2026/5/23
讃岐国、少雨と瀬戸内海が生んだ独自の歴史

讃岐国の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
讃岐国は、少雨と狭い平野という地理的制約を抱えながらも、ため池灌漑、塩、砂糖、綿花などの生産で独自の発展を遂げた。空海や菅原道真といった人物ゆかりの地としても知られ、現代の香川県にもその歴史が息づいている。
讃岐国は、四国の北東部に位置し、南は阿波国、南西の一部を伊予国と接し、残る三方は瀬戸内海に面している。現在の香川県とほぼ同域にあたる。その名は、高松藩の藩儒である中山城山が著した『全讃史』によれば、四国内の他の国よりも緯(よこ)が狭いために「狭緯(さぬき)」と称し、それが転じて「讃岐」となったという説がある。
この地の地理的特徴は、歴史の形成に決定的な影響を与えた。讃岐国は、讃岐山脈を南に背負い、その北側に前山丘陵や高松平野が広がる。平野部には香東川、新川、春日川などの河川が流れるが、全体的に低平で大河川に乏しく、年間降水量が全国平均の約6割という少雨地域であった。この慢性的な水不足が、稲作を主とする農業にとって最大の課題であったことは、古代から現代に至るまで変わらない。
しかし、瀬戸内海に面した多数の島嶼を擁する地形は、交通の要衝としての役割も担った。石器時代には、讃岐でしか採れないとされるサヌカイトという石の産地として、瀬戸内海沿岸に広く輸出されていたという。古代には、鏃や包丁などの日常品の素材として欠かせないものであったとされる。また、弥生時代後期には善通寺で吉野ヶ里遺跡に匹敵する巨大な集落跡が見つかっており、この地が古くから人々の生活圏として栄えていたことを示している。
讃岐国が律令制下で「上国」と位置づけられたのは、その地理的な条件と、それに伴う中央政権との緊密な関係があったからだろう。大化の改新以降、朝廷は国造(くにのみやつこ)を郡司に改め、治めていた地域を律令国として再編した。讃岐国もこの時に11郡に区画され、国司が派遣されて統治された。
古代の讃岐には、西讃に佐伯直、東讃に凡直という国造がいたとされる。佐伯直は5世紀前期の允恭天皇の時代に国造になったとされ、凡直は6世紀後半の敏達天皇の時代に任じられたという。また、中讃には綾公という有力豪族がおり、天武天皇13年(684年)には八色の姓制定に際して朝臣の姓を授けられている。綾氏の本拠地である阿野郡の城山(現在の坂出市)には朝鮮式山城の遺跡があり、渡来人との関連も指摘されている。
讃岐国府は阿野郡に置かれ、現在の坂出市府中町で2012年度に中心施設が見つかっている。国府は都から派遣された国司が執務する役所で、現在でいう県庁にあたる。国司の下には約400人もの役人が働き、讃岐の人々にとってはそれまで見たことのない、新たなデザインの建物が並ぶ官庁街であった。国府の役人たちは、条里制と呼ばれる碁盤の目のような地割を施工し、ため池や河川の改修といった公共事業を積極的に進め、讃岐の国づくりを担ったとされる。
平安時代初期には、讃岐国那珂郡(現在の香川県善通寺市)に弘法大師空海が生まれている。空海は、後に真言密教を興し、日本の仏教史に大きな足跡を残すことになる。また、菅原道真も4年間、讃岐国の国司として赴任している。このように、讃岐国は中央とのつながりが深く、多くの重要人物を輩出したり、受け入れたりする土地であった。
讃岐国の歴史を語る上で欠かせないのが、水との闘い、そして塩の生産である。少雨地帯という宿命を抱えた讃岐では、古くからため池灌漑が発達し、満濃池はその象徴と言える。満濃池は、大宝年間(701~703年)に当時の讃岐国守・道守朝臣によって築かれたと伝えられている。しかし、弘仁9年(818年)の洪水で堤防が決壊し、多くの田畑が流出した。この改修工事を、弘仁12年(821年)に築池別当として派遣された空海が指導したとされる。空海は、水圧を防ぐために堤防をアーチ型にし、わずか2ヶ月という短期間で工事を完成させたという。この堤防は、1200年経った現在でも使われ続けている。
水不足の克服と並行して、讃岐では塩の生産が早くから行われていた。弥生時代から古墳時代にかけて、香川県沿岸各地の遺跡から製塩土器が出土しており、奈良時代には朝廷に塩を献納する義務を負う「調塩貢納国」の一つであった。江戸時代に入ると塩の生産は急増し、高松藩の奨励策のもと、藩の測量方であった久米栄左衛門(通賢)が普請奉行となり、塩田開発が進められた。特に坂出の東大浜・西大浜塩田は、久米栄左衛門の築造によるもので、当時日本有数の規模を誇った。
江戸時代には、塩に加えて砂糖と綿が讃岐の主要産業となり、「讃岐三白」と称されるようになる。温暖で雨の少ない気候は、綿花やサトウキビの栽培に適していた。特に砂糖は、上質の白色となめらかな舌ざわり、風味のある甘味で全国に広まっていった。ただし、「讃岐三白」という言葉自体が江戸時代から使われていたかについては諸説あり、むしろ明治期に衰退挽回策として使われ始めたという見方もある。
讃岐うどんも、この地の風土から生まれた文化である。少雨地帯ゆえに小麦の生産が盛んに行われ、塩田で得られる塩、そしてため池の水を活用して、うどん文化が育まれた。江戸時代中期の百科事典『和漢三才図絵』には、丸亀産の小麦が全国で最上級の品質を持つと記されている。
讃岐国の歴史を考えるとき、隣接する他の令制国、特に瀬戸内海沿岸の諸国との比較は興味深い。例えば、備前国(現在の岡山県東部)や播磨国(現在の兵庫県南西部)もまた、瀬戸内海に面し、古くから海上交通の要衝であった点は共通する。しかし、讃岐の「狭い平野」と「少雨」という地理的条件は、他の地域とは異なる産業構造や社会形成を促した。
備前国は、古くから鉄の生産が盛んであり、備前焼に代表される陶器文化も花開いた。また、吉備の豊かな平野は大規模な稲作を可能にし、中央との結びつきも強かった。播磨国もまた、広大な平野と豊かな水資源に恵まれ、農業生産力が高いことで知られる。特に江戸時代には、赤穂の塩田が有名であり、讃岐の塩田技術にも影響を与えたとされる。
これに対し讃岐は、大規模な河川による肥沃な平野が少なく、水不足というハンディキャップを抱えていた。このため、米作に加えて、塩や砂糖、綿といった換金作物の生産に力を入れざるを得なかった。特に塩田開発は、自然条件の不利を克服し、むしろそれを強みへと転換しようとする人々の創意工夫の結晶であったと言えるだろう。入浜式塩田と呼ばれる製塩方法は、遠浅の海岸線と潮の干満差が大きい瀬戸内海の地の利を活かしたものであった。
また、讃岐が「上国」とされた背景には、瀬戸内海交通の要衝というだけでなく、中央政権がこの地を重要な拠点と見なしていたことが挙げられる。空海や菅原道真といった中央の文化人が赴任したことは、単なる地方官としての派遣以上の意味を持っていたのかもしれない。彼らが残した足跡は、讃岐の文化や信仰に深く影響を与え、四国八十八ヶ所巡礼の礎ともなった。他の瀬戸内海沿岸地域が、より経済的な発展や軍事的な要衝としての役割を担う側面が強かったのに対し、讃岐は、自然環境の制約を技術と信仰で乗り越え、独自の文化を育んだという点で、その歴史の軌跡は特異なものがある。
現在の香川県は、かつての讃岐国の歴史を色濃く残している。少雨地帯であることに変わりはなく、今なお県内には1万4千を超えるため池が点在し、その数は日本一を誇る。これらは、古代から続く水との闘いの記憶を今に伝えるモニュメントだ。特に満濃池は、空海が改修した堤防が現在も利用され、その技術と精神が受け継がれていることを示す好例である。
「讃岐うどん」は、今や香川県の代名詞となっているが、その根底には、小麦栽培に適した気候と、塩の生産が盛んだった歴史がある。現代では、観光客が「うどん巡り」を楽しむ姿が日常だが、その一杯には、この地の先人たちが培ってきた知恵と工夫が凝縮されていると言えるだろう。
かつての塩田は、その多くが埋め立てられ、工業用地や市街地へと姿を変えた。坂出市や宇多津町には、かつて広大な塩田が広がっていたことを示す石碑や地名が残るのみだが、製塩の歴史は地域の発展に大きく寄与した。例えば、坂出市は明治時代には塩の生産量日本一を誇るまで栄えたという。現代の香川県が、日本一面積の狭い県でありながら、独自の産業と文化を確立している背景には、こうした歴史的な積み重ねがある。
また、四国遍路の歴史も、讃岐国と深く結びついている。空海の生誕地である善通寺をはじめ、県内には四国八十八ヶ所の霊場が23ヶ寺あり、結願所である大窪寺も讃岐にある。巡礼者たちが歩く道は、古代から続く信仰の足跡であり、この地の精神的な風景を形作ってきた。
讃岐国の歴史を振り返ると、その地理的制約と、それを乗り越えようとする人々の粘り強い営みが浮かび上がる。少雨という宿命を抱えながらも、ため池を築き、塩を作り、小麦を育ててうどんを生み出した。これらの営みは、単に生存のための手段ではなく、この地に根ざした文化として昇華されていった。
特筆すべきは、瀬戸内海の多島美がもたらす「開かれた閉鎖性」とも言えるだろう。三方を海に囲まれ、海上交通の要衝であったがゆえに、中央との交流や他地域からの文化流入が活発に行われた。しかし同時に、讃岐山脈に隔てられた平野は、独自の文化を育む閉鎖的な空間でもあった。この二つの側面が交錯することで、讃岐は、空海や菅原道真といった偉人を生み、また受け入れ、さらには「讃岐三白」に代表される特産品を全国に供給するまでに至った。
讃岐の歴史は、豊かな自然に恵まれた土地とは異なる、ある種の「工夫と選択の歴史」であると言える。乏しい水資源を補うための大規模な土木工事、そして効率的な換金作物の生産。それは、与えられた条件の中で、いかにして最大限の価値を生み出すかという、実直な問いへの答えであった。現代の香川県を訪れる人々が目にする穏やかな瀬戸内海の風景の裏には、こうした過去の選択と努力の積み重ねがある。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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