2026年5月15日
山形の銘菓:果実だけじゃない、梅・黒糖・豆の甘味文化
山形は「フルーツ王国」として知られるが、梅の酸味を凝縮した「のし梅」、黒糖と玩具を秘めた「からから煎餅」、青えんどう豆の風味を活かした「ふうき豆」など、多様な伝統菓子が育まれてきた。その背景には、紅花栽培や保存食文化、藩主の嗜好、そして素材の持ち味を活かす職人の技があった。
果実の国の、もう一つの甘み
山形と聞けば、多くの人はまず果物を連想するだろう。初夏のさくらんぼ、秋のラ・フランス、ぶどうや柿が豊かな実りをもたらす「フルーツ王国」としての顔は、疑いようがない。しかし、この土地には、果実とは異なるかたちで育まれてきた甘味の文化が存在する。それは、梅の酸味を凝縮した琥珀色の菓子であり、黒糖の香りを纏い、中に小さな遊び心を秘めた煎餅であり、あるいは、淡い緑色の豆が持つ素朴な風味を最大限に引き出した豆菓子である。なぜ、これほどまでに多様な伝統菓子が、この果実豊かな地に根付き、今日まで伝えられてきたのか。その背景には、気候風土、歴史的な流通、そして人々の暮らしに寄り添う知恵があった。
薬から菓子へ、梅と紅花の道
山形における伝統菓子の歴史は、江戸時代にその萌芽を見ることができる。特に「のし梅」は、その起源を薬用とする点に特徴がある。一説によれば、江戸時代に山形藩主・最上義光の典医であった小林玄端が、長崎での遊学中に中国人から梅を原料とする気付け薬の製法を伝えられ、それを山形で再現したのが始まりとされる。当初は煮詰めた梅に黒砂糖を加えた水あめ状の薬であったという。山形藩の動乱を経て、玄端の子孫が医師や薬屋として街場に下り、その製法は民間薬として各家庭に広まった。
この梅の薬が菓子へと転じる背景には、山形の地が紅花の産地として栄えたという事情が関係している。紅花染めには酸性の媒染剤が不可欠であり、梅はその役割を担っていたため、山形では梅の栽培が盛んに行われたのだ。豊富な梅の実が手近にあったことが、のし梅が菓子として発展する上で重要な要素となった。文政四年(1821年)に創業した「乃し梅本舗佐藤屋」は、江戸後期に菓子としてののし梅を売り出し、出羽三山詣での参拝客に人気を博したという。明治初期には寒天が一般に流通し、梅の果肉を寒天と砂糖で煮詰めて薄くのばし、乾燥させる現在の製法が確立されたとされる。
一方、庄内地方の鶴岡では、「からから煎餅」が生まれた。江戸時代、庄内藩を統治した酒井家のお殿様が甘いものを好んだことから、この地域では多くの駄菓子が作られていたという。からから煎餅は、煎餅を振ると中に入った小さなおもちゃが「からから」と音を立てることに由来し、かつては「運徳煎餅」と呼ばれ、お正月の縁起物として親しまれていた。 玩具を中に入れるという発想は、元禄時代に江戸で流行した黒煎餅に玩具を入れる風習が全国に広まったことに影響を受けたとも言われる。
さらに、明治時代には「ふうき豆」が登場する。青えんどう豆をふっくらと炊き上げたこの豆菓子は、豆を「蒸かす」(ふかす)製法から「ふき豆」と呼ばれ、後に縁起の良い「富貴」の字が当てられ「ふうき豆」となった。 シンプルな材料ながら、青えんどう豆本来の風味を活かし、上品な甘さに仕上げる技術が求められた菓子である。
風土と流通が織りなす甘味の条件
山形の銘菓が、それぞれ異なる素材と製法で発展してきた背景には、この地の自然条件と歴史的な流通経路が複雑に絡み合っている。
「のし梅」の成立には、まず梅の豊富な供給が不可欠であった。山形はかつて紅花の生産が盛んであり、その染料抽出に梅の酸が利用されたため、梅林が広範囲に存在した。この地元の梅を加工する技術が、気付け薬から菓子へと転用される土壌となった。加えて、厳しい冬を越すための保存食文化も影響している。完熟梅を煮詰めたものを薄くのばし、乾燥させる製法は、冬の乾燥した空気を利用して野菜や山菜を乾物にするという、山形に根ざした保存の知恵が活かされている。 寒天の普及とともに、日持ちのする菓子として確立され、出羽三山詣での旅人たちの携帯食や土産物として全国に流通するようになったのだ。
「からから煎餅」は、庄内藩主の甘味への嗜好と、地域に根ざした駄菓子文化が融合した結果である。庄内地方は豊かな穀倉地帯であり、小麦や黒糖といった菓子の材料が手に入りやすい環境にあった。また、煎餅の中に小さなおもちゃを入れるという発想は、単なる食料品としてだけでなく、遊び心や縁起物としての価値を付加した。これは、当時の人々の暮らしの中に、ささやかな楽しみや驚きを求める文化があったことを示唆している。焼きたての生地を一瞬で三角形に折り曲げ、おもちゃをきれいに収める作業は、職人の熟練した技がなければ成し得ない。
「ふうき豆」は、青えんどう豆というシンプルな素材の加工技術に特化して発展した。豆をふっくらと炊き上げ、丁寧に薄皮をむくという手間のかかる工程は、素材の持ち味を最大限に引き出すための職人のこだわりを反映している。 山形市周辺は農作物が豊富であり、特に豆類も日常の食生活に深く関わっていたと考えられる。素朴ながらも滋味深い豆の甘さは、日常の茶菓子として広く受け入れられ、祝い事などにも用いられてきた。
これらの菓子は、単に甘味としてだけでなく、薬用、縁起物、保存食といった様々な機能や意味合いを帯びながら、山形の風土と人々の暮らしの中で独自の進化を遂げてきたのである。
北国の菓子と南国の菓子、そして遊び心
山形の銘菓を他の地域の菓子と比較すると、その独自性と共通の発展構造が見えてくる。例えば、梅を使った菓子は水戸や小田原にも「のし梅」と称されるものがあるが、山形ののし梅が江戸時代後期には薬として存在し、明治初期に現在の菓子として完成したのに対し、水戸の「のし梅」が歴史に登場するのは明治中期以降とされている。 これは、山形の製法が鉄道の発達などにより他地域に伝播していった可能性を示唆する。また、秋田県には「さなづら」という類似の梅菓子が存在し、これも北国の梅文化の一端を担っている。 山形が紅花栽培のために梅を多く生産していたという背景は、単なる梅の産地というだけでなく、産業と結びついた地域特有の条件が菓子の発展を促した例と言えるだろう。
「からから煎餅」のような、菓子の中に玩具を封じ込める「食玩」の伝統は、全国各地に散見される。例えば、東北地方には「きびだんご」に小さなおまけが入っていたり、江戸時代の縁日には同様の仕掛けを持つ菓子があったりしたという。しかし、からから煎餅が黒糖を使った三角形の煎餅という特定の形状と素材に定着し、鶴岡の地で長年継承されてきた点は特筆される。与那国島産の黒糖を100%使用するなど、素材へのこだわりも現代において見られる。 甲府市の大神宮節分祭の名物としても親しまれているという記録もあり、地域色を保ちつつも、そのユニークな発想が広がりを見せた事例と言える。
「ふうき豆」のような豆菓子は、日本各地に存在する。京都の「うぐいす餅」や、丹波地方の黒豆を使った菓子など、豆の風味を活かした菓子は多い。しかし、ふうき豆が青えんどう豆に特化し、その皮を丁寧にむき、ふっくらと炊き上げるという製法に徹している点は、他の豆菓子とは異なる。豆本来の淡い緑色と、余計なものを加えない素朴な甘さは、素材の持ち味を尊重する山形の菓子作りの姿勢を象徴している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。