作亀丸城跡から、義久が晩年を過ごした霧島市富隈城跡、義弘が関ヶ原の戦いを経て晩年を過ごした姶良市加治木、そして歳久が最期を迎えた鹿児島市心岳寺跡まで、ゆかりの地を辿ることで、島津家の歴史と鹿児島という土地の風土に触れます。
桜島を背に、義弘の跡をたどる
桜島を間近に望む地で、島津義弘の蟄居跡に立つと、ただならぬ感慨を覚える。関ヶ原の戦いにおけるあの壮絶な「島津の退き口」を経て、薩摩に帰還した猛将が、この穏やかな風景の中で何を思っていたのか。歴史の教科書で読んできた「島津四兄弟」という言葉は、鹿児島という土地に足を踏み入れると、単なる知識ではなく、血の通った物語として立ち現れてくる。彼らがこの地で何を成し、どのような痕跡を残したのか。点在するゆかりの地をたどることは、単に過去をなぞるだけでなく、この土地の骨格を理解することにも繋がるだろう。
九州を駆けた四つの星
島津家は鎌倉時代に源頼朝から島津荘の地頭職を与えられたことに始まり、薩摩・大隅・日向の三ヶ国を約700年にわたり支配した名門である。 その中でも、15代当主・島津貴久の子である四兄弟、すなわち長男・義久、次男・義弘、三男・歳久、四男・家久の時代は、島津家が南九州の枠を超え、九州全土にその勢力を拡大した戦国期の頂点だった。
1566年(永禄9年)、家督を継いだ義久は、父貴久の悲願であった三州統一を推し進めた。 義弘は1572年(元亀3年)の木崎原の戦いで伊東氏を大破し、島津の勢いを九州規模へと引き上げる決定打となる。 翌1578年(天正6年)には耳川の戦いで大友宗麟の大軍を撃破し、日向国を領国化した。 さらに1584年(天正12年)には、家久が沖田畷の戦いで龍造寺隆信を討ち取り、肥前国(現在の佐賀県・長崎県)における島津の優位を確立した。 義久は全体を統括し、義弘は軍事指揮、歳久は知略、家久は突撃隊長のような役割分担があったとも言われているが、いずれにしても兄弟の連携が島津の快進撃を支えたことは確かだ。
しかし、九州統一を目前とした1587年(天正15年)、天下統一を進める豊臣秀吉の九州平定軍が来襲する。 20万とも言われる圧倒的な兵力を前に、島津軍は各地で敗退を重ね、義久は川内の泰平寺で剃髪して秀吉に降伏した。 これにより、島津家は薩摩・大隅両国と日向国諸県郡の一部のみを安堵されることになった。 九州の覇者となる夢は破れたものの、島津家はかろうじて大名としての存続を許されたのである。
義久の隠居、義弘の退き口、歳久の反骨
四兄弟それぞれの足跡は、鹿児島の各地に色濃く残されている。日置市にある伊作亀丸城跡は、島津忠良、貴久、そして四兄弟が生まれたとされる地であり、城跡には誕生石の碑が建てられている。 島津家にとっての「ふるさと」とも言える場所だ。
長男・義久は、豊臣秀吉への降伏後、1595年(文禄4年)から1604年(慶長9年)まで、大隅国(現在の霧島市隼人町住吉)の富隈城を居城とした。 富隈城は、戦国期の防御を重視した城というよりは、平地の丘に築かれた屋敷のような性格が強かったとされ、義久はこの地で国分の町の発展に尽力したという。 関ヶ原の戦いを経て薩摩に帰還した義弘が、兄・義久と対面したのもこの富隈城であったと伝えられている。
