2026/5/30
駿河湾の桜えび、なぜ深海に?漁師の発見と湾の秘密

桜えびについて詳しく知りたい。駿河湾にしかいないのはなぜ?あれは大きくなると何になるのか?
キュリオす
駿河湾でしか漁獲されない桜えび。その理由は、日本一深い湾の地形と河川からの栄養、そしてプランクトンの循環にある。明治時代の偶然の発見から始まった漁業と、資源を守るための漁師たちの取り組みを紹介。
静岡県の駿河湾に面した地域を歩けば、春と秋の特定の時期に、港から甘い香りが漂うことがある。それが、桜えびの香りだ。体長わずか4センチほどの小さなエビが、なぜこれほどまでに特定の季節、特定の場所でしか漁獲されないのか。その背景には、駿河湾の特異な地形と、偶然の発見、そして人間が資源と向き合ってきた歴史が複雑に絡み合っている。
桜えび漁の歴史は、明治27年(1894年)に始まる。当時、静岡市由比の漁師である望月平七と渡辺忠兵衛が、アジの網引き漁に出ていた際、網を浮かせるための浮き樽を積み忘れ、網がいつもより深く沈んでしまったという。その網を引き揚げた時、大量の透明な小さなエビがかかっていた。これが、現在の桜えびだった。それ以前にも網に紛れ込むことはあったものの、本格的な漁業としては認識されていなかったものが、この偶然の出来事によって新たな漁法として確立されたのだ。翌明治28年には由比で、明治29年には蒲原で本格的な漁業が始まり、由比港漁業協同組合や大井川港漁業協同組合の船が、現在までその伝統を継いでいる。
桜えびが日本で商業的に漁獲されるのが駿河湾にほぼ限られるのは、この湾が持つ特異な環境に理由がある。駿河湾は、日本列島で最も深い湾の一つであり、最深部は約2500メートルに達する。湾の海底地形は非常に急峻で、特に中央部には駿河トラフと呼ばれる深い溝が南北に伸びている。この深い海域は、光を嫌う桜えびが昼間に生息するのに適した環境を提供する。日中は水深200メートルから500メートルほどの深海に群れで生息し、夜になると餌となるプランクトンを求めて水深数十メートルまで浮上するという日周鉛直運動を行うのだ。
さらに、駿河湾には富士川、安倍川、大井川といった一級河川が流入している。これらの河川が山々から運び込む豊富な栄養分は、湾内で植物プランクトンを増殖させ、それが桜えびの主要な餌となる。特に河口周辺で形成される渦流は、桜えびの卵や幼生が湾外に流出するのを防ぎ、湾内に留める役割を果たしていると考えられている。このような地形、河川からの栄養供給、そして複雑な海流が複合的に作用し、桜えびが大規模に生息・繁殖できる環境を駿河湾が提供しているのである。桜えび自体は、体長4cm前後の深海性のエビで、成長して大きくなるわけではなく、約15ヶ月の寿命を全うする。
桜えび漁が春と秋の年に2回に限定されているのは、資源保護と桜えびの生態に深く関係している。春漁は3月下旬から6月上旬頃まで、秋漁は10月下旬から12月下旬頃までと定められている。この間の6月中旬から9月下旬までは桜えびの繁殖期にあたるため、資源保護の観点から禁漁となる。また、冬期は桜えびが深海に移動するため、漁獲が難しいことから休漁期間となる。
この二つの漁期は、桜えびの生活環と駿河湾のプランクトン発生時期に合致している。桜えびの産卵は5月下旬から始まり、7月から8月が最盛期となる。幼生の成長には適切な水温と餌となるプランクトンが不可欠であり、駿河湾では3月から5月の春季と9月から11月上旬までの秋季に植物プランクトンが増殖する。このプランクトンの増殖期に合わせて桜えびが成長し、夜間に表層近くに浮上する習性を利用して漁が行われる。
日本には、富山湾のシラエビのように、特定の湾でまとまって漁獲される小型のエビも存在する。シラエビもまた深海に生息し、透明な体を持つ点で桜えびと共通項があるが、その漁期や生態には地域ごとの違いが見られる。しかし、桜えびの場合、日本国内での商業漁獲が駿河湾に限定されている点が特筆される。台湾東港沖にも桜えびは生息し、漁獲されているが、そのサイズや風味は駿河湾産に劣るとも言われている。この「日本で唯一」という希少性は、駿河湾の環境条件がいかに桜えびの生息に適しているかを示すとともに、長年にわたる厳格な資源管理の成果でもある。
現代において、駿河湾の桜えび漁業は、厳格な資源管理のもとで営まれている。2018年には、過去に例のない不漁に見舞われ、漁獲量の自主規制や休漁という苦渋の判断が下されたこともあった。由比港と大井川港の桜えび漁業者は、漁船の数を管理し、操業時間、漁獲量、漁法などを日ごとに協議して決定する「総プール制」を導入している。これは、漁獲された桜えびの金額を漁業者間で均等に配分する仕組みであり、資源保護と漁業の持続可能性を両立させるための共同体的な取り組みとして、日本でも稀有な事例とされている。
漁は夜間に行われ、2隻の船で網を曳く「2艘船曳き漁業」が主流である。網を曳く時間も20分間に制限されるなど、細かな自主規制が設けられている。漁獲された桜えびは、翌朝には由比港や大井川港で競りにかけられ、新鮮なまま加工業者へと渡る。天日干しされる桜えびが富士山を背景に広がる光景は、春と秋の駿河湾の風物詩として知られている。
駿河湾の桜えびは、その「日本で唯一」という希少性から、時に神秘的な存在として語られることもある。しかし、その背景には、約2500メートルという日本一の深さを持つ湾の地形、富士川をはじめとする河川からの豊富な栄養分、そして桜えびの生態に適した複雑な海流という、地理的・生物学的な条件が重なっている。さらに、明治の偶発的な発見から始まり、現在まで続く漁業者の資源管理への地道な努力が、この小さなエビの命脈を支えてきた。
桜えびの物語は、単に珍しい食材の話に留まらない。それは、自然が持つ固有の条件と、その恵みを享受しながらも、同時に保護し、次世代へと繋ごうとする人間の営みが、いかにして一つの場所で交錯し、独自の文化を形成してきたかを示す一つの事例である。駿河湾の深みと、その恵みを受け取る港の人々の手仕事が、この小さな海の宝石を私たちの食卓に届けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。