2026年5月16日
別府の港と温泉、古代から続く二つの顔
別府の地名の由来は中世の土地制度「別符」に遡るが、温泉地としての歴史はさらに古い。江戸時代までは静かな湯治場だったが、明治期の港湾整備と湯突き技術の導入により、京阪神と結ばれた海の玄関口として、また温泉資源の宝庫として飛躍的な発展を遂げた。
古代の湯と「別符」の由来
別府という地名の起源は、現代の温泉のイメージとは異なる、中世の土地制度に遡ると言われている。平安時代末期から戦国時代にかけて、荘園に付属する一部の区域が、国司免符や院庁下文といった特別な証明書によって、租税が免除されたり、特別な支配体制が認められたりする土地を「別符(べっぷ)」と称した。大分県の別府も、この「別符」が地名化した代表的な例の一つである。特に九州地方では、新たに開墾されたり、独自の性格を持つ所領が「別符」と呼ばれ、それがやがて「別府」という漢字で表記されるようになったとされる。漢字の「別」は「分ける」「区切る」を意味し、「府」は「水辺」や「湿地」、あるいは行政区域を指すことがあるが、この地名においては「別符」が音を借りて「別府」へと変化した経緯が濃厚だ。
しかし、温泉地としての歴史はさらに古い。8世紀前半に編纂された『豊後国風土記』には、「赤湯の泉」や「玖倍理湯井(くべりゆのい)」といった記述が見られ、当時の人々が既にこの地の熱源に注目していたことがうかがえる。特に玖倍理湯井は、湯の色が黒く、湯気が燃え盛る火のように熱く、人が近づいて大声を上げると湯が噴き上がるという、間欠泉を思わせる描写があり、現在の鉄輪温泉周辺の地獄を指す可能性が指摘されている。 また、『伊予国風土記逸文』には、神代の昔、少彦名命が大病を患った際、大国主命が豊後水道の海底に長いパイプを敷き、別府の温泉を道後へ運んで癒したという神話が残されており、古代から別府の湯が特別なものとして認識されていたことがう伺える。
港が拓いた湯治の道
江戸時代までの別府は、自然湧出の温泉に頼るひなびた漁村、あるいは静かな湯治場であったとされる。貝原益軒の『豊国紀行』にも、当時の別府温泉の様子が記されているが、今日の国際観光都市のような賑わいはなかった。転機は明治時代に訪れる。明治政府による近代化の波が押し寄せる中、大分県令松方正義は別府の地に近代的な港の必要性を唱え、明治4年(1871年)に流川河口付近の楠浜に別府港(楠港)が整備された。
この港の開設が、別府の運命を大きく変えることになる。明治6年(1873年)には、大阪開商社によって大阪と別府を結ぶ瀬戸内航路が開設され、蒸気船「益丸」が月1回の頻度で就航を開始した。 当時の航路は、大阪から香川県の多度津、広島県の鞆の津、愛媛県三津浜などを経由し、別府に至るもので、およそ30日間を要したという。しかし、これにより別府は京阪神地方と直接結ばれる海の玄関口としての機能を担い始め、関西方面からの湯治客や物資の往来が本格化していく。 航路の開設からわずか2年後には複数の船会社が参入し、競争が激化した結果、明治17年(1884年)には大阪商船株式会社が設立され、航路は拡充され、明治30年代には毎日運航されるまでに至った。 鉄道がまだ九州に十分に整備されていなかった時代において、大阪商船による航路は、観光客輸送に計り知れない役割を果たしたのである。
湯突きと観光開発の連鎖
別府が温泉地として飛躍的な発展を遂げた背景には、港の整備による交通網の確立に加え、もう一つの技術革新があった。それが明治15年(1882年)頃に地元豪商の荒金猪六によって導入された「湯突き」と呼ばれる温泉掘削技術である。これは「上総掘り」に始まるボーリング技術の応用であり、それまで自然湧出に依存していた温泉資源を人為的に掘り出すことを可能にした。
湯突き技術の普及により、別府各地で新たな源泉が次々と開発され、その数は明治38年(1905年)の198孔から、明治44年(1911年)には593孔、大正12年(1923年)には1,584孔へと爆発的に増加した。 この豊富な湯量こそが、別府を日本一の温泉地へと押し上げる最大の要因となった。港からのアクセス改善と温泉掘削技術の進展が相乗効果を生み、別府は単なる湯治場から、全国的に知られる観光地へと変貌していく。明治44年(1911年)に別府駅が開業し、陸路からのアクセスも可能になると、その流れはさらに加速した。 大正時代に入ると、「別府観光の父」と呼ばれる油屋熊八のような人物が登場し、観光バスの運行や「地獄めぐり」といった斬新なアイデアで、別府の魅力を全国に発信した。
港と温泉、二つの顔を持つ町
別府のように、港と温泉という二つの異なる要素が密接に結びつき、発展を遂げた例は、日本全国を見渡してもそれほど多くはない。伊豆の熱海温泉もまた、海に面した温泉地として知られるが、その発展は主に陸路、特に鉄道網の整備に大きく依存してきた。熱海は江戸時代には徳川家康が湯治に訪れた記録が残るなど、古くからの名湯として知られ、明治以降も鉄道開通によって京浜からのアクセスが飛躍的に向上し、一大観光地となった。しかし、別府のように、明治初期から上方との定期航路を整備し、港が観光の玄関口として決定的な役割を担った経緯とは、その発展の軸が異なる。
一方で、函館や長崎といった港町は、早くから国際貿易港として栄え、異文化交流の拠点となったが、大規模な温泉地としての側面は持たない。これらの港町は、物資の集散地や防衛拠点、あるいは異文化の窓口としての機能が主であり、人々の「療養」や「観光」を主目的とした温泉という要素は、その発展の主要因とはなり得なかった。
別府の特異性は、その両方の顔を併せ持っていた点にある。古くから湯の存在は知られていたものの、江戸時代までは地方の湯治場に過ぎなかった。しかし、明治初期の港湾整備が、京阪神という経済・文化の中心地との直接的な結びつきを生み出した。そして、その交通の便が、湯突き技術による豊富な源泉開発と結びつき、独自の温泉観光文化を花開かせたのである。港が単なる物資の集積地ではなく、温泉客を運ぶ「人の玄関口」として機能したことが、別府の発展を決定づけたといえる。
湯けむり立ち上る国際都市の今
今日の別府市は、日本一の源泉数と湧出量を誇る国際観光温泉文化都市として知られている。 市内には「別府八湯」と呼ばれる個性豊かな8つの温泉地が点在し、湯治文化が色濃く残る鉄輪温泉から、近代的なホテルが立ち並ぶ別府温泉まで、多様な表情を見せる。
別府港は現在も、本州や四国を結ぶフェリー航路の拠点であり、近年では14万トン級の大型クルーズ船が接岸可能な旅客船ふ頭も整備され、国内外からの観光客を迎える海の玄関口としての役割を拡大している。 また、立命館アジア太平洋大学(APU)の開学以降、市内には多くの留学生が暮らし、多様な文化が交錯する国際都市としての側面も強めている。 かつて京阪神から船で多くの人々を運んだ別府航路は、形を変えながらも、今なお別府と外の世界を結ぶ重要な動脈であり続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。