2026/5/23
今治の村上水軍、瀬戸内海を統治した「海の秩序」とは

今治の村上水軍ミュージアムに行った。村上水軍について詳しく教えて欲しい。どのように現れ統治していたのか。
キュリオす
今治の村上水軍ミュージアムには村上水軍の歴史が展示されている。瀬戸内海を支配した村上水軍の成り立ちと統治の実態を、地理的条件や当時の社会情勢と合わせて探る。彼らが「海賊」と「水軍」の両面を持ち、海上交通の安全保障と経済活動を両立させていた実態を明らかにする。
今治の村上水軍ミュージアムを訪れると、瀬戸内海の穏やかな景色とは裏腹に、かつてこの海域を支配した「海賊」たちの歴史が鮮やかに提示される。展示された甲冑や船の模型、そして激しい潮流の映像は、彼らが単なる略奪者ではなかったことを示唆している。しかし、「強奪」という言葉が頭をよぎるように、彼らの実態は現代の感覚からすると理解しにくい部分も多い。なぜ、この多島海で村上水軍は生まれ、どのようにしてその支配を確立していったのか。その問いは、瀬戸内海の地理的条件と、当時の社会情勢に深く根差している。
村上水軍の起源は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて、信濃国から伊予国大島へ移り住んだ村上氏に求められることが多い。河内源氏の庶流とされる信濃村上氏の村上定国が、保元の乱後に淡路島を経て塩飽諸島へ進出し、平治の乱後の永暦元年(1160年)には越智大島に拠点を移したのが、伊予村上氏の祖とされている。彼らはやがて、現在の広島県尾道市から愛媛県今治市にかけて広がる芸予諸島の島々を拠点とし、室町時代から戦国時代にかけて瀬戸内海最大の海上勢力へと成長していく。
この勢力は、能島(のしま)、因島(いんのしま)、来島(くるしま)を本拠地とする三つの村上氏、通称「三島村上氏」によって構成されていた。三家は同族意識を持ちながらも、それぞれが独自の活動を行い、時には協力し、時には対立することもあった。能島村上氏は村上武吉を代表とし、因島村上氏は村上吉充、来島村上氏は村上通康やその子通総が著名な当主として名を連ねる。
彼らが歴史の表舞台に登場し始めるのは南北朝時代で、村上義弘が南朝方として活躍したことが伝えられている。この頃から、陸上の大名権力が及ばない瀬戸内海の要衝において、彼らは警固衆として、あるいは海上輸送の担い手として力を蓄えていった。戦国時代に入ると、能島村上氏は毛利氏に、来島村上氏は伊予の河野氏に、因島村上氏は当初大内氏、後に毛利氏に仕えるなど、陸の戦国大名との関係を深めていくことになる。特に能島村上氏は、三家の中でも独立性が高く、毛利・大友・三好・河野といった周辺大名と時に友好、時に敵対しながら、独自の海上支配を貫いたとされる。
村上水軍の統治の核心は、瀬戸内海の海上交通路を「関所」に見立て、そこを航行する船舶から通行料を徴収するシステムにあった。彼らの拠点である芸予諸島は、多くの島々が連なり、その間には激しい潮流が流れる海上交通の難所であった。この地理的条件を背景に、村上水軍は「水先案内人」として船を安全に導き、あるいは「警固衆」として他の海賊から船を守る役割を担ったのである。
徴収された通行料は「帆別銭(ほべつせん)」(船の帆の広さに応じる)、「荷駄別役銭(にだべつやくせん)」(積荷の多少に応じる)、「櫓別銭(ろべつせん)」(櫓の数に応じる)などと呼ばれ、現代の通行税や警備保障費に近い性質を持っていた。通行料を支払った船には、村上氏の旗印である「上」の字が書かれた「過所旗(かしょせんき)」という通行証が与えられ、これを掲げることで安全が保障された。もし通行料を拒否したり、過所旗を持たない船が強行突破しようとすれば、容赦なく襲撃し、略奪や破壊を行ったという。
彼らは単なる武装集団ではなく、海運業者、海上交易商人団としての側面も持ち合わせていた。瀬戸内海の特産物である塩の生産・輸送にも深く関与し、中国や朝鮮半島との海外交易を通じて莫大な富を蓄積した。また、戦時には焙烙玉(ほうろくだま)などの火器を用いた独特の戦術で、戦国大名の水軍としてその名を轟かせた。彼らは海上の秩序を維持し、交易を円滑にするための「海のプロフェッショナル」として、瀬戸内海における実質的な海上支配者であったと言える。
「海賊」という言葉の響きから、村上水軍をカリブ海のパイレーツのような略奪専門の集団と捉えがちだが、その実態は大きく異なる。西洋のパイレーツが主に理不尽な襲撃と金品の強奪を目的としたのに対し、村上水軍は通行料を徴収する代わりに、航海の安全を保障するという点で、ある種の「公共サービス」を提供していた。これは、陸上の大名権力が瀬戸内海の隅々まで及ばない「大名権力の真空地帯」という中世日本の特殊な状況下で生まれた、独自の海上統治システムであった。
また、日本の海賊としてしばしば語られる「倭寇(わこう)」とも性格を異にする。倭寇は、日本の商人を主体としつつも、朝鮮や中国の沿岸を襲撃し、略奪や密貿易を行った多国籍な集団であり、その活動はより広範で無秩序な側面が強かった。対して村上水軍は、芸予諸島という特定の海域に本拠を置き、その支配圏内での海上交通を組織的に管理していた。
「海賊」と「水軍」という二つの呼称が併存すること自体が、彼らの多面的な性格を示している。宣教師ルイス・フロイスは村上水軍を「日本最大の海賊」と評したが、これは当時のヨーロッパ的な感覚から見たものであり、必ずしも彼らの活動全体を正確に表すものではなかった。むしろ、彼らは陸の戦国大名に仕える「水軍」として軍事力を提供し、平時には海上交通を掌握する「海賊衆」として経済活動を営む、瀬戸内海の特殊な環境に適応した存在だったのだ。
豊臣秀吉による天正16年(1588年)の「海賊禁止令」は、村上水軍の活動に決定的な転換点をもたらした。これにより、彼らは海賊としての活動を制限され、多くが大名家臣団に組み込まれるか、武力を放棄して一般の民となる道を選ばざるを得なくなった。能島村上氏と因島村上氏は毛利氏に仕え、江戸時代には長州藩の船手組として船の管理に携わった。一方、来島村上氏は秀吉に早くから従い、久留島氏と改姓して豊後国玖珠郡(大分県)に領地を与えられ、小さな大名として明治維新まで存続したという。
しかし、その歴史は現代にまで色濃く残されている。今治市にある村上水軍ミュージアムは、彼らの活動や文化を伝える主要な拠点だ。ここでは、当時の船の復元模型や武具、古文書などが展示され、来館者は村上水軍の足跡をたどることができる。また、芸予諸島一帯は2016年に「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として日本遺産に認定され、その歴史的価値が再評価されている。
地域では、因島水軍まつりや椋浦(むくのうら)の法楽踊りなど、村上水軍に由来する伝統行事が今も受け継がれている。これらの祭りは、彼らの武勇を称え、戦没者を追悼する意味合いを持つと同時に、地域の人々が海と共に生きてきた歴史を現代に伝える役割を果たしている。
今治の村上水軍ミュージアムから瀬戸内海を望むとき、強奪という言葉の背後には、この特殊な海域で確立された独自の「海の秩序」があったことに気づかされる。彼らは、激しい潮流と無数の島々が織りなす瀬戸内海の地理を熟知し、その知識と武力を背景に、海上交通の安全保障と経済活動を両立させていた。それは、中央集権的な国家が未だ確立されていなかった時代において、地域が自ら生み出した統治の形であった。
村上水軍は、単なる略奪行為に終始する「海賊」ではなく、通行料を徴収する代わりに航海の安全を保障し、水先案内や警固を行う「海上支配者」として機能していたのである。彼らの存在は、瀬戸内海が古くから東西の交通と文化の大動脈であったことと不可分であり、その活動は海の民が生き抜くための実践的な知恵と組織力の結果だった。現代の視点から見れば「強奪」と映る行為も、当時の瀬動内海においては、彼らが提供するサービスと引き換えに成立していた、ある種の合意に基づくシステムだったと言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
北前船とは?北回り・南回りの航路と買い切り商法を解説
どちらも江戸時代から明治時代にかけての海運や交易、それに伴う人々の暮らしや経済活動に焦点を当てています。村上水軍が瀬戸内海を舞台とした海上交通の安全保障と経済活動を担ったのに対し、北前船は日本海を舞台とした交易を担いました。
対馬はなぜ「日本じゃないみたい」? 境界の島が築いた独自の歴史
どちらも日本の歴史における「境界」や「交通の要衝」としての地域の役割と、そこで形成された独自の秩序や文化に焦点を当てています。村上水軍が瀬戸内海の海上交通を、対馬が朝鮮半島と日本列島を結ぶ役割を担いました。
壇ノ浦の戦いから近代建築まで、関門海峡が刻む歴史の舞台
どちらも関門海峡という地理的条件が、歴史上の重要な出来事や人々の営みにどう影響したかを考察しています。村上水軍が瀬戸内海を支配したように、関門海峡も古来より交通の要衝でした。