2026/5/19
阿蘇の草原に牛馬が放牧される理由:千年続く野焼きと放牧の循環

阿蘇山では馬や牛が放牧されているのはなぜ?
キュリオす
阿蘇の広大な草原は、自然にできたものではなく、1万年以上前の縄文時代から続く野焼きと放牧、採草の営みによって維持されてきた。この循環システムは、生物多様性の保全や水源涵養にも寄与し、世界農業遺産にも認定されている。しかし現在、人手不足や畜産業の衰退により、その維持が課題となっている。
阿蘇の広大な草原に立つと、まずその規模に圧倒される。見渡す限り緩やかな起伏が続き、緑の絨毯が遠くの山並みまで広がっている。その中に点々と草を食む馬や牛の姿は、あたかも太古から変わらぬ牧歌的な景色のようだ。しかし、この風景が単なる自然の産物ではないことを知る者は少ない。なぜ阿蘇の山には木ではなく草が生い茂り、そしてなぜそこに牛馬が放牧されているのか。この問いは、この土地と人との関わりの深さを探る入口となるだろう。
阿蘇の草原の歴史は、想像以上に古い。土壌中の花粉化石などの研究によれば、この地に人が住み始め、草原へと景観が変化したのは1万年以上前の縄文時代にまで遡ると言われている。また、平安時代の古文書「延喜式」(905年)には、既に牛馬の放牧畜産が営まれていた記録が残されているという。
日本の気候は本来、降水量が多く、山を放置すれば速やかに樹木が生い茂り森になるのが一般的だ。阿蘇も例外ではない。しかし、この地では千年以上もの間、草原が維持されてきた。その背景には、人為的な管理、特に「野焼き」と牛馬の放牧が深く関わっている。
野焼きは、毎年2月下旬から4月上旬にかけて行われる大規模な火入れ作業である。枯れ草を焼き払い、新しい草の芽吹きを促すこの営みは、単なる農作業を超え、阿蘇の春を告げる風物詩として定着している。 かつては狩猟の神事として火が使われた記録も残る。 明治期には約45,000ヘクタールあった阿蘇の草原面積は、野焼きの減少により現在では半分以下に縮小したというデータもある。 これは、人の手が入らなければ草原が森林に遷移していくことを明確に示している。牛馬は、こうした野焼き後の豊かな草地で放牧され、地域の農業や生活を支える重要な存在であった。 彼らは役牛として田畑を耕し、ものを運び、また糞は田畑の肥料として利用されるなど、地域社会の基盤を形成してきたのだ。
阿蘇の草原が広大なままであり続ける理由は、野焼き、放牧、そして採草という三つの営みが互いに連携し、循環していることに求められる。これらは「人の手がつくる自然」の典型例だと言えるだろう。
まず、春の「野焼き」が草原維持の起点となる。枯れた草や木の芽を焼き払うことで、地表に光と熱が届き、新しい草の芽吹きが促される。 また、越冬する害虫や病原菌を駆除する効果もあり、牛馬の放牧衛生を確保する役割も持つ。 この火入れがなければ、低木が侵入し、数年で草原は林へと変化してしまう。
次いで、4月から11月頃にかけて行われるのが「放牧」である。冬の間は畜舎で過ごした「あか牛」や馬が草原に放たれ、草を食む。 牛馬は、伸びた草を食べることで、草原の遷移(森林化)を抑制し、特定の植物が優占するのを防ぐ。 特に阿蘇の「あか牛」(褐毛和種)は、温厚な性質で粗食に耐え、環境適応能力が高いことから放牧に適しているとされる。 一日に40〜50キログラムもの牧草や野草を食べる彼らの存在は、文字通り「緑を維持するパートナー」なのだ。
さらに、夏から秋にかけては「採草」が行われる。刈り取られた草は、牛馬の冬の飼料や田畑の堆肥、さらには茅葺き屋根の材料として利用されてきた。 このように、野焼きで草原をリセットし、牛馬が草を食み、人が草を刈り取るという一連のサイクルが、阿蘇の独特な草原生態系を維持してきたのである。 この複合的な営みは、2013年に国連食糧農業機関(FAO)の世界農業遺産にも認定された。
阿蘇の草原は、しばしばアフリカのサバンナや高山で見られるような「自然草原」とは一線を画す。サバンナが気候や土壌といった自然要因によって形成されるのに対し、阿蘇の草原は野焼き、採草、放牧といった人間の継続的な介入によって維持されてきた「半自然草原」、あるいは「二次草原」と呼ばれる。
例えば、世界的に有名なモンゴルの大草原もまた放牧によって維持されているが、その広がりは数百年、数千年単位での大規模な遊牧民の移動と深く結びついている。一方、阿蘇の草原は、カルデラという限られた地形の中で、集落ごとに組織された「牧野組合」が中心となり、地域に根ざした共同管理が行われてきた点が特徴的だ。 各牧野組合が輪地切り(防火帯の草刈り)や野焼きを分担し、その総延長は阿蘇郡全体で640キロメートルにも及ぶという。 これは、個々の農家や地域が密接に連携し、膨大な労力を投じてきた証左である。
また、日本の他の地域にも茅場や里山といった「人の手による自然」は存在するが、阿蘇の草原は、その規模と歴史の長さにおいて他に類を見ない。 降水量の多い日本では、本来であれば森林に移行するはずの土地が、これほど広大な草原として維持されてきたことは、世界的に見ても珍しい事例と言えるだろう。 この事実は、単なる放牧地としてだけでなく、生物多様性の宝庫や水源涵養機能、さらには減災効果をも持つ「多面的機能」として、その価値を再認識させる。 阿蘇の草原は、自然と人間がどのように共生しうるかを示す、具体的なモデルケースとして存在しているのである。
現代の阿蘇を訪れると、草千里ヶ浜などの観光地で、悠々と草を食む馬やあか牛の姿を間近に見ることができる。しかし、この風景の裏側では、千年続く営みを維持するための様々な課題に直面している。
最も深刻なのは、野焼きや採草、放牧といった草原管理を担う人手の不足と高齢化である。 かつては地域の生活に不可欠だった牛馬の利用が、農業の機械化や化学肥料の普及、茅葺き屋根の減少などにより薄れてきたことが背景にある。 また、牛肉輸入自由化や価格の低迷、後継者不足などにより畜産業を取り巻く環境も厳しく、阿蘇のあか牛から市場価格の高い黒毛和牛への転換が進む傾向も見られるという。 その結果、採草や放牧が行われず放置される草原が増え、森林化が進むエリアも少なくない。
こうした状況に対し、地域では多様な取り組みが進められている。野焼きの時期には、地元住民に加え、全国から「野焼き支援ボランティア」が参加し、火入れ作業を支えている。 また、「あか牛オーナー制度」のような形で、あか牛の導入や放牧を支援し、あか牛肉の消費拡大を通じて草原維持に貢献しようとする試みもある。 観光客に対しても、放牧されている牛馬への無闇な接近や餌やりを禁止するなど、ルールとマナーの順守を呼びかけ、共存のあり方を模索している。 阿蘇の草原は、単なる観光資源ではなく、地域住民が主体となって守り継ぐべき「生きた景観」として、その価値が再認識されつつあるのだ。
阿蘇の草原に馬や牛が放牧されているのは、決して「放置されている」わけではない。むしろ、それは人間が意図的に、そして継続的に自然に手を加えることで成立してきた景観であり、その背後には千年以上にもわたる「野焼き」「放牧」「採草」の循環があった。この営みは、単に家畜を育てる経済活動に留まらない、多面的な恵みを地域にもたらしている。
まず、草原は多様な生物の生息地となっている。絶滅危惧種の植物や昆虫を含む約600種もの動植物が生育・生息し、「チョウの楽園」とも呼ばれるほどの生物多様性を誇る。 これは、牛馬が草を食むことで特定の植物が繁茂しすぎず、野焼きが新たな芽吹きを促すことで、多様な種が共存できる環境が保たれているためだ。
さらに、阿蘇の草原は「九州の水がめ」としての役割も担う。 森林よりも草原の方が水源涵養機能に優れているという研究もあり、雨水を地中に貯え、ゆっくりと河川に送り出すことで、渇水期でも安定した水供給を可能にしている。 また、火山灰が堆積した土壌が多い阿蘇地域において、草原は土砂災害の被害を軽減する効果も指摘されている。
阿蘇の放牧地を歩く牛馬の姿は、単なる牧歌的な風景ではない。それは、人が自然の力を借り、また自然に働きかけることで、生態系、水資源、そして地域の文化と経済が一体となって築き上げられた、壮大な共生の物語の現れなのである。この地で目にする一頭のあか牛は、千年の歴史と未来への挑戦を背負っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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