2026/5/21
因島・生口島を支配した村上水軍の謎

因島や生口島の歴史について詳しく知りたい。村上水軍について。
キュリオす
因島水軍城を訪れた筆者が、瀬戸内海を支配した村上水軍の実像に迫る。平安時代末期から活躍し、芸予諸島を本拠地とした三島村上氏の組織や、帆別銭徴収、焙烙玉を用いた戦術など、彼らが築いた独自の海上秩序について辿る。
因島の山腹に立つ因島水軍城を訪れたとき、まず抱いたのは、ここに「城」と名のつくものが建つことへの小さな違和感だった。この城は昭和58年(1983年)に、因島村上氏の資料館として築かれたもので、かつての天守が存在した場所ではないという。資料館として因島村上氏の武具や古文書を展示するこの場所は、確かに水軍の歴史を今に伝える役割を果たしている。しかし、瀬戸内海の島々に根ざした彼らの実像は、陸の城郭に収まるような単純なものではなかったはずだ。
「村上水軍」という響きは、どこか浪漫を誘う。しかし、彼らは一体どのような存在だったのか。単なる「海賊」という言葉では片付けられない、瀬戸内海の海上を支配した彼らの実態は、この多島海の複雑な潮流のように、多層的な顔を持っていた。なぜ、この因島や生口島といった芸予諸島の島々が、その本拠地となり得たのか。その問いは、瀬戸内海の歴史そのものに深く繋がっている。
瀬戸内海は、古くから西日本と畿内を結ぶ大動脈として機能してきた。縄文時代にまで遡る海上交通の歴史を持ち、平安時代には大陸との交易や荘園年貢の輸送路として一層の繁栄を見せたのである。 そのような海上交通の要衝では、自然発生的に水先案内や警護を担う人々が現れ、やがて武装集団へと発展していった。
「村上水軍」の名が歴史に現れるのは、平安時代末期から鎌倉時代にかけてである。 彼らの起源については諸説あるが、河内源氏の庶流である信濃村上氏にルーツを求める説や、藤原純友の乱に連なる海の民の系譜を引くという見方もある。 南北朝時代には、村上義弘が活躍し、南朝勢力を海上から支えることで、その存在感を確立していったという。
室町時代に入ると、瀬戸内海の海上勢力はさらに組織化され、芸予諸島に本拠を置く三つの村上氏が台頭する。それが、因島村上氏、能島村上氏、来島村上氏であり、これらを総称して「三島村上氏」と呼ぶ。 彼らは同族意識を持ちながらも、それぞれが独自の活動を展開し、時には異なる大名に仕え、あるいは対立することもあったという。 因島村上氏は備後国の守護である山名氏や、後に中国地方を席巻する大内氏と結びつき、遣明船の警護などを担い、勢力を拡大していった。 こうして、戦国時代を迎える頃には、三島村上氏は瀬戸内海における海上交通の秩序を支える、なくてはならない存在となっていたのだ。
因島や生口島を含む芸予諸島が村上水軍の本拠地となり得たのは、その地理的な条件に大きく依る。瀬戸内海は大小無数の島々が連なり、特に芸予諸島周辺は、狭い海峡と複雑な潮流が特徴である。大潮時には最大で時速約18kmにも達する急流が渦巻き、古くから航海の難所として知られてきた。 この難所を巧みに乗りこなす操船技術と、隠れるのに適した入り組んだ地形が、彼らの活動拠点として最適だった。
村上水軍の生業は、単なる略奪行為としての「海賊」とは一線を画していた。彼らは、航海の安全を保障する代わりに「帆別銭」と呼ばれる通行料を徴収した。 これは船の帆の大きさや積荷の多少に応じて課されるもので、現代の通行税に近い仕組みであったと言える。彼らが発行する「過所旗」や「過所船旗」を持っていれば、瀬戸内海を安全に航行できるという一種の海上支配システムを築いていたのだ。 このように、村上水軍は水先案内人としての役割も果たし、瀬戸内海の海上交通を円滑にする上で不可欠な存在であった。
軍事面では、彼らは卓越した海戦術を持っていた。船上での白兵戦はもちろんのこと、「焙烙玉」という手榴弾のような火薬兵器や火矢を駆使し、敵船を焼き討ちにする戦法を得意とした。 天正4年(1576年)の第一次木津川口の戦いでは、織田信長の水軍を相手に、この火薬兵器と巧みな操船技術で大勝を収めている。 この戦いは、毛利氏と結びつき、信長に対立する石山本願寺への兵糧輸送を担った村上水軍が、その軍事力を天下に知らしめた一戦であった。 生口島では、三島村上氏に挟まれながらも、独自の「生口水軍」が存在していたという記録もあり、それぞれの島が、その立地と役割に応じて、独自の海の秩序を形成していたことが窺える。
「海賊」という言葉が持つイメージは、多くの場合、カリブ海を舞台にした物語のように、無法者や略奪者を連想させるだろう。しかし、村上水軍の実態は、そのような一般的な「パイレーツ」像とは大きく異なる。彼らが「海賊」と呼ばれるようになったのは、中世における海上勢力の総称としての「海賊衆」という呼び名に由来する。 後世、特に明治以降の研究において、ヨーロッパの海賊像と結びつけられ、「海賊」という言葉が定着した側面もあるようだ。 しかし、その活動は、単なる略奪に留まるものではなかった。
日本の歴史において、村上水軍と並び称される海上勢力としては、織田信長に仕えた九鬼水軍などが挙げられる。九鬼水軍が鉄甲船を建造し、第二次木津川口の戦いで村上水軍を破ったことは有名である。 しかし、九鬼水軍が大名に直属する軍事組織としての性格を強めたのに対し、村上水軍は、より広範な海上交通の管理・運営に深く関与していた点で特徴的だ。彼らは、航路の安全を保障し、通行料を徴収することで、瀬戸内海の経済活動を支える役割を担っていた。これは、他の地域の海上勢力や、海外で活動した「倭寇」のような略奪を主とする集団とは一線を画する。
村上水軍の活動は、瀬戸内海の複雑な地理的条件と、当時の経済・社会システムの中で生まれた独自の「海の統治」であったと言える。大名のように広大な土地を支配するのではなく、海の要衝を抑え、そこを通る船から税を徴収し、代わりに安全を保証するという仕組みは、彼らが単なる武力集団ではなく、海上における一種の行政・経済組織でもあったことを示している。彼らの存在は、陸の権力とは異なる、海独自の秩序が機能していたことを雄弁に物語っているのだ。
戦国時代の終焉は、村上水軍にとって大きな転換点となった。天下統一を進める豊臣秀吉は、天正16年(1588年)に「海賊停止令」を発布する。 これは、各地の海上勢力に対し、大名の家臣となるか、あるいは武装を放棄して農漁民となるかの選択を迫るものであった。これにより、独立した海上勢力としての村上水軍の活動は事実上終わりを告げる。
三島村上氏のそれぞれの家は、異なる道を辿った。来島村上氏の来島通総は豊臣秀吉に臣従し、伊予国に1万4千石の大名として取り立てられたものの、朝鮮出兵で戦死する。 一方、能島村上氏と因島村上氏は、毛利氏の家臣となり、周防国三田尻(現在の山口県防府市)を拠点とする毛利氏の「船手組」として、海上警備や海運管理の役割を担い続けた。 その後、多くの村上水軍の末裔たちは、それぞれの地で農民や漁民として暮らし、その血脈を今日に繋いでいる。
現在の因島や生口島は、本州と四国を結ぶ「しまなみ海道」の一部として、多くのサイクリストや観光客が訪れる場所となっている。 かつては造船業や除虫菊の栽培で栄えた因島も、今ではその姿を変えている。 因島水軍城は、当時の面影を伝える唯一の「水軍城」を名乗る資料館として、村上水軍の武具や古文書を展示し、その歴史を後世に伝えている。 また、生口島には村上水軍と共に戦った生口氏が創建した向上寺の三重塔があり、港町瀬戸田を見守るように建つ。 かつて海の覇権を争った島々は、橋によって結ばれ、穏やかな観光地となっているが、その根底には、激しい潮流と、それに抗い、あるいは乗りこなして生きた人々の記憶が息づいている。
因島や生口島、そして芸予諸島に点在する村上水軍の足跡を辿ると、彼らが単なる「海賊」という言葉では捉えきれない、複雑で多面的な存在であったことが見えてくる。急潮渦巻く瀬戸内海の地理的条件は、彼らに卓越した航海技術と海戦術をもたらしただけでなく、海上交通を管理し、秩序を維持するという独自の役割を担わせたのである。彼らが徴収した「帆別銭」は、現代の通行税にも通じるものであり、海上における一種の「統治機構」を築いていたことを示唆している。
陸の大名が領地を広げるように、村上水軍は瀬戸内海の「海域」を支配し、その秩序を築き上げた。彼らは、戦国の世において、大名たちの勢力争いに深く関与しながらも、海の民としての独立性を保ち、時には権力に抗う存在でもあった。豊臣秀吉の海賊停止令によってその独立した活動は終わりを迎えたが、その後の毛利氏への編入や大名化といった変遷は、彼らが常に時代の変化に適応し、生き残りを図った証左と言えるだろう。
しまなみ海道の橋の上から見下ろす瀬戸の潮流は、今も変わらず力強く流れ続けている。その渦巻く水面の下には、かつて村上水軍が築き上げた、海を舞台とした独自の社会システムと、それに従い、あるいは抗って生きた人々の確かな営みの痕跡が横たわっているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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