2026/5/19
宇部で車海老や渡り蟹が獲れるのはなぜ?周防灘の恵みと環境保全

宇部でも車海老や渡り蟹が獲れると聞いた。なぜ獲れるのか?
キュリオす
宇部市が車海老や渡り蟹の漁獲地である理由を、周防灘の地理的・海洋学的特性と、公害対策から生まれた環境意識、漁業者の保全活動という複合的な視点から探る。工業都市の陰で育まれる海の恵みに迫る。
宇部市は山口県の南西部に位置し、瀬戸内海に面している。年間を通じて温暖で雨が少ない典型的な瀬戸内海式気候の土地である。市街地には真締川や厚東川が流れ、豊かな水辺環境を有している。海岸線に沿って発達した海岸段丘が、前面の海の浅さを際立たせている。こうした地理的条件は、一見すると工業都市の風景とは結びつきにくい、特定の海洋生物にとって理想的な環境を作り出してきた。
宇部の発展は、明治期以降の石炭産業にその礎を築いた。その後、化学工業が発展し、瀬戸内有数の臨海工業地帯を形成するに至る。急激な工業化は一時期、大気汚染などの公害問題を引き起こしたが、宇部市は産官学民一体となった「宇部方式」と呼ばれる独自の公害対策に取り組み、環境改善に努めてきた。この実績は、産業発展と市民福祉の調和を目指す先進的事例として、1997年には国連環境計画(UNEP)から「グローバル500賞」を受賞する評価も受けている。
このような工業都市としての歴史を持つ一方で、宇部の沿岸域では古くから多様な漁業が営まれてきた。小型底びき網漁業、刺し網漁業、かご漁業、潜水器漁業などがその代表例である。工業化の進展が、必ずしも海の恵みを完全に奪い去ったわけではないことは、この地の漁業の継続が示している。むしろ、公害対策によって培われた環境意識が、間接的に海の環境維持にも寄与した可能性も考えられるだろう。
宇部で車海老や渡り蟹が獲れるのは、複数の要因が複合的に作用しているためだ。第一に、宇部が面する周防灘の特性が挙げられる。周防灘は瀬戸内海の西部に位置し、広範な干潟や浅場が広がっている。車海老も渡り蟹も、水深の浅い内湾や汽水域の砂泥底を主な生息域とする。特に車海老は、その生活史の一部を干潟に依存していることが知られている。宇部市を流れる厚東川や真締川といった河川は、河口域に汽水域を形成し、これらの甲殻類にとって格好の生育場所となる。
第二に、栄養塩の供給である。瀬戸内海は陸に囲まれ、多くの河川から淡水と同時に窒素やリンなどの栄養塩が流入する。これらの栄養塩は植物プランクトンの増殖を促し、それが動物プランクトンや底生生物の餌となり、豊かな食物連鎖を支える。車海老や渡り蟹は、主にゴカイや巻き貝、二枚貝などの底生生物を捕食するため、こうした栄養豊かな環境は彼らの成長に不可欠だ。瀬戸内海全体で栄養塩濃度の低下が問題視される地域もあるが、宇部近海では河川からの継続的な供給が、一定の生産性を維持していると考えられる。
第三に、水温と潮流の安定性も重要だ。瀬戸内海は閉鎖性が高く、外洋からの海水の入れ替わりに時間がかかるため、水温が比較的安定している。特に周防灘のような「灘」と呼ばれる海域は、潮流が比較的緩やかで、成層が発達しやすい。この穏やかな環境は、暖海性の車海老や渡り蟹が好む条件と合致する。彼らは冬には沖合の深場で越冬・冬眠する習性があり、そうした場所を確保できることも生息の条件となる。
車海老や渡り蟹の漁獲は、宇部に限らず瀬戸内海各地で見られる現象である。例えば山口県内では、宇部市に隣接する山口市秋穂(あいお)が、明治時代から車海老養殖の発祥地として知られている。これは、この一帯の海域が車海老の生息に適していることの証左とも言えるだろう。また、岡山県の笠岡市でも、複雑な潮流の中で育つワタリガニが特産品として知られ、その身の締まりの良さが評価されている。
これらの地域に共通するのは、温暖な気候、浅い砂泥底、そして河川からの栄養塩供給という条件である。しかし宇部の状況を際立たせるのは、その工業都市としての側面と、それに伴う環境管理の歴史だろう。かつて公害に苦しんだ経験を持つ宇部が、現在も豊かな海の恵みを享受していることは、単なる自然条件の優位性だけでは説明できない。
他の多くの工業地帯では、沿岸環境の改変や汚染によって、かつての豊かな漁場が失われた事例も少なくない。そうした中で宇部が車海老や渡り蟹の漁獲を維持しているのは、瀬戸内海という内海の生態系の回復力に加え、「宇部方式」に代表される、市民を巻き込んだ環境改善への取り組みが、広範な意味で海の環境保全にも繋がったのではないか、という視点も提示できる。表面的には工業化された風景の裏側で、自然の恵みが静かに息づいているという点で、宇部のケースは他の地域とは異なる文脈を持つ。
現在、宇部市では小型底びき網漁業が盛んであり、ガザミ(ワタリガニ)やエビ、ハモなどが主要な漁獲物となっている。特にワタリガニは、宇部が瀬戸内海最大の水揚げ量を誇る産地であり、地元では「月待ちがに」と称されている。これは満月のたびに脱皮して大きくなるとの言い伝えから、1997年に宇部観光コンベンション協会が命名したもので、地域の特産品としてのブランド化が進められている。
宇部には山口県漁業協同組合の支店が複数あり、東岐波支店や床波支店では定期的に朝市が開催され、新鮮な魚介類が地元住民や観光客に提供されている。また、宇部市内には車海老の養殖場も存在し、そこから出荷される活きの良い車海老は、豊洲市場で高い評価を得るだけでなく、海外の高級飲食店にも届けられているという。養殖の存在は、天然の生息環境が優れていることの傍証ともなるだろう。
さらに、宇部岬地区では「宇部岬地区浅場保全グループ」が、漁業者を中心に干潟の保全活動に取り組んでいる。二枚貝の食害対策としてナルトビエイの駆除を行うなど、生態系全体の維持に努める彼らの活動は、甲殻類が生息する環境を守る上でも間接的に寄与している。漁師たちの日常的な営みと、地域ぐるみの環境への配慮が、宇部の海の恵みを支えているのだ。
宇部における車海老と渡り蟹の漁獲は、単なる偶然ではなく、この地の地理的・海洋学的特性と、人間の活動が織りなす結果である。瀬戸内海の奥まった周防灘に位置することによる穏やかな環境、河川がもたらす豊かな栄養塩、そして広がる浅場と干潟が、これら甲殻類の生活史を支える基盤となっている。工業都市としての発展を遂げながらも、その陰で海の恵みが維持されてきた背景には、公害を克服した経験から生まれた環境意識や、漁業者による地道な保全活動も無関係ではないだろう。
宇部が「月待ちがに」をブランド化し、車海老の養殖で高い品質を追求する一方で、その海の豊かさが全国的に広く知られているわけではない。この「知られざる恵み」という事実は、過度な開発圧に晒されることなく、地域に根差した形で海の資源が利用され、守られてきたことの証左とも解釈できる。宇部の海が育む車海老と渡り蟹は、産業と自然が共存する可能性を静かに示唆しているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。