2026/5/20
貝原益軒の『養生訓』と『筑前国続風土記』に見る実証と実践

貝原益軒について詳しく知りたい。滋養訓とか筑前国続風土記について。
キュリオす
江戸時代の学者・貝原益軒は『養生訓』で心身の整え方を説き、『筑前国続風土記』で筑前国の地誌を詳細に記述した。本記事では、彼の著作に見られる実証主義と実践主義の姿勢、そしてその学問が現代に与える影響を探る。
福岡の地を歩くと、江戸時代を生きた一人の学者の足跡に触れることがある。貝原益軒、その名は『養生訓』を通じて知られるが、果たして彼の真骨頂は「健康長寿」の教えだけにあるのだろうか。彼の著作群を紐解くと、そこには単なる養生法を超えた、天地万物への飽くなき探求と、実証に基づく知への姿勢が浮かび上がってくる。彼が残した膨大な書物は、現代の我々が情報過多の時代に忘れがちな「自らの目で確かめ、足で歩く」という知の営みの重要性を静かに問いかけているようにも思えるのだ。
貝原益軒は、寛永7年(1630年)に筑前国(現在の福岡県)福岡藩士の五男として生まれた。幼少期から読書を好み、博識であったと伝えられている。18歳で福岡藩に仕えるも、2代藩主・黒田忠之の怒りに触れ、7年間の浪人生活を送ることになる。この不遇の時期が、彼に医学や儒学を深く学ぶ機会を与えたのだ。長崎で医学を修め、江戸では林羅山(鵞峰)に会う機会もあったという。
明暦2年(1656年)、27歳で3代藩主・黒田光之に許されて藩医として復職すると、翌年には藩費で京都へ留学した。ここで木下順庵、山崎闇斎ら高名な学者たちと交流し、本草学や朱子学を学んだ。この京都での約7年間の遊学は、益軒の学問と思想の基礎を築く上で決定的な期間であったと言えるだろう。彼は生涯にわたり、公私合わせて京都へ24回、江戸へ12回、長崎へ5回と、数多くの旅を重ね、各地で見聞を広めた。単に書物を読むだけでなく、自らの足で歩き、目で見て、手で触れることで確かめる「実証」を重んじる姿勢は、これらの旅を通して培われたものである.
藩士としての職務も多岐にわたった。朱子学の講義、朝鮮通信使への応対、佐賀藩との境界問題解決への奔走など、重責を担っている。また、藩命により『黒田家譜』の編纂にも携わった。元禄元年(1688年)には、藩の許可を得て『筑前国続風土記』の編纂に着手した。70歳で役を退いた後も著述業に専念し、正徳4年(1714年)に85歳で亡くなるまで、生涯に60部270余巻もの著作を残した。
貝原益軒の代表作として広く知られるのが、正徳2年(1712年)に上梓された『養生訓』である。83歳の時に書き上げたこの書は、当時の平均寿命が30~40歳であった江戸時代において、益軒自身が85歳まで長寿を保った経験に基づき、健康法を解説している。単に身体の養生だけでなく、精神の養生も説いている点が特徴的だ。
『養生訓』は全8巻からなり、養生の目的と意義を述べる総論から始まり、飲食、五官(耳・目・口・鼻・形)、病への慎み、薬の用い方、そして老後の過ごし方まで、日常生活における具体的な心得が記されている。例えば、飲食については「腹八分目」を推奨し、食べ過ぎが病気の原因となると説く。また、薬については「偏った性質があるため、病に応じなければ毒となる」とし、むやみに服用すべきではないと警告している。心の養生も重視し、怒りや憂いが病を招き、心を安らかに保つことが長寿につながると説いている。儒教思想に基づき、天地や父母への恩を知り、道徳的な実践として養生を捉える視点も随所に見られる。
一方、『筑前国続風土記』は、元禄元年(1688年)に編纂が始まり、宝永6年(1709年)に完成した筑前国の地誌である。全30巻からなり、筑前国の歴史的概観、行政区分、人口などの統計資料、河川や山野といった地理的特徴、そして福岡城下や博多、各郡の村々の旧跡、景勝地、寺社の歴史や由緒が詳細に記述されている。さらに、土産考として土石類、製薬類、醸造類、動植物など、その土地の産物についても触れている。
この地誌の編纂にあたっては、益軒自身が甥の貝原好古や高弟の竹田定直らを伴い、筑前国内の村々を巡り、徹底的な実地調査を行った。単なる伝聞ではなく、実証に基づいた内容であることが特筆される。その詳細な記述と実証的な姿勢は、後の江戸幕府が諸藩に地誌編纂を奨励した際、『筑前国続風土記』がその手本になったと言われるほど評価が高い。
益軒は食に関する著書が多いのかという問いに対しては、『養生訓』に飲食に関する詳細な記述があるものの、これは健康法の一部であり、彼の著作全体から見れば、食に特化した専門家というよりも、儒学、医学、本草学、歴史、地理、教育など多岐にわたる分野を横断する「百科全書的知識人」であったと言えるだろう。彼の関心は、天地万物の理を解明し、それを人々の暮らしに役立てる「実学」にあったのだ.
貝原益軒の『養生訓』と『筑前国続風土記』は、一見すると異なるジャンルの著作に見える。前者は個人の健康と生活の規範を説き、後者は特定の地域の地理や歴史を記述する。しかし、その根底には共通する益軒の学問的姿勢が見て取れる。それは「実証主義」と「実践主義」である。
『養生訓』において益軒は、単なる理論や伝聞に頼らず、自らの体験や観察を通じて得た知見に基づいて健康法を説いた。例えば、腹八分目や適度な運動といった具体的な提言は、彼自身が虚弱体質でありながら85歳の長寿を全うした経験に裏打ちされている。これは、抽象的な道徳論に終始せず、人々の実生活に役立つ具体的な知識を求める彼の姿勢の表れである。また、心の養生を説く部分では、儒教の思想を基盤としつつも、それが具体的な生活態度や精神の持ちようにどう影響するかを実践的な視点から論じている。
一方、『筑前国続風土記』における益軒の姿勢も同様である。当時の地誌は、伝説や神話が多く含まれることも珍しくなかったが、益軒は自ら領内を巡り、現地調査を徹底した。古城や古戦場の跡、各地の産物、寺社の由緒に至るまで、可能な限り実地に赴き、文献資料と照合しながら記述を進めたのだ。この徹底した実地調査と、客観的な事実に基づいた記述は、後の地誌編纂の手本となるほどであった。これは、まさに「実学」を重んじる益軒の姿勢が、地誌という形で結実した例と言えるだろう.
この二つの著作に共通するのは、単なる知識の収集に終わらず、それが人々の生活や社会にどう役立つか、という視点が常に存在していることだ。益軒は、学問を一部の知識人のためだけのものとせず、庶民にも分かりやすい平易な和文で著作を残した。これは、彼が自身の学んだ知識を広く世に広め、人々の幸福に貢献しようとした「実践主義者」であったことを示している。養生も地誌も、その根底には、具体的な現実世界に目を向け、そこから得られた知見を人々のために役立てようとする、益軒の一貫した態度があったのだ。
江戸時代には、貝原益軒の『養生訓』以外にも、人々の健康や生活のあり方を説く書物や、地域の情報をまとめた地誌は存在した。例えば、養生訓に先行する形で、中国から伝わった養生法は貴族階級の間で知られていた。また、益軒と同時代の蘭方医である杉田玄白も『養生七不可』を著している。地誌においても、奈良時代に編纂された『風土記』があり、これは益軒の『筑前国続風土記』が「続風土記」と名乗るゆえんともなった。
しかし、益軒の著作が持つ独自性は、その徹底した実証性と、それを広く庶民に開かれた形で提示した点にある。奈良時代の『風土記』が神話や伝説を多く含んでいたのに対し、益軒の『筑前国続風土記』は、現地調査に基づいた詳細な記述と客観性を重視している。これは、単に古来の記述を継承するだけでなく、自らの目で真偽を確かめようとする益軒の科学的な眼差しが反映された結果と言えるだろう.
また、『養生訓』は、当時の難しい漢文で書かれた学問書とは異なり、平易な和文で書かれ、庶民にも広く読まれた。これは、益軒が学問を一部の特権階級に留めず、万民の利益となるよう知識を広めようとした意図の表れである。彼自身が虚弱な体質でありながら、日々の養生を実践して長寿を全うした経験を基に、具体的な生活習慣や心の持ち方を説いたため、その内容は現代にも通じる普遍性を持っている。現代医学の観点から見ても、『養生訓』に記された「腹八分目」や「心の穏やかさ」といった教えは、ストレス社会を生きる現代人にとって示唆に富む内容として再評価されている.
他の学者や先行する文献との比較において、益軒の真骨頂は、儒学という思想的基盤を持ちながらも、それを現実世界に適用する際の徹底した経験主義と、その成果を広く社会に還元しようとする教育者としての姿勢にあったと言えるだろう。彼は、単なる知識の集積者ではなく、知識を「生きる知恵」として昇華させ、実践を通じてその有効性を自ら証明しようとした人物であったのだ.
貝原益軒の遺した足跡は、現代の福岡の地にも残されている。福岡市中央区金龍寺には、益軒とその妻である東軒夫人の墓所があり、福岡県の指定史跡となっている。また、益軒が幼年期を過ごした福岡県飯塚市には「貝原益軒学習の碑」が建てられているという。彼が藩主・黒田綱政に献上した『筑前国続風土記』の写本の一部は、福岡県立図書館が保管する「竹田文庫」として福岡県有形文化財に指定され、現在も当時の筑前国の様子を知る貴重な資料として研究されている。
彼の著作は、現代においても様々な形で読み継がれている。『養生訓』は、現代語訳や解説書が多数出版され、健康長寿の心得として多くの人々に親しまれているのは周知の通りだ。中には、漫画化されたり、海外向けに英訳されたりするものもあるという。これは、彼の説いた養生法が時代を超えて普遍的な価値を持つことを示しているだろう.
益軒は70歳で藩の役職を退いた後、著述に専念した。退役後の約15年間で、彼は『養生訓』の他にも『大和本草』『和俗童子訓』など、多くの重要な著作を世に送り出している。特に『和俗童子訓』は、日本初の体系的な教育書とも評され、子どもの教育法について説いたもので、当時の教育思想に大きな影響を与えた。
現代の福岡では、中村学園大学が「貝原益軒アーカイブ」を公開し、彼の著作の電子版を提供している。これは、益軒の残した膨大な知の財産が、現代のデジタル技術を通じて、より多くの人々にアクセス可能な形で継承されていることを示していると言えるだろう。彼の残した実証と実践を重んじる学問的姿勢は、現代の研究者たちにも引き継がれ、彼の多岐にわたる著作の研究は今も続けられている。
貝原益軒の生涯と著作を辿ると、彼が単なる「養生訓の著者」という枠に収まらない、多面的な知の巨人であったことが見えてくる。彼は、食に関する記述を含む『養生訓』を著したが、その関心は「食」そのものというよりも、人間が心身ともに健やかに生きるための「全人的な営み」にあった。彼の学問は、儒学を基盤としつつも、医学、本草学、歴史、地理、教育といった広範な分野に及び、その全てにおいて実証と実践を重んじる姿勢を貫いたのだ.
『養生訓』が現代にも読み継がれるのは、その教えが単なる流行の健康法ではなく、人間の普遍的な生き方に関わる洞察に満ちているからだろう。一方で、『筑前国続風土記』が現代の地域研究において貴重な資料であり続けるのは、彼の徹底した現地調査と客観的な記述が、時代を超えてその土地の姿を正確に伝えているからに他ならない。
益軒の著作群に触れると、我々は「なぜ」という問いを立て、自らの足で答えを探し、それを他者に伝えることの重要性を再認識させられる。彼は、書物から知識を得るだけでなく、常に現実世界に目を向け、そこから新たな発見をしようと努めた。その姿勢は、情報が容易に手に入る現代において、改めて「知の質」を問う視点を提供している。彼の残した知の足跡は、今もなお、我々がどのように世界と向き合い、どのように生きていくべきかという根源的な問いを投げかけ続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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どちらも特定の地域の歴史的・地理的背景と、そこに根差した文化や人物に焦点を当てている。筑前国続風土記が筑前国を扱っている点と、高良大社が筑後国を扱っている点で地域的な関連性がある。
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どちらも特定の地域の歴史的・地理的背景と、そこに根差した文化や人物に焦点を当てている。筑前国続風土記が福岡の地誌である点と、柳川の町が福岡の城下町である点で地域的な関連性がある。