2026/5/22
赤穂の向かい、家島諸島はどういう場所だったのか

赤穂の向かいにある家島についても知りたい。海産物が豊富そうだった。
キュリオす
赤穂の沖合に浮かぶ家島諸島。古くから海上交通の要衝であり、名神大社・家島神社を擁する精神的中心地でもあった。天然の良港と豊かな漁場、良質な石材という複合的な産業が、この島を「いいところ」たらしめた背景を探る。
赤穂の海岸線から播磨灘を望むと、沖合に大小の島々が連なる光景が広がる。そのうちの一つ、家島諸島は、姫路市から約18km南西に位置し、大小44もの島々から構成される群島である。これらの島々は瀬戸内海国立公園にも指定されており、古くから風待ち、潮待ちの要所として多くの船が行き交ってきた歴史を持つ。島々の間を縫うように船が行き交う光景は、現代においてもその役割を物語っている。
家島という名は、神武天皇が東征の途上、嵐を避けてこの島に滞在した際に「まるで家にいるように静かだ」と語ったことに由来するという伝承がある。この話が真実であるか否かは措くとしても、家島が古くから海上交通の要衝であり、船乗りたちにとって安息の地であったことは、その名が示す通りだろう。実際に、波穏やかな瀬戸内海の中でも、家島諸島周辺の海域は複雑な海岸線に囲まれ、天然の良港が点在する。こうした地理的条件が、この島が「いいところ」であった理由の根幹にあるのではないか。単に海産物が豊富というだけでなく、その背後にある歴史と、島を見守る家島神社の存在が、この場所の奥行きを深くしている。
家島諸島の歴史は古く、旧石器時代から弥生時代にかけての遺跡が発見されており、この地には早くから人々が居住していたことがうかがえる。西島のマルトバ浜からは6世紀頃の箱式石棺を持つ古墳群も見つかっている。瀬戸内海が古くから海上交通の要衝であったことを考えれば、家島諸島が人々の往来の中で重要な役割を担ってきたことは想像に難くない。
家島神社の創建は、神武天皇が即位前に武運長久と海上航海の安全を祈願したことに始まると伝わる。さらに、承和7年(840年)には官社に列せられ、『延喜式』神名帳には「家嶋神社」として名神大社に名を連ねている。これは当時の朝廷から極めて重要な神社として認識されていたことを意味する。名神大社とは、国家的な祭祀において特別に幣帛(神への供え物)が奉納される格式の高い神社であり、その地位は家島が単なる漁村ではなかったことを示唆している。
平安時代には、菅原道真が左遷により太宰府へ向かう途中に家島に立ち寄り、参拝したという伝承も残る。菅原是善(菅原道真の父)も家島を題材にした歌を残しており、その認知度の高さがうかがえる。これらの歴史的背景は、家島が瀬戸内海の交通網において、単なる寄港地以上の文化的・精神的な重要性を持っていたことを示している。航海の安全を司る神を祀ることは、海上を生業とする人々にとって不可欠な営みであり、その信仰が篤かったからこそ、家島神社は名神大社という高い格式を得たのだろう。
家島が古くから「いいところ」であった背景には、その恵まれた地理的条件と、それによって育まれた産業構造がある。まず、播磨灘の中央に位置する家島諸島は、瀬戸内海特有の穏やかな気候に恵まれ、年間を通して比較的温暖で雨が少ない。この気候は、海上での活動に適しており、漁業の発展を後押しした。
地形的に見ると、家島本島の真浦や宮は天然の良港として機能し、古くから風待ち、潮待ちの避難港として利用されてきた。島々が外海の風波を遮り、複雑に入り組んだ入江が船の安全な停泊を可能にしたため、「数万艘が日々集っても狭さを感じないほどで、家の軒先にまで船を繋ぐことができた」と記された文献もある。こうした港湾機能は、物資輸送の拠点としての役割も果たし、近世には北前船の寄港地としても賑わった。
さらに、家島諸島周辺の播磨灘は、豊かな漁場として知られている。瀬戸内海の潮流がもたらす栄養豊富な海水と、起伏に富んだ海底地形が、多種多様な魚介類の生息に適しているのだ。タイ、タコ、アジなどは年間を通して漁獲され、特に晩秋から冬にかけてはワタリガニやサバが旬を迎える。また、カキや海苔の養殖も盛んである。こうした豊富な海の恵みが、島の人々の暮らしを支え、漁業が主要産業として発展する基盤となった。
加えて、家島諸島の一部である男鹿島や西島は、良質な石材の産出地としても知られている。古くは姫路城や大阪城の建設にも家島の石材が使われたと言われており、採石業もまた島の重要な産業の一つであった。漁業、海運業、そして採石業という複数の産業が、家島の経済的基盤を強固なものにし、この地を「良き地」たらしめたのである。
家島諸島のように、海の恵みによって栄えた島は瀬戸内海に少なくない。しかし、その生業のあり方は、それぞれの島の地理的条件や歴史的経緯によって多様な姿を見せる。例えば、香川県の小豆島は、瀬戸内海で二番目に大きな島であり、自然と適度な都市機能が共存する。小豆島では、オリーブ栽培や醤油醸造といった農業・加工業が特色である一方、家島諸島は純粋な漁業と採石業、そして海運業を中心に発展してきた。
また、岡山県の牛窓地域も瀬戸内海特有の潮流と美しい島々に囲まれた天然の好漁場であり、マダコやタイ、海苔、カキの養殖が盛んである。一方で、明石海峡の激しい潮流によって形成された「鹿ノ瀬」は、瀬戸内海有数の好漁場として知られ、マダコ漁が有名だが、近年は資源保護の取り組みも行われている。
こうした比較から見えてくるのは、瀬戸内海の多くの島々が、その限られた土地の中で、いかにして海の資源を最大限に活用してきたかという共通の構造である。家島諸島の場合、大小44もの島々が複雑な地形を形成し、それが天然の良港と多様な漁場を生み出した。さらに、良質な石材という別の資源も持ち合わせていた点が、他の漁業中心の島とは異なる特色として挙げられる。
家島が名神大社を擁するほど重要な地であったのは、単に漁獲量が多いというだけでなく、海上交通の要衝としての戦略的な価値、そして多様な産業が複合的に機能していたためだろう。多くの島が漁業に特化する中で、家島は石材と海運という、当時の物流を支える別の柱を持っていた。この多角的な生業が、島の安定と発展を支え、朝廷からの庇護を受けるに足る存在感を確立させたと考えられる。
現在の家島諸島には、家島、坊勢島、男鹿島、西島の4つの有人島があり、約6,000人(2024年時点では約4,500人という情報もある)が暮らしている。姫路港から船でわずか30分というアクセスの良さから、日帰り観光の地としても人気を集めている。
島の主産業は今も漁業であり、坊勢島は特に漁業が盛んで、港あたりの船の数は日本一とも言われる。タイ、タコ、アジといった魚介類に加え、養殖の「ぼうぜ鯖」やカキなどもブランド化されている。しかし、第二次世界大戦後の乱獲や水質汚染による漁獲量の減少、公共工事の縮減に伴う採石・海運業の低迷、そしてそれに伴う人口減少と高齢化は、家島諸島が直面する課題である。特に若者の島外流出は顕著であり、人口は減少傾向にある。
こうした状況に対し、島では新たな取り組みも始まっている。家島観光事業組合が中心となり、島の魅力を伝える観光ガイドや体験プログラムの開発、空き家を活用したゲストハウスの展開などが進められている。漁業体験クルーズでは、実際の漁の現場を見学し、獲れたての魚を船上で味わうことができる企画もある。また、家島小学校では、カヌーやSUPなどのマリンアクティビティ体験、漁業見学、魚さばき体験といった独自の海洋教育授業「家島うみの時間」が導入されている。これらの活動は、島の文化や産業を次世代に伝え、観光客に「島の暮らし」そのものを体験してもらうことを目的としている。
家島諸島を巡ると、古くからこの地が航海の安全と豊かな海の幸によって支えられてきたことが実感できる。名神大社である家島神社の存在は、古代から現代に至るまで、この島が単なる地理的な要衝に留まらない、精神的な中心地でもあったことを示している。航海者たちは、この島の神に祈り、安全な停泊地で休息を取り、そして再び豊かな海へと漕ぎ出していったのだろう。
現代において、家島は人口減少や産業構造の変化といった課題に直面している。しかし、姫路市から船で30分という近距離にありながら、独自の歴史と文化、そして質の高い海の幸が今も息づいている。漁師たちが水揚げする活きの良い魚介や、島に伝わる家庭料理、そして島民が培ってきた海の知恵は、都市部にはない価値を提供し続けている。家島が「いいところ」だったという過去の評価は、その豊かな自然と、それを守り、活用してきた人々の営みの中に、今も確かに見出すことができるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。