2026/5/21
尾道水道の向こう側、向島はどんな場所だった?

尾道の向かいの向島はどういう場所だったのか?
キュリオす
尾道水道の対岸に位置する向島は、かつて造船業で栄えた「工都」だった。明治末期から始まった造船業は島の風景を一変させ、高度経済成長期には多くの人々が暮らし、独自の経済圏と文化を形成した。しまなみ海道開通後はサイクリングの島としても注目されている。
尾道本通り商店街のアーケードを抜け、海沿いに出ると、目の前には細い水道が横たわる。その対岸に、尾道の町並みと呼応するように山が迫る島が見える。それが向島だ。わずか200メートルほどの尾道水道を挟んで、尾道と向島は古くから密接な関係を築いてきた。渡し船に乗れば数分で着く距離でありながら、多くの旅人にとって向島は「尾道の向こう側」という認識に留まることが多い。しかし、この島は単なる対岸の風景ではない。尾道という都市の発展を支え、自らも独自の産業史を刻んできた場所なのである。では、向島は一体どのような経緯で現在の姿になったのか。その問いは、瀬戸内海の地理と、そこに生きた人々の営みを紐解くことから始まる。
向島の歴史は、尾道水道の存在と不可分である。古くは、尾道が瀬戸内海の海上交通の要衝として栄える中で、向島は風待ち潮待ちの港として、あるいは尾道港の補助的な役割を担ってきた。江戸時代に入ると、広島藩領となり、その地勢から農業が主たる生業であったと考えられている。しかし、明治時代以降、日本の近代化が進むにつれて、向島は大きくその性格を変えることになる。
決定的な転換点の一つは、明治末期から大正期にかけての造船業の進出だった。特に1911年(明治44年)に設立された函館船渠株式会社尾道工場(後の日立造船向島工場)の操業開始は、島の風景を一変させた。瀬戸内海の穏やかな気候と、良質な労働力の確保、そして尾道水道という天然の良港が、造船業の発展を後押ししたのだ。広大な敷地を必要とする造船所は、尾道市街地では確保が難しく、対岸の向島がその受け皿となった。これにより、向島は単なる農村から、重工業を担う「工都」へと変貌を遂げていく。
もう一つの転換点は、戦後の高度経済成長期である。造船業は日本の基幹産業として急速に発展し、向島の日立造船は大型タンカーや貨物船を次々と建造した。島には造船所で働く人々が移り住み、社宅や商店街が形成され、活気に満ちた町が築かれたのである。この時期、向島は尾道市街地とは異なる独自の経済圏と文化を形成し、その人口も大きく増加した。造船業は、向島の経済と社会を何十年にもわたって牽引する存在となったのだ。
向島が尾道の対岸にありながら、独自の発展を遂げた背景には複数の要因が重なっている。まず、地理的な条件として、尾道水道という「隔たり」が挙げられる。幅が狭いとはいえ、海を隔てることで、尾道市街地の過密化を避け、向島に広大な土地を確保する余地が生まれた。これが、造船所のような大規模な施設を誘致する上で有利に働いたと考えられる。尾道本郷の入り組んだ地形では、そのような広大な敷地を確保することは困難だっただろう。
次に、造船業が立地する上での優位性である。瀬戸内海は波が穏やかで、大型船の建造や進水に適した環境であった。加えて、向島は本州と四国を結ぶ航路の中間点に位置し、資材の輸送や船舶の修理にも好都合だった。造船所は多くの労働力を必要とし、島外からの移住者を呼び込み、向島を産業の拠点として確立させた。造船技術の蓄積と熟練工の存在は、島のアイデンティティを形成する重要な要素となったのである。
さらに、農業の継続的な存在も無視できない。造船業が島の主要産業となる一方で、向島では古くから続く柑橘類の栽培も盛んだった。特にミカンやハッサクなどは、温暖な気候と水はけの良い土壌に恵まれ、島の特産品として定着していた。大規模な工業と、地域に根ざした農業が共存する姿は、向島という島の多面性を示している。これは、一つの産業に特化するのではなく、複数の生業が島の経済を支えてきたことの証左とも言えるだろう。
瀬戸内海には、大小様々な島々が点在し、それぞれが独自の歴史と文化を育んできた。その中で向島は、他の多くの島々と比較して際立った特徴を持っている。一般的に、瀬戸内の離島といえば、漁業や農業、あるいは観光業が主たる生業である場合が多い。例えば、しまなみ海道沿いの生口島や大三島は柑橘栽培が盛んであり、また近年ではアートによる地域振興を図る島も少なくない。しかし、向島は長らく「造船の島」としての顔を強く持っていた点で、それらの島々とは一線を画す。
多くの離島が、本土との交通手段の確保や人口流出といった課題に直面する中で、向島は尾道水道という至近距離に本土の都市部を持ちながら、独立した重工業地帯として発展した。これは、尾道という商業都市の存在が、造船業の誘致と発展に間接的に寄与したとも考えられる。尾道が培ってきた物流や商業のインフラが、向島の産業を支える土台となった可能性は高いだろう。
一方で、他の造船業で栄えた地域、例えば九州の長崎や本州の呉といった都市と比較すると、向島はより「島」としての性格を色濃く残していた点が挙げられる。長崎や呉が都市そのものが造船業を中心に発展したのに対し、向島は尾道の衛星都市的な位置づけでありながら、その内部に巨大な工場を抱え、独自の労働者文化を形成した。尾道水道を挟んで、商業・観光の尾道と、重工業の向島という明確な役割分担がなされていたのである。このような対比構造は、瀬戸内海の他の離島にはあまり見られない、向島独自の発展経路を示している。
高度経済成長期に隆盛を極めた向島の造船業は、1980年代以降の造船不況の波に晒され、徐々にその規模を縮小していった。日立造船向島工場は2000年代に閉鎖され、かつての工都としての面影は薄れつつある。かつて多くの労働者で賑わった社宅街や商店街も、今では静けさを取り戻している場所が多い。しかし、造船所跡地の一部は、新たな企業が活用するなど、産業の灯が完全に消えたわけではない。
現代の向島を語る上で欠かせないのが、しまなみ海道の存在である。1999年(平成11年)に全線開通したこの海上道路は、向島を本州と四国を結ぶサイクリングロードの起点・終点の一つとした。これにより、かつて産業の島であった向島は、サイクリストや観光客が訪れる「サイクリングの島」としての顔を持つようになったのだ。島内にはレンタサイクルターミナルが整備され、多くの人々が瀬戸内の多島美を求めて訪れる。
それでも、尾道水道を往来する渡船の風景は、向島の日常の一部として今も変わらず続いている。通勤・通学、あるいは生活物資の運搬に、住民たちは渡し船を利用し、尾道と向島を繋ぐ。大型造船所が姿を消しても、その土台となった港や船着場の風景は、島の記憶として残されている。古い民家や柑橘畑が広がる集落の奥には、かつての造船所で使われていたクレーンのような、巨大な構造物の残骸がひっそりと佇む光景も見られる。
尾道の対岸に位置する向島は、多くの観光客にとって、しまなみ海道の玄関口、あるいは尾道の風景の一部として認識されがちだ。しかし、この島が辿ってきた道のりは、単なる風光明媚な観光地というだけでは捉えきれない、重層的な歴史を秘めている。かつて、日本の経済成長を牽引した造船業の巨大な工場が島の中核をなし、多くの人々がそこで働き、生活を営んでいたという事実は、現代の静かな向島の風景からは見過ごされやすい。
尾道水道を挟んだわずかな距離が、尾道を商業・文化の中心地として発展させ、向島を大規模な産業の受け皿として機能させた。これは、単なる地理的偶然ではなく、都市と周辺地域の役割分担、そして時代の要請に応じた人々の選択の結果である。現代の向島を訪れる人々が、しまなみ海道を自転車で駆け抜けながら、かつての造船所の跡地や、今も残る小さな船着場の風景に目を向けるとき、この島が培ってきたもう一つの顔、すなわち日本の近代産業を支えた「工都」としての記憶に触れることができるだろう。その記憶は、尾道の歴史を語る上で欠かせない、もう一つの物語を静かに語りかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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