2026/5/23
戦国・江戸時代の讃岐、群雄割拠から「讃岐三白」へ

讃岐国は戦国時代・江戸時代について詳しく知りたい。
キュリオす
室町期から細川氏の支配が弱まり、国人たちが割拠した戦国時代の讃岐。長宗我部氏の支配を経て、生駒氏、そして高松藩・丸亀藩の時代へ。江戸時代には塩、和三盆糖、綿花の「讃岐三白」が経済を支え、四国遍路の「涅槃の道場」としても栄えた。
室町時代、讃岐国は細川氏が守護を務める地であった。しかし、応仁の乱以降、細川京兆家が中央での権力争いに疲弊すると、その支配は弱体化する。代わって台頭したのは、香川氏や香西氏、安富氏、寒川氏といった「国人」と呼ばれる在地勢力であった。彼らは東讃岐と西讃岐に分かれて割拠し、互いに覇権を争いながら、時に細川氏や阿波の三好氏の支援を受けつつ、複雑な合従連衡を繰り返した。例えば、1523年(大永3年)に寒川郡で起こった安富氏と寒川氏の境界争いは、両細川の乱に端を発する京兆家内部の対立が、国元の武士たちに波及した一例である。
やがて阿波を拠点とする三好氏が勢力を拡大すると、讃岐への影響力も強まる。三好長慶の弟である十河一存が十河氏の養子となり、三好一族として讃岐の支配を固めていったのだ。 しかし、三好氏の支配も長くは続かない。土佐を統一した長宗我部元親が「四国統一」を掲げ、1578年(天正6年)頃から讃岐への侵攻を開始する。元親は阿讃山脈を越え、西讃岐の藤目城や財田城を落とし、勢いに乗じて香川信景を味方につけた。 1584年(天正12年)には、十河城や虎丸城を陥落させ、讃岐のほぼ全域を制圧したとされる。 讃岐は、土佐の長宗我部氏による「一国支配」の時代を迎えることになったのだ。
しかし、その長宗我部氏の支配も、豊臣秀吉の四国征伐によって短期間で終わる。1585年(天正13年)、秀吉による圧倒的な兵力の前に元親は降伏し、土佐一国のみを安堵された。 讃岐には、まず仙石秀久、次いで尾藤知宣が封じられたが、いずれも九州の島津攻めでの失敗を問われ改易される。 そして1587年(天正15年)、豊臣秀吉の重臣であった生駒親正が讃岐一国17万6千石(後に17万3千石)を与えられ、この地に入封した。 親正は当初、引田城や聖通寺城を居城としたが、最終的に現在の高松市街地に新たな城、高松城を築き、讃岐の支配拠点とした。 これにより、戦乱の時代は終わりを告げ、讃岐は新たな時代へと向かうことになる。
生駒氏による讃岐一国の支配は、親正、一正、正俊、高俊と4代にわたって続いた。しかし、1640年(寛永17年)、第4代藩主生駒高俊の代に「生駒騒動」と呼ばれるお家騒動が発生。これにより生駒氏は改易され、出羽国矢島藩へ転封となる。 一時的に伊予の藩によって分割統治された後、讃岐は大きく二つの藩に分けられることになる。
1641年(寛永18年)、西讃地域には山崎家治が丸亀藩主として入封。 その後、山崎氏が断絶すると、京極氏が丸亀藩主となる。 一方、東讃地域には1642年(寛永19年)、水戸藩主徳川頼房の長男である松平頼重が12万石で入封し、高松藩が成立した。 松平頼重は、水戸黄門として知られる徳川光圀の同母兄にあたり、将軍徳川家光と従兄弟という高い家格を有していた。 彼は幕府から西国諸藩の動静を監察する役目を与えられ、高松藩の基礎を固めていく。城下町の上水道整備や、干ばつに備えた溜池の築造など、積極的な藩政を行った。
江戸時代の讃岐の経済を支えたのは、後に「讃岐三白」と呼ばれる特産品である。その一つが「塩」であった。瀬戸内海に面した讃岐では、古くから塩づくりが行われていたが、安土桃山時代の文禄年間(1592-1596年)頃には、播州赤穂から製塩技術を持った人々が移り住み、坂出などで塩田の築造が始まったとされる。 江戸時代に入ると、高松藩は坂出の東西大浜を開拓するなど、塩業の発展に力を注ぎ、讃岐の塩は全国に流通する重要な産物となった。
もう一つは「和三盆糖」である。国産の砂糖が貴重だった江戸時代、徳川吉宗の享保の改革で糖業が奨励されると、高松藩でも砂糖製造の研究が始まった。 5代藩主松平頼恭の命を受けた藩医・池田玄丈とその弟子である向山周慶が研究を進めるが、良質なサトウキビの入手が困難であった。しかし、遍路の途中で行き倒れていた奄美大島出身の関良介を周慶が助けたことが転機となる。 関良介は、藩外持ち出し禁止のサトウキビの苗を密かに讃岐に持ち込み、周慶とともに栽培と製糖技術を確立。1799年(寛政11年)には、讃岐の地で初めて白砂糖の製造に成功したのだ。 これは「盆の上で砂糖を三度研ぐ」という独自の精糖工程から「和三盆」と名付けられ、後の高級和菓子の原料として全国に名を馳せることになる。 綿花もまた、讃岐三白の一つとして挙げられる産物だった。
讃岐はまた、四国遍路の重要な拠点でもあった。弘法大師空海ゆかりの八十八ヶ所霊場を巡る遍路道は、中世末にはすでに存在し、江戸時代には庶民の間にも広く普及した。 讃岐は遍路の旅路の終着点、「涅槃の道場」と位置づけられ、多くの巡礼者がこの地を目指した。 遍路道沿いには道標や丁石が残り、地元住民による「お接待」という文化も育まれた。
讃岐国の歴史を特徴づけるのは、その地理的条件と、それに起因する人々の営みである。全国的に見れば、戦国時代には一人の強力な大名が広大な領地を支配する例も少なくない。しかし讃岐では、瀬戸内海に面した立地から、畿内との結びつきが強く、細川氏の支配のもとで香川氏、香西氏、十河氏といった国人衆が互いに勢力を競い合った。 これは、海上交通の要衝であり、複数の勢力が利権を争う瀬戸内海の特殊性を示すものだろう。長宗我部元親が四国を統一した際も、その支配は短期間に終わり、豊臣秀吉による直接的な介入によって、再び中央政権の意向に沿った支配体制へと移行した。
江戸時代に入り、讃岐が分割統治されたことも、他の地域と比較して興味深い点だ。高松藩の松平頼重が、水戸徳川家と密接な関係を持つ家門大名として入封したことは、西国における幕府の監視拠点としての役割も期待されたことを示している。 これは、単なる領地配分以上の、戦略的な意味合いを含んでいたと言えるだろう。
経済面では、「讃岐三白」に代表される特産品の発展が、この地の独自性を際立たせる。特に和三盆糖の誕生は、他の地域との決定的な違いを示す。薩摩藩が厳しく管理していたサトウキビの栽培・製糖技術を、遍路を装った人物が密かに持ち出し、藩を挙げて研究開発を進めたという経緯は、中央の制約を乗り越えようとする地方の執念とも読み取れる。 温暖少雨という気候条件は、米作には不利な側面もあったが、溜池の築造技術を発達させ、同時に塩田やサトウキビ栽培に適した環境を生み出した。 このように、讃岐は限られた資源と地理的条件の中で、独自の産業と文化を育んできたのだ。
四国遍路における讃岐の「涅槃の道場」という位置づけも、この地の特性を象徴している。四国霊場の締めくくりとして、巡礼者が最終的な悟りを目指す場所とされたことは、単なる通過点ではなく、精神的な到達点としての役割を担っていたことを示唆する。 遍路道は、単なる信仰の道であるだけでなく、人々の往来と物資の流通を促す経済的な動脈でもあった。
戦国時代の激動と江戸時代の泰平を経て、讃岐国は現在の香川県へと姿を変えた。しかし、その歴史の息吹は今も県内の随所に息づいている。高松城跡や丸亀城は、それぞれの時代を代表する堅固な城郭として、当時の権力の象徴であったことを物語る。特に高松城は、瀬戸内海に直接面した「水城」という珍しい構造を持ち、海上からの防御を意識した築城がなされた。
「讃岐三白」の伝統は、現代の香川県にも受け継がれている。和三盆糖は、今も手作業による伝統的な製法を守り続ける製糖所で生産され、高級和菓子には欠かせない存在だ。 塩田の風景は往時とは異なるが、坂出や宇多津といった地域はかつての塩業の記憶を留め、近代的な製塩技術へと発展した。 そして、綿花の栽培は大規模には行われなくなったものの、その名残は地名や伝統工芸品の中に生きている。
四国遍路もまた、1200年以上の歴史を持つ巡礼の道として、現代まで続いてきた。 高松市と坂出市にまたがる五色台に残る「根香寺道」のように、江戸時代前期まで遡る遍路道の一部は国の史跡に指定され、当時の面影を今に伝えている。 多くの巡礼者が今もこの地を訪れ、時に白装束に身を包んだ「お遍路さん」の姿は、四国の風景の一部となっている。
讃岐平野に点在する無数の溜池は、温暖少雨という気候条件と戦ってきた人々の知恵の結晶である。 弘法大師空海が大修築したとされる満濃池をはじめ、大小90余りの溜池が築造され、水資源の確保に努めた歴史は、現代の農業用水や景観にも大きな影響を与えている。 これらの溜池は、単なる貯水施設ではなく、讃岐の風土と人々の暮らしを象徴する存在なのだ。
讃岐国が戦国時代から江戸時代にかけて見せた姿は、その地理的条件と、それを取り巻く時代状況の複雑な相互作用によって形作られたものと言えるだろう。瀬戸内海に面し、畿内への玄関口となる交通の要衝であったがゆえに、戦国期には複数の勢力が入り乱れる争奪の舞台となった。しかし、その一方で、限られた平野と水資源という制約は、人々を創意工夫へと駆り立て、独自の産業と文化を育む土壌となったのだ。
江戸時代、高松藩と丸亀藩という二つの藩が確立された後も、讃岐は単一の支配体制に安住することなく、特産品開発や水利事業といった具体的な「営み」を通して、その土地固有の価値を高めていった。和三盆糖の誕生は、藩の経済政策と個人の知恵、そして他地域の技術が結びついた結果であり、一見閉鎖的にも見える封建社会の中で、意外な形で革新が起きていたことを示している。
四国遍路という広域的な信仰文化が、この地で「涅槃の道場」としての役割を担ったことも、讃岐の歴史を語る上で欠かせない要素だ。それは、単なる地理的な終点ではなく、人々の精神的な到達点として、この土地が持つ意味を深く刻んだのである。讃岐は、常に外からの影響を受け入れつつ、内なる条件に適応しながら、独自の姿を形成してきた。その歴史は、狭い土地が持つ可能性と、変化を乗り越えようとする人々の強靭さを、静かに語りかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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