2026/5/23
讃岐の和三盆、奄美の技術と出会い誕生した歴史

讃岐の和三盆の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
江戸時代中期、讃岐高松藩で砂糖製造が奨励され、奄美大島出身の関良介から技術を学んだ向山周慶らが白砂糖製造に成功。これが讃岐和三盆の起源となった。独特の風土と「研ぎ」という手作業が、和三盆特有の風味と口溶けを生み出している。
日本の砂糖生産の歴史は、江戸時代中期に大きな転換期を迎える。八代将軍徳川吉宗が享保の改革の一環として、高価な輸入砂糖に頼らない国産化を奨励したことがその始まりである。諸藩はこれに応じ、各地でサトウキビの栽培と製糖の試みが始まった。
讃岐国、高松藩では、五代藩主松平頼恭の命により、1760年代以降、藩医の池田玄丈が砂糖製造の研究に着手した。 しかし、結晶質の砂糖製造には至らず、その志は弟子の向山周慶に引き継がれることになる。周慶は、遍路の途中で病に倒れていた薩摩藩奄美大島出身の関良介を治療し助けた。砂糖製造の知識を持つ関良介は、命の恩人である周慶の頼みを聞き入れ、藩外持ち出し禁止であったサトウキビの栽培法と製糖法を讃岐の地で伝えたという。 この交流が実を結び、寛政2年(1790年)には黒糖の製造に成功し、さらに寛政11年(1799年)には讃岐で初めて白砂糖を造り出すに至った。これが讃岐和三盆の起源である。 その後、南野村(現在の東かがわ市相生)の新兵衛が文化5年(1808年)に白下糖から三盆糖を製出する技術を開発し、その技法が広まることで、天保11年(1840年)には讃岐における三盆糖の製出技術が完成したとされる。
一方、阿波国においても、ほぼ同時期に砂糖製造の試みが進められていた。安永5年(1776年)頃、板野郡引野村(現在の板野郡上板町)の山伏であった玉泉(後の丸山徳弥)が、九州からの遍路からサトウキビの話を聞きつける。 玉泉は日向国延岡(現在の宮崎県)へ渡り、国禁を犯してサトウキビの苗を竹杖に隠して持ち帰ったという。 その後も製糖法の探求のため再度延岡に渡り、独力で研究を重ねた結果、寛政10年(1798年)頃には三盆糖の製造に成功している。 徳島藩もこれを奨励し、阿波の砂糖産業は急速に発展した。両藩の和三盆は、ともに他国の秘匿された技術と、それを自らの土地で再現しようとする個人の執念が結びついて生まれたものだと言える。
讃岐と阿波で和三盆が生まれた背景には、いくつかの要因が重なり合っている。その一つが、原料となるサトウキビの品種「竹糖(ちくとう)」の存在である。沖縄などで栽培される一般的なサトウキビに比べ、竹糖は背丈が低く、茎が細い特徴を持つ。 一本の茎から採れる汁の量は少ないものの、その糖度は高く、和三盆特有の風味と口溶けの良さはこの竹糖から引き出される。
次に、阿讃山脈の南麓に広がる独特の風土が挙げられる。この地域の扇状地は水はけが良すぎるほどの砂礫質土壌で、稲作には不向きであった。 しかし、この痩せた土地が、サトウキビ栽培にはむしろ適していたという。水が過剰に供給されないことで、サトウキビは糖度を高め、良質な原料となる。日照時間が長く、雨が少ない瀬戸内式の気候も、サトウキビの生育に適していた。
そして、和三盆を他の砂糖と決定的に分けるのが、その製法である。サトウキビの搾り汁を煮詰めてアクを取り除き、冷やし固めて「白下糖(しろしたとう)」を作るまでは、黒糖などの含蜜糖と共通する。しかし、和三盆はここからが本番だ。白下糖に少量の水を加え、盆の上で手作業で練り上げ、蜜を絞り出す「研ぎ(とぎ)」と呼ばれる工程を繰り返す。 この「研ぎ」の作業は、かつては三度繰り返されたことから「三盆」の名が生まれたとされているが、現在ではより繊細な口当たりを追求するため、五回以上繰り返されることもある。 熟練の職人の手によって、不純物と糖蜜が徐々に分離され、きめ細かく、口に含むとすっと溶ける独特の質感と上品な甘さが生まれるのだ。 この手作業による精製こそが、和三盆を「含蜜糖」でありながら、きわめて純度の高い白い砂糖へと昇華させる独自の技術なのである。
和三盆の歴史を紐解くと、讃岐と阿波、それぞれに独自の開拓者がいたことがわかる。讃岐では向山周慶と奄美出身の関良介の出会いが、阿波では丸山徳弥が日向から持ち帰ったサトウキビが起点となった。しかし、その後の製法は驚くほど類似している。これは、それぞれの地で試行錯誤を重ねた結果、同じような気候風土と原料に対し、効率的かつ高品質な砂糖を生み出すための共通解に至ったとも考えられる。 ただし、最盛期には生産量で讃岐が上回った一方で、阿波は白糖の割合が高く、「質」を重視していたとする見方もある。 各地の製糖所や職人によって、今もなお、その風味や口溶けには微妙な違いがあると言われている。
和三盆を他の砂糖と比較すると、その特性がより鮮明になる。上白糖やグラニュー糖といった分蜜糖は、サトウキビの絞り汁から糖蜜を完全に分離し、ショ糖の純度を極限まで高めたものである。 これに対し、和三盆は黒糖と同じ含蜜糖に分類され、ミネラル分やサトウキビ由来の風味が残されている。 しかし、黒糖が糖蜜を分離せずに固めるのに対し、和三盆は手間暇かけて糖蜜を「研ぎ」出すことで、黒糖のような強い個性はありつつも、より洗練された、穏やかな甘さに仕上げられている。 この「研ぎ」の工程は、機械による大量生産とは対極にあり、熟練の職人の技術と経験が不可欠である。
この比較から見えてくるのは、和三盆が単なる甘味料ではないということだ。それは、特定の土地の風土に適応した植物を、人間の手と知恵で最高の状態に引き出すという、伝統的なものづくりの結晶なのである。機械で均一化された味覚が主流となる中で、和三盆の繊細な風味は、効率性とは異なる価値基準を提示している。
現代において、和三盆の生産は、香川県の東かがわ市やさぬき市、徳島県の上板町や阿波市といった限られた地域で細々と続けられている。 明治時代以降、安価な外国産砂糖や、日清戦争後の台湾産砂糖の大量流入により、日本の砂糖産業は大きな打撃を受けた。 その中で、和三盆は生産規模を大幅に縮小しながらも、その伝統的な製法を守り続けてきた。
しかし、現代の生産現場もまた課題を抱えている。サトウキビ栽培農家の高齢化や後継者不足は深刻で、猛暑の中での除草作業や厳寒期の収穫作業といった重労働は、担い手確保の障壁となっている。 一部の製糖所では、収穫作業の機械化を進めるなど、伝統と効率化のバランスを模索する動きも見られる。
一方で、近年では「本物志向」や「健康志向」の高まりとともに、和三盆への関心が再び高まっている。 その上品な甘さと口溶けの良さは、和菓子だけでなく、洋菓子や料理の隠し味としても評価され、活用される場面が広がっている。 また、観光客向けに和三盆の型抜き体験が提供されるなど、伝統的な製法に触れる機会も増え、和三盆が持つ文化的な価値が再認識されつつある。 これらの取り組みは、単なる消費にとどまらず、和三盆が持つ歴史や背景を伝えることで、その価値を次世代へと繋ぐ役割を果たしている。
讃岐の和三盆の歴史をたどると、そこには単なる甘味料の生産以上のものが見えてくる。それは、土地の不便さや制約を、人々の知恵と忍耐力で乗り越えてきた物語である。水利に乏しい痩せ地は、稲作には適さずとも、竹糖の栽培には最適な条件を提供した。他国からの技術導入は困難を極めたが、その障壁が逆に、地域固有の製法を深化させる原動力となった。
和三盆の製法、特に「研ぎ」という手作業は、効率性とは一線を画す。現代の大量生産される砂糖が、純粋な甘さを追求する中で、和三盆はサトウキビ本来の風味やミネラル分を残しつつ、極めて繊細な口溶けを実現している。これは、機械では再現できない、人の手による「加減」と「手間」がもたらす価値だ。阿波と讃岐の和三盆が、それぞれに異なる歴史的経緯を持ちながらも、共通の製法にたどり着き、また微妙な違いを保ち続けているのは、それぞれの土地と職人が、原料である竹糖と対話し、その潜在能力を最大限に引き出す道を追求してきた結果だろう。和三盆の甘みは、その土地が育んだ恵みと、それを受け継ぎ、磨き上げてきた人々の歴史そのものを凝縮している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。