2026/5/30
霞ヶ浦に消えた巨大内海「香取海」の姿と変貌

かつて霞ヶ浦のあたりにあった香取海はどういう形だったのか?なぜ今のように見えなくなったのか?
キュリオす
約6,000年前、霞ヶ浦周辺には太平洋とつながる巨大な内海「香取海」が存在した。縄文海進で形成されたこの海は、河川の土砂堆積と江戸時代の利根川東遷事業により、現在の霞ヶ浦や水田地帯へと姿を変えた。
茨城県南東部、霞ヶ浦の湖岸に立つと、広大な水面が視界いっぱいに広がる。その向こうには、なだらかな台地が続くばかりで、どこまでも内陸の風景に見えるだろう。しかし、この穏やかな湖がかつて、太平洋と直接つながる巨大な内海の一部であったと知ると、目の前の景色はにわかに異なる相貌を帯び始める。数千年前、この地には「香取海(かとりのうみ)」と呼ばれる広大な水域が横たわっていた。その規模は、現在の霞ヶ浦の二倍から三倍にも及んだという。では、その古代の内海はどのような形をしており、なぜ今のようにその姿を大きく変えることになったのか。目の前の水面から吹き抜ける風には、遠い過去の潮の香りが混じっているかのように思える。
香取海は、およそ6,000年前の縄文時代に形成された。この時期は「縄文海進」と呼ばれ、温暖化によって海面が現在よりも約4メートル上昇し、太平洋の海水が関東平野の奥深くまで湾入した時代である。鹿島灘に大きく開いた湾口から海水が流れ込み、現在の霞ヶ浦(西浦・北浦)、印旛沼、手賀沼を含む広大な内海が形成された。この内海は学術的には「古鬼怒湾」とも呼ばれ、その細長い湾入部は「榎浦(えのきうら)」とも称された。内海の西端は、現在の鬼怒川や小貝川が注ぐ龍ケ崎付近にまで達していたと推測されている。
この広大な内海は、単なる地理的特徴に留まらなかった。内海の周囲からは多くの貝塚が発見されており、当時の人々が豊富な海の恵みに依存した生活を営んでいたことを示している。丸木舟の出土例も多く、古くから水上交通の要衝であったことがうかがえる。 奈良時代には「香澄流海(かすみのうみ)」とも呼ばれ、東北地方と畿内を結ぶ物流の重要な経路として機能した。この水上交通路の利権を巡っては、平安時代に平将門の乱や平忠常の乱といった争乱の原因の一つにもなったとされる。
中世に入っても香取海は下総国と常陸国の境をなし、その広大な水域は地域の政治経済に大きな影響を与え続けた。香取海への出入り口にあたる要衝には、香取神宮と鹿島神宮が鎮座しており、これら二つの神宮が大和朝廷による東国支配、特に蝦夷地への進出における輸送拠点としての役割を担っていたという見方もある。 神宮は「海夫(かいふ)」と呼ばれる漁民を支配し、漁業権や航行権を保障する一方で、供祭料を徴収していた記録も残っている。 このように、香取海は自然の恵みをもたらす場であると同時に、古代から中世にかけての東国における政治、経済、文化の中心地として、その形状と機能が密接に結びついていたのだ。
香取海が現在の姿へと変貌していった背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。一つは自然の堆積作用である。縄文海進による海面の上昇が一段落すると、その後は河川が運ぶ土砂が湾内に堆積していくプロセスが始まった。鬼怒川や小貝川といった河川は、上流から大量の土砂を運び込み、湾口部や湾奥に砂州や干潟を形成していった。特に鹿島灘に沿って流れる潮流が、運ばれてきた土砂を湾口に堆積させ、次第に太平洋との連絡が遮断されていったのである。
さらに、地質学的な変動も影響した。関東平野は氷期と間氷期を繰り返す中で、海面の上昇と低下が幾度となく起こり、それに伴って陸化と水没を繰り返してきた。約20万年前の古東京湾の一部であった時代から、約2万年前の最終氷期には海面が大きく低下して陸地化し、河川による侵食が進んで現在の河道に近い形が作られた。その後再び海面が上昇する縄文海進を経て、内海が形成されたが、その後も海面の後退と河川の土砂供給が続き、内海の陸地化は着実に進行していった。
決定的な転換点となったのは、江戸時代初期から始まった大規模な土木事業である「利根川東遷事業」だ。それまで利根川は、現在の古利根川の流路を経て江戸湾(東京湾)に注いでいた。しかし、江戸の度重なる水害を防ぎ、また新田開発を促進するため、徳川幕府は利根川の流路を東へ付け替える大工事に着手した。これにより、利根川の水と、上流から運ばれる莫大な量の土砂が、それまで太平洋につながっていた香取海へと流れ込むようになったのである。 この人為的な河川の付け替えは、香取海の淡水化を加速させ、さらに土砂の堆積を劇的に増加させた。結果として、広大な干拓地や新田が次々と開発され、香取海は現在の霞ヶ浦、北浦、そして多くの水田地帯へとその姿を変えていったのだ。
香取海の陸化・淡水化は、関東平野に存在した他の大規模な湾入部の変遷と比較することで、その独自性がより明確になる。例えば、現在の東京湾の奥部、かつて「古東京湾」と呼ばれた領域も、縄文海進期には埼玉県内陸部にまで深く湾入していた。しかし、こちらはその後、海面の後退と荒川などの河川による土砂堆積によって陸化が進み、現在の東京湾の形状へと収束していった。古東京湾の陸化は主に自然の堆積作用と海面変動が主因であり、大規模な河川の付け替えという人為的な介入が直接的な引き金となったわけではない。
これに対し、香取海の変遷は、自然のプロセスが進行する中で、江戸幕府による「利根川東遷事業」という大規模な人為的介入が決定的な役割を果たした点で際立つ。利根川という「坂東太郎」の異名を持つ大河の流路を、それまでの西から東へと完全に付け替えるという事業は、単なる治水や開墾の枠を超え、地形そのものを根本から作り変える試みであった。 その結果、香取海は広大な内海としての機能から、利根川水系の淡水湖や広大な水田地帯へと劇的に変化した。この変化は、自然の営力と人間の技術力、そして政治的意志が一体となって、特定の地域の地理的特性を数百年という比較的短い期間で再定義しうることを示している。他の地域が自然の変遷に沿って姿を変えたのに対し、香取海は人の手が加えられたことで、その変貌の速度と規模が格段に増したのである。
現在の霞ヶ浦周辺の風景は、かつての香取海の広がりを直接想起させるものではない。しかし、その広大な水田地帯や、複雑に入り組んだ水路、そして霞ヶ浦や北浦といった湖沼群は、失われた内海の痕跡を今に伝えている。特に千葉県香取市から茨城県潮来市にかけて広がる「水郷」地域は、利根川と横利根川、常陸利根川、外浪逆浦に囲まれた低地であり、かつては「十六島(じゅうろくしま)」と呼ばれた新田開発地が広がっている。 ここでは、水運が主要な交通手段であった時代の名残として、今も多くの水路が縦横に走り、観光用の「サッパ舟」が行き交う風景が見られる。
また、霞ヶ浦湖岸には、縄文時代の貝塚が点在しており、古代の人々がこの水域を生活の糧としていた証拠が残されている。 香取神宮や鹿島神宮が、かつての内海の要衝に位置していることも、香取海の歴史的な重要性を物語るものだ。 これらの神宮は、現在も多くの参拝者を集め、古代から続く信仰と文化の中心地であり続けている。現代の霞ヶ浦は、日本で二番目に広い湖として、漁業や農業、そしてレジャーに利用されているが、その水底や周囲の地形には、海であった時代の地層や、利根川東遷事業によって堆積した土砂の層が重なり合っている。かつて海水が満ちていたこの地は、淡水化と陸地化を経て、今では豊かな農地と水資源を提供する地域へと変貌を遂げた。その景観は変われども、土地の記憶は脈々と受け継がれているのである。
霞ヶ浦周辺に広がる香取海が、なぜその姿を大きく変えたのかという問いは、自然の力と人間の介入が織りなす壮大な時間の物語を提示する。数千年単位の地質学的変化と、数百年単位の歴史的事業が重なり、一つの広大な内海が現在の複雑な水郷景観へと転換した。これは、自然の景観が固定されたものではなく、常に変動し、人間の営みによっても大きく影響を受けるという事実を改めて認識させる。
香取海の「消滅」は、単なる水域の縮小ではない。それは、古代の人々が海を介して交流し、文化を育んだ空間が、中世の堆積作用によって徐々にその姿を変え、近世の大規模な土木工事によって決定的に淡水化・陸地化された過程である。現在の霞ヶ浦や水田地帯は、その多層的な時間の堆積の上に成り立っている。我々が今目にしている穏やかな風景の背後には、海進と海退、河川の氾濫と流路変更、そしてそれらを制御しようとした人間の不断の努力が隠されているのだ。この地の変遷は、自然の巨大な力と、それに挑み、あるいは適応しようとした人間の営みの相互作用が、いかにして一つの土地の運命を決定づけてきたかを示す具体的な事例である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。