2026/5/18
鹿児島・シラス台地で稲作を可能にした「水」と「技術」の変遷

鹿児島などの灰の多い土地で稲作を可能にするにはどうしてきたのか??
キュリオす
鹿児島県に広がるシラス台地は、水はけの悪さと栄養不足から稲作には不向きとされてきた。しかし、サツマイモ栽培から始まり、深井戸掘削、そして大規模な畑地かんがい事業による水の安定供給、さらには現代の降灰対策技術や土壌改良資材の開発により、稲作を含む多様な農業が可能になった。
鹿児島県本土に広く分布するシラス台地は、約2万9000年前の姶良カルデラの大噴火によって形成された火砕流堆積物と火山灰が起源だ。この土壌は、粒が粗く水はけが良すぎるため保水性に乏しく、また植物の生育に必要な栄養分も少ないという特徴を持つ。そのため、古くから稲作には不向きな「不毛の地」とされてきた。
人々は長い間、この土地の制約と向き合ってきた。安土桃山時代から江戸時代にかけて、稲ほど水を必要としないサツマイモの栽培が盛んになる。乾燥に強く、肥料が少なくても育ち、根菜であるため台風の被害も受けにくいサツマイモは、シラス台地における主要な作物となった。これにダイズやナタネを加え、「シラス台地の三大作物」として人々の食を支えてきたのだ。
しかし、水稲栽培への渇望は根強く、限られた水源を求めての苦闘が続く。水を得るための工夫として、深さ60メートルを超える「土持堀(つっもっぼい)」と呼ばれる深井戸が文政年間から天保年間(1818~1841年)にかけて掘られた記録が残る。人力で掘る深井戸には限界があり、馬に水樽を背負わせて台地下の湧水まで水汲みに行くこともあったという。
大きな転換点の一つは、1914年(大正3年)の桜島大噴火だろう。この噴火で多くの耕地が火山灰の被害を受け荒廃したが、これを契機に耕地整理事業が始まった。1925年(大正14年)から約10年をかけて実施されたこの事業は、区画整理や道路整備を行い、台地上での農業生産を可能にする礎を築いた。
そして、第二次世界大戦後の食糧増産という国家的課題が、シラス台地への新たな視線をもたらす。1955年(昭和30年)に始まった国営笠野原畑地かんがい事業は、全国初の国営畑地かんがい事業として、その後の大規模開発の先駆けとなった。 「水さえあれば」という積年の願いが、具体的な事業として結実し始めた時代である。
鹿児島県における稲作の可能性を広げた最大の要因は、大規模な「畑地かんがい事業」の展開にある。シラス台地の根本的な課題は、火山灰土壌の特性による極端な水はけの良さと、それに伴う保水性の低さ、そして肥料分の流亡だった。この問題に対し、地下深くへと浸透する水を地上に留め、計画的に供給する仕組みが構築されていったのだ。
その象徴が、昭和45年(1970年)に着工し、昭和59年(1984年)に完成した国営南薩農業水利事業だろう。この事業は、池田湖を調整池として利用し、馬瀬川、高取川、集川といった複数の河川の余剰水や洪水時の水を導水して貯水するという、壮大な水利ネットワークを構築した。受益面積は6,072ヘクタールに及び、戦後の大規模畑地かんがい地区としては国内で2番目の規模を誇る。 この事業により、それまでサツマイモなどの耐干性作物に限定されていた南薩台地の農業は、高生産性の優良農業地域へと変貌を遂げた。
笠野原台地においても、1955年(昭和30年)から始まった国営笠野原畑地かんがい事業が同様の役割を果たした。高隈川上流に高隈ダムを建設して水を蓄え、開水路やパイプライン、トンネルを通じて台地の畑へ水を供給する。これにより、給水栓を開ければいつでも水が使えるようになり、かつて「いやじゃいやじゃ笠野原はいやじゃ五十五尋(100m)の綱を引く」と歌われた水不足の苦境は大きく改善されたのだ。
これらの大規模かんがい施設の整備は、水田稲作を直接可能にしただけでなく、多様な農作物の栽培を可能にする土台となった。水が安定供給されることで、茶や野菜、花きといった収益性の高い作物へと転換が進み、農業経営の安定化に寄与したのである。
一方で、火山灰が降り積もるという現代の課題への対応も続く。桜島や新燃岳といった活火山からの降灰は、作物に直接付着して光合成を阻害したり、雨で湿るとセメントのように固まって土壌への雨水浸透を妨げたりする。これに対し、ブロワーによる送風や高圧散水による除灰作業、ビニールハウスの導入といった対策が講じられている。 また、近年では約3万年前の火山灰「シラス」を微細加工した有機JAS適合の土壌改良資材「オリジンジオ」が開発され、土壌の保水性や保肥力を高める試みも進んでいる。 これは、長年の「悩みのタネ」であったシラスを「希望の種」に変える逆転の発想と言えるだろう。
火山灰土壌での稲作という点で、鹿児島県のシラス台地と対比されるのが、関東地方に広く分布する「関東ローム層」である。両者ともに火山噴火に由来する土壌であり、一般的に稲作には不向きとされる共通点を持つ。しかし、その特性と、それに対する人々の対応には明確な違いが見られる。
関東ローム層は、数万年前の富士山や箱根山、浅間山などの噴火によって運ばれた火山灰が堆積し、風化して粘土質になった赤褐色の土層だ。シラス台地が粒の粗い砂質で水はけが良すぎるのに対し、関東ローム層は粘土分が多く、含水比が高いにもかかわらず透水性も高いという独特の団粒構造を持つ。 この透水性の高さが、水田稲作には不向きとされる理由の一つである。加えて、台地や高台に位置することが多く、農業用水の確保が困難だった点も共通する課題だ。
関東地方の人々は、この土壌条件に対して、古くから畑作を中心に営んできた。江戸時代には、享保の飢饉をきっかけに、薩摩藩のサツマイモ栽培の成功を知った農学者・青木昆陽が、関東の土地でも育つサツマイモの研究と普及に尽力したという歴史がある。 現在でも、栃木のイチゴ、千葉の落花生、群馬のキャベツなど、関東地方は多様な畑作で知られている。 水田稲作は、台地に刻まれた谷筋の「谷津田(やつだ)」と呼ばれる、小河川や湧き水が豊富な低地で細々と行われてきたに過ぎない。
また、関東ローム層の地域では、冬から春にかけて強い季節風が吹くと、乾燥した表土が舞い上がる「赤っ風」という現象がかつて名物だった。これは、常に降灰に見舞われる鹿児島とは異なる、火山灰土壌特有の自然現象への適応を迫られた例である。
両地域ともに火山灰土壌という共通の制約を抱えながらも、その土壌特性の微妙な違いと、歴史的背景、そして社会的な要請に応じて、異なる農業の姿を築き上げてきたと言える。関東が既存の地形(谷津田)を活用し、畑作を主軸に据えたのに対し、鹿児島は大規模な土木事業による「水」の確保で、畑作の可能性を広げ、さらには水稲栽培の道も切り拓いた。鹿児島は、活火山との「現在進行形の共生」を強いられている点が、過去の火山活動の痕跡と向き合う関東とは決定的に異なる。
現代の鹿児島県では、かつての「不毛の地」というイメージを覆し、多角的な農業が展開されている。大規模かんがい事業の恩恵を受け、シラス台地はサツマイモや茶、野菜、花きといった多様な作物が育つ県有数の食料供給基地へと変貌した。 特に、飼料作物の栽培が可能になったことで、鹿児島黒牛や黒豚といった畜産業も盛んになり、全国有数の「畜産王国」としての地位を確立している。 米の生産量も年間約11万5千トンに達し、温暖な気候を活かして、夏から秋の台風シーズンを避ける「早期水稲」と「普通期水稲」の二期作が行われている。
しかし、桜島や新燃岳の火山活動は現在も続いており、農家は常に降灰対策を講じる必要がある。ビニールハウスに積もった火山灰は光量不足を引き起こし、作物の生育不良につながるため、ブロワーや高圧散水によるこまめな除灰作業が欠かせない。 また、火山灰が雨で湿ると固まり、土壌の透水性を低下させるため、土壌改良は継続的な課題となっている。 鹿児島市では、降灰量が多い場合に備え、専用の「克灰袋(こくはいぶくろ)」を無償配布し、市民が火山灰を収集・処分する仕組みを整えている。
このような厳しい自然環境の中で農業を営む人々の精神性は、「田ノ神さあ(たのかんさあ)」と呼ばれるユニークな石像にも見て取れる。鹿児島県の田んぼの周辺には、頭にコシキス(米を蒸す藁製の簀)をかぶり、手にはメシゲ(しゃもじ)を持った農民型の石像が点在している。 これらは、雨や台風による水害が多い鹿児島で、農民たちが順調な稲の生育と豊かな実りを祈願して手作りした豊作の守り神だ。苔むし、形が崩れながらも田んぼを見守り続けるその姿は、火山灰と水害という二重の困難に立ち向かいながら、この大地で生き抜いてきた人々の歴史を静かに物語っている。
鹿児島における灰の多い土地での稲作の歴史は、単に困難を克服した物語ではない。それは、土地の持つ制約を深く理解し、それを受け入れた上で、いかにして新たな可能性を見出すかという、しなやかな適応の歴史として捉えることができる。
シラス台地も関東ローム層も、火山活動という共通の起源を持つが、その後の人々の営みは異なる軌跡を辿った。関東が、その土壌が稲作に不向きであることを早期に認識し、サツマイモなどの畑作へと転換を図り、谷津田という限られた場所で稲作を続けたのに対し、鹿児島は、大規模な土木事業によって「水」という決定的な要素を人工的に供給することで、台地の潜在能力を大きく引き出した。これは、自然の条件を「所与のもの」として受け入れるだけでなく、技術と労力を投じて「変えうるもの」として捉えた結果だと言える。
しかし、鹿児島の挑戦はそれで終わらない。活火山という「現在進行形の自然の力」との対峙は、常に新しい課題を突きつける。降り積もる灰との闘いは、一時的な解決策に留まらず、除灰技術の改良や、シラスそのものを土壌改良材として活用する試みなど、絶え間ない工夫と革新を促してきた。それは、かつて「不毛の地」とされたシラス台地が、今では多様な農作物と畜産物を生み出す豊かな土地として機能している事実にも表れている。
稲作を可能にするという問いへの答えは、単一の技術や発見ではなく、乾燥に強い作物の導入から始まり、深井戸の掘削、そして近現代の大規模かんがい事業、さらには現代の土壌科学と降灰対策に至るまで、幾重にも重なる試行錯誤と適応の連続であった。そして、その過程で生まれた「田ノ神さあ」のような存在は、自然の厳しさと、それに向き合う人々の祈り、そして諦めない営みが、土地の風景の一部として深く根付いていることを示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。