2026/5/19
宇部市はなぜ「降灰量世界一」から「緑と花と彫刻のまち」になったのか

宇部の街の歴史について知りたい。
キュリオす
宇部市は、海底炭田開発から始まった工業都市としての歴史を持つ。石炭産業の発展と公害問題に直面する中で、「産・官・学・民」が協力し、環境改善と緑化を進めた「宇部方式」が、現在の「緑と花と彫刻のまち」という都市像の礎となった。
山口県の南西部に位置する宇部市は、瀬戸内海に面した温暖な地域である。市街地を歩くと、整然と並ぶ街路樹や、思いがけない場所に点在する野外彫刻が目に留まる。一見すると、緑とアートが調和した「ガーデンシティ」の印象を受けるだろう。しかし、この街の根底には、かつて「降灰量世界一」とまで言われた時代と、それを乗り越えてきた歴史が深く刻まれている。なぜ宇部は、灰色の過去から「緑と花と彫刻のまち」へと変貌を遂げたのか。その問いの答えは、地層に眠る石炭と、それに挑んだ人々の試行錯誤の歴史の中に見出すことができる。
宇部における石炭採掘の歴史は江戸時代に遡る。寛永21年(1645年)の文献には「山口船木炭」の名が記されており、瀬戸内の塩田用の燃料として細々と利用されていたようだ。しかし、その本格的な開発が始まるのは明治時代に入ってからである。明治4年(1871年)から明治5年(1872年)にかけて、宇部炭田の主要な炭層である大派層と五段層が相次いで発見され、特に周防灘の海底に伸びるこれらの炭層が注目を集めた。
明治30年(1897年)には、後に「宇部市発展の父」とも称される渡辺祐策らが匿名組合「沖ノ山炭鉱組合」を設立し、海底炭田の採掘に着手した。 当時の宇部村は、明治30年頃の地図では「小野田」「床波」といった周辺の村名が地図の名称に使われるほどの小さな寒村であったという。 しかし、海底炭田の開発が進むにつれて人口は急増し、大正10年(1921年)には村制から一気に市制へと移行し、山口県内で2番目の市となった。
宇部炭田の特徴は、海岸からの沖合に広がる海底炭田であった点にある。 採掘された大量のボタ(石炭を掘り出した後の捨石)は、海岸の埋め立てに利用され、広大な工業用地や港湾の基礎が築かれた。 これにより、産業施設の集積地として、また原料や製品を運ぶ港として、宇部の工業化を地理的に後押しする要因となったのである。
宇部が近代的な工業都市として発展した背景には、石炭資源の存在だけでなく、その「有限性」を見据えた先駆的な経営思想があった。沖ノ山炭鉱の創業者である渡辺祐策は、「石炭の埋蔵量には限りがあり、これを燃料として燃やしつくすより無限の富を生む工業の資源とすべきだ」という考えを持っていたという。 この思想に基づき、採掘した石炭を燃料としてだけでなく、セメント製造や化学肥料(硫安)の原料として活用する多角的な事業展開が推進された。
具体的には、炭鉱機械の修理工場として大正3年(1914年)に「宇部鉄工所」が発足し、地元山口県に豊富な石灰石を利用して大正12年(1923年)には「宇部セメント製造」が設立された。 さらに、宇部の低品位炭を原料に硫安の製造を行う「宇部窒素工業」が昭和8年(1933年)に事業を開始している。 これらの企業は、太平洋戦争中の昭和17年(1942年)に統合され、「宇部興産株式会社」が設立された。 この企業合同は、石炭、機械、セメント、化学という異なる産業を垂直統合することで、石炭を基盤とした一大コンビナートを形成し、宇部の産業構造を決定づけることになった。
また、宇部の都市形成においては、真締川を境に東西の沿岸部で異なる発展過程を辿った側面がある。 大正期には西区で海底炭田の着炭が早く、沖ノ山炭鉱を中心に炭鉱業が先行して発展した。一方、東区では東見初炭鉱が創立されたものの、明治年間は目立つ存在ではなかったという。 しかし、第一次世界大戦後の不況を経て、炭鉱の合併が進み、最終的に沖ノ山炭鉱と東見初炭鉱に鉱区経営が統一されていった。 このように、宇部は単一の要因ではなく、石炭資源、先見性のある企業家精神、そして地理的条件が複雑に絡み合いながら、近代工業都市としての基盤を固めていったのである。
日本の近代化において、石炭産出地は各地で工業都市へと変貌を遂げた。例えば、福岡県の筑豊地域や北海道の夕張なども、豊富な石炭資源を背景に発展した炭鉱都市として知られている。これらの都市に共通するのは、石炭採掘によってもたらされる経済的繁栄の一方で、鉱害や公害といった負の側面も抱えていた点である。
宇部も例外ではなかった。昭和初期から戦後にかけて、石炭産業と重化学工業の発展は、深刻な大気汚染を引き起こした。 昭和26年(1951年)には、ひと月あたりの降灰量が1平方キロメートルあたり55.86トンに達し、「降灰量世界一」とまで言われるほどの状況であった。 この事態に対し、宇部市が採った対策は、他の多くの工業都市とは一線を画すものであった。
公害問題の解決に向けて、宇部市は「産・官・学・民」の四者が一体となった独自の取り組み、通称「宇部方式」を展開した。 これは、行政だけでなく、企業、大学、そして市民が相互に信頼し、協力し合うことで環境改善を図るというものであった。具体的には、ばいじん対策委員会を設置し、話し合いを通じて排出規制や緑化事業を進めた。 当時、市街地の多くは干拓地や石炭廃土のボタによる埋め立てで造成されており、樹木を育てるには不向きな土質であった。 しかし、客土と施肥による土壌づくりから始められた緑化事業は、戦後の厳しい時代にあって当初は市民の共感を得にくい状況もあったが、次第に支持を広げ、「緑化運動」や「花いっぱい運動」へと発展していく。 この「宇部方式」による公害対策の功績は国際的にも評価され、平成9年(1997年)には国連環境計画(UNEP)から「グローバル500賞」を受賞している。
他の地域では、公害問題が深刻化する中で住民運動と企業・行政の対立が激化するケースも少なくなかった。しかし、宇部では、産業の発展と市民の生活環境の調和を目指すという共通認識のもと、各主体が協力し合う道を選んだ。この選択が、後の宇部市の都市像を大きく方向付けることになったと言えるだろう。
昭和30年代のエネルギー革命により、主要なエネルギー源が石炭から石油へと転換すると、宇部の石炭産業も斜陽化の一途を辿った。 昭和42年(1967年)には宇部鉱業所が閉山し、長きにわたる宇部の石炭採掘の歴史に幕が下ろされた。 しかし、宇部興産(現在のUBE株式会社)は、この転換期にいち早く対応し、セメント、化学、産業機械といった事業を拡充する一方、石油化学分野への進出を図った。 「有限の石炭から無限の工業へ」という創業者の理念が、この時期に改めてその真価を発揮したと言えるだろう。
石炭産業の終焉は、街の景観にも大きな変化をもたらした。かつて炭鉱の風景が広がっていた場所は、埋め立てられた土地の上に新たな工場群やインフラが整備され、瀬戸内有数の臨海工業地帯を形成していった。 また、公害克服の過程で育まれた「緑化運動」は、さらに「宇部を彫刻で飾る運動」へと展開し、街の新たな顔を創り出すことになる。 1961年には「宇部市野外彫刻展」(現在の「UBEビエンナーレ」)が開催され、これは「まちづくり」にアートを取り入れた国内初の事例とされている。 以後、3年に一度開催されるこの国際コンクールを通じて、200点以上の野外彫刻が市内に設置され、街角や公園、ときわ公園などに点在している。
現在、宇部市は「緑と花と彫刻のまち」として親しまれている。 山口宇部空港や宇部港、山陽自動車道が整備され、陸海空の交通アクセスに恵まれた臨海工業都市でありながら、街中には緑があふれ、様々な彫刻作品が市民の生活空間に溶け込んでいる。 また、石炭産業を基盤に発展した化学工業の歴史から、高等工業学校を誘致し、現在も多くの高等教育機関を有する学術都市としての側面も持ち合わせている。 宇部新川駅周辺は、かつての商店街の面影を残しつつ、渡辺翁記念会館のような歴史的建造物が点在する地域である。 著名な建築家、村野藤吾が設計した渡辺翁記念会館は、国の重要文化財に指定されており、宇部の近代化の象徴とも言えるだろう。
宇部の歴史を振り返ると、そこには常に「共生」というテーマが流れているように見える。海底炭田の採掘によって生まれた大量のボタを廃棄物とせず、広大な埋め立て地として活用し、その上に新たな産業基盤を築いた。これは、資源の有効活用という視点だけでなく、限られた国土の中でいかに発展の余地を生み出すかという、切実な問いへの回答でもあった。
また、高度経済成長期に深刻化した公害問題に対して、住民運動と企業・行政の対立ではなく、「産・官・学・民」が一体となって解決に取り組んだ「宇部方式」は、産業と環境、経済と市民生活の調和を追求する姿勢を示している。この取り組みは、単に環境を改善するに留まらず、その後の都市緑化や彫刻によるまちづくりへと発展し、「緑と花と彫刻のまち」という宇部独自のアイデンティティを形成する原動力となった。
宇部の歴史は、自然の恵みを最大限に生かし、時にはその負の側面にも直面しながら、人々が知恵を絞り、手を携えて未来を切り開いてきた過程である。それは、一見すると無味乾燥な工業都市の発展史のようにも映るが、その根底には、資源の有限性を見据え、環境との調和を模索し続けた人々の確かな足跡が刻まれている。宇部の街を歩き、点在する彫刻や緑豊かな風景の中に、かつて石炭を掘り、煙突から煙を上げていた人々の営みを重ねてみるのも、この街の歴史を感じる一つの方法だろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。