2026年5月14日
青森・弘前の銘菓:歴史と風土が育んだ「竹流し」や「冬夏」
青森県弘前市には390年以上続く老舗「御菓子司 大阪屋」があり、江戸時代から伝わる「竹流し」や「冬夏」といった銘菓を生み出してきた。本記事では、これらの菓子が津軽の歴史、風土、そして文化とどのように結びついているのかを解説する。
城下町に息づく菓子司の系譜
青森県弘前市には、江戸時代初期の寛永7年(1630年)に創業した「御菓子司 大阪屋」がある。その歴史は390年以上に及び、東北地方でも特に古い老舗の一つとして知られている。初代である福井三郎右衛門は、豊臣家の家臣だったと伝えられ、大坂夏の陣・冬の陣で豊臣家が敗れた後、縁を頼って弘前の地に移り住んだという。その後、津軽藩二代藩主・津軽信枚(のぶひら)の命により藩の御用菓子司を務めることになったとされる。
大阪屋が今に伝える銘菓の一つに「竹流し」がある。これは四代目当主の福井三郎右衛門包純が、安永2年(1773年)に考案したとされる焼き菓子だ。その名の由来は、かつて西目屋村の尾太(おっぷ)鉱山で金を選別するために青竹の節に金を流し込んでいた様子からヒントを得たという説がある。蕎麦粉を薄く延ばして焼き上げた煎餅のような菓子で、素朴ながらも雅やかな風味を持つと評される。手作業で一枚一枚丁寧に作られるため、機械では出せない独特の食感と風合いがあるのだ。
また、「冬夏(とうか)」という菓子も江戸時代から伝わる銘菓である。炒ったもち米を繭玉の形にし、砂糖をまぶしたもので、こちらも大阪屋の代表的な菓子の一つだ。その名は「大坂冬の陣、夏の陣を忘れてはならない」という初代の思いから命名されたと言われている。四代目当主が江戸で流行していた菓子を学び、その製法を弘前に持ち帰ったものだという。これらの菓子は、単なる甘味としてだけでなく、津軽藩の歴史や初代の背景、そして職人の技と精神を今に伝えるものと言えよう。
寒冷な地で育まれた甘味の知恵
津軽地方の菓子文化を形成した要因は複数考えられる。一つは、弘前が津軽十万石の城下町として栄え、藩主や家臣たちの文化的な需要が高かったことである。特に弘前藩九代藩主の津軽寧親(やすちか)は菓子を好んだとされ、自ら菓子を作り周囲に振る舞う記録も残っている。このような藩主の関心は、菓子文化の発展を後押しした要因の一つだろう。
もう一つは、寒冷な気候条件とそれに適応した食材の活用である。例えば、青森県下北地方を中心に伝わる「べこもち」は、うるち米粉ともち米粉に砂糖を加えて蒸した菓子で、その原型は江戸時代に北前船によって伝わった「くじらもち」だとされる。稲作が発達しなかった地域で、米粉や雑穀を加工して保存性の高い菓子を作る知恵がそこにはあった。また、青森市で江戸時代後期に創業した「上ボシ武内製飴所」が製造する「津軽飴」は、津軽藩四代藩主・津軽信政が領民の副業として製造させたのが始まりとされ、砂糖を使わずにでんぷんと麦芽から作られる天然の甘味料として重宝されたという。甘味が貴重だった時代において、津軽飴は菓子としてだけでなく、滋養強壮の薬としても親しまれていたのだ。
さらに、弘前には全国的にも珍しい禅林街と呼ばれる33もの寺院が集まるエリアがあり、そうした寺院文化も菓子の発達に影響を与えた可能性が指摘されている。精進料理の流れを汲む「ねりこみ」のように、甘く仕立てられた煮物が冠婚葬祭のおもてなし料理として供されることもあった。砂糖が貴重な時代、甘味は特別なものとして扱われ、保存性や栄養価も重視された結果、津軽の菓子は独自の発展を遂げたと言える。
江戸の洗練と北国の素朴
日本の和菓子文化は、京都や江戸を中心に独自の発展を遂げてきた。京菓子が公家文化や茶道の洗練を背景に、雅やかな意匠や繊細な味を追求したのに対し、江戸の菓子は庶民文化の中で多様な形で花開いたと言えるだろう。青森や弘前の伝統菓子も、こうした中央の文化の影響を受けつつ、北国ならではの風土や食材を取り入れてきた。
例えば、茶道で用いられる菓子は、干菓子と主菓子に大別され、落雁や煎餅、練り切りなどが知られている。弘前の大阪屋の「竹流し」は蕎麦粉を使った煎餅のような菓子であり、茶席にも用いられる煎餅の一種と重なる部分がある。しかし、その素朴な蕎麦の風味は、洗練された京菓子の麩焼き煎餅とは異なる、土地の素材を活かした独自性を持っていると言えるだろう。また、練り切りは江戸時代に砂糖の価格が下がったことで和菓子文化が発展し、職人たちが技を競い合った結果生まれたとされる。弘前でも、練り切りに代表されるような上生菓子が作られていたことは、大阪屋に伝わる菓子の図案帖からも窺える。
一方、青森の「べこもち」や「津軽飴」のような餅菓子や飴菓子は、京都や江戸の上生菓子とは異なる、より日常的で滋養を兼ねた菓子として位置づけられる。これらは、米や雑穀、芋などの限られた食材を工夫して甘味を生み出す、寒冷地ならではの知恵が凝縮されたものだ。全国的に見れば、餅菓子は各地に存在するが、青森のものは端午の節句に柏餅ではなく「くじらもち」を食べる文化があったことなど、地域固有の食習慣と結びついている点が特徴的である。このように、青森や弘前の菓子は、中央の菓子文化を取り入れつつも、津軽の風土や歴史、そして人々の生活に根ざした形で独自の進化を遂げてきたと言えるだろう。
老舗の暖簾が守る現代の風景
弘前市本町にある「御菓子司 大阪屋」は、現在もその重厚な蔵造りの店舗を構え、多くの客を迎えている。店内には、津軽藩の家紋である牡丹が描かれた螺鈿細工の菓子入れが並び、往時の面影を伝えているという。ここでは、「竹流し」や「冬夏」といった江戸時代から続く銘菓が、今も変わらない製法で作り続けられているのだ。特に「竹流し」は、機械に頼らず職人の手作業でしか生み出せない繊細な菓子であり、その技術は長子口伝で受け継がれてきたとされている。しかし、現代では技術の継承のため、職人全体で共有し、つないでいくことの重要性も語られている。
青森市では、明治24年(1891年)創業の「甘精堂本店」が「昆布羊羹」を看板銘菓としており、明治20年代後半には既に存在していたとされる。また、大正7年(1918年)創業の「おきな屋」は、当初は団子や大福といった朝生菓子を扱っていたが、後に青森の産品、特に「りんご」を使った菓子作りに力を入れ、現代では「りんご最中」や「薄紅」などが人気を集めている。これらの老舗は、伝統の味を守りつつも、時代の変化や消費者のニーズに応じた商品開発にも取り組んでいるのだ。
現代において、これらの伝統菓子は単なる日常の菓子としてだけでなく、地域の歴史や文化を伝える土産品としての役割も担っている。観光客がこれらの菓子を手にすることは、津軽の歴史に触れる一つの入り口ともなるだろう。一方で、後継者問題や原材料の高騰など、伝統を守る上での課題も少なくない。しかし、職人たちは、地域に根ざした菓子文化を次世代へとつなぐために、日々その技を磨き続けているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
出典
- ONESTORYonestory-media.jp
- ずっと変わらぬ思いで、江戸時代からの文化とともに、伝統の手仕事を受け継ぐ。[TSUGARU Le Bon Marché・御菓子司 大阪屋/青森県弘前市] by ONESTORY | ことりっぷco-trip.jp
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- 青森県弘前市 大阪屋の「竹流し」《福田里香の民芸お菓子巡礼》 | Discover Japan | ディスカバー・ジャパンdiscoverjapan-web.com
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