2026/5/22
龍野で薄口醤油が生まれたのはなぜ?軟水と京の食文化が鍵

龍野では薄口醤油が作られていると聞く。いつから作られているのか?なぜ作られるようになったのか?詳しく知りたい。
キュリオす
兵庫県たつの市で薄口醤油が作られるようになったのは、揖保川の軟水という地理的条件と、素材の色を活かす京阪の食文化への需要が背景にあった。良質な原料と水運、藩の保護も発展を後押しした。
播磨の小京都とも称される兵庫県たつの市。町を歩けば、白壁の土蔵や商家が並ぶ古い町並みが目に映る。その路地を抜けるたびに、どこからか醤油の香りが漂ってくることに気づく。この地が、日本の食文化に深く根ざした調味料の一つ、薄口醤油の主要な生産地であることは、多くの人が知るところだろう。しかし、なぜこの龍野の地で薄口醤油が生まれ、発展を遂げたのか。その問いは、地域の風土と歴史、そして人々の暮らしの中に、複数の層となって横たわっている。
龍野における醤油造りの起源は、安土桃山時代にまで遡る。天正15年(1587年)、円尾孫右衛門長村が武士の身分を捨て、酒と醤油の醸造販売を始めたのが、龍野醤油の始まりとされている。その後、横山五郎兵衛宗信や片岡治兵衛といった人々も醸造業に乗り出した。当初は濃口醤油が作られていたようだが、薄口醤油が考案されたのは、そのおよそ80年後、寛文6年(1666年)のことである。円尾孫右衛門長徳が淡い色の醤油を開発したとされる。
この転換の背景には、龍野の地理的条件が深く関わっていた。龍野地方の中央を流れる揖保川の伏流水は、極めて鉄分が少ない軟水であった。この水は、酒造りには酵母の無機栄養分が不足し、酒が腐りやすいという難点があったため、かつて盛んだった酒造業は次第に衰退していった。しかし、鉄分が少ない軟水は、醤油の色を濃くしない特性を持つため、淡い色の醤油を造るには理想的な条件を備えていたのである。
さらに、醤油の主原料となる大豆、小麦、塩の調達にも恵まれていた。近隣の播州平野からは良質な小麦が、佐用郡や宍粟郡からは「三日月大豆」と呼ばれる大豆が産出された。そして、瀬戸内海に面した赤穂からは、高品質な塩が容易に入手できた。これらの豊かな原料と、揖保川の清らかな軟水が揃ったことが、龍野が醤油の産地として発展する土台を築いたと言える。
薄口醤油が龍野で確立し、その名を広めた理由は、単に原料や水質の条件だけではなかった。決定的な要素の一つは、当時の大消費地である京都や大阪の食文化との結びつきである。関西の料理、特に京都の精進料理や懐石料理では、素材が持つ本来の色や風味を活かすことが重んじられた。醤油の色が濃すぎると、素材の持ち味を損ない、料理全体の見た目にも影響を及ぼす。そのため、色が薄く、それでいて深い旨味を持つ調味料が求められたのだ。
龍野の薄口醤油は、この京阪の需要に応える形で発展した。寛文年間(1661年〜1673年)には、甘味料として甘酒を用いる醸造法が考案されたと伝わる。これは、酒造りが盛んだった龍野の地の歴史とも無関係ではないだろう。甘酒を加えることで、醤油の色をさらに淡く保ちつつ、まろやかな甘みと独特の風味を加えることができた。この製法は、龍野醤油独自の伝統技法となり、その品質を一層高める結果となった。
また、揖保川の水運も重要な役割を果たした。龍野で生産された醤油は、高瀬舟で揖保川を下り、網干港から海路で大阪、さらに川船で京都へと運ばれた。この効率的な輸送ルートが、龍野の薄口醤油を京阪市場へ供給し、その評判を確立する上で不可欠であった。加えて、当時の龍野藩主であった脇坂安政が醤油醸造業の保護育成に力を入れ、薄口醤油を「国産第一之品」として奨励したことも、産業の発展を後押しした大きな要因である。
日本の醤油は、現在、主に5種類に分類されるが、その大半を占めるのは濃口醤油と薄口醤油である。濃口醤油が全国の生産量の約8割を占めるのに対し、薄口醤油は約1割強に留まる。この比率の背景には、地域ごとの食文化と、それに合わせた醤油の進化があった。
濃口醤油の主な産地は、千葉県の野田や銚子である。江戸時代、人口が急増し一大消費地となった江戸では、魚介類を多く用いた料理が発達した。魚の生臭さを消し、料理に力強い風味と色味を与える濃口醤油は、江戸の食文化において不可欠な存在となった。大豆と小麦をほぼ同量用い、時間をかけて発酵・熟成させる濃口醤油は、その豊かな香りと深い赤褐色が特徴である。
一方、龍野で発展した薄口醤油は、その名の通り色が淡く、香りが穏やかである。しかし、「薄口」という名称が示すように味が薄いわけではなく、むしろ濃口醤油よりも塩分濃度がやや高いのが特徴だ。これは、素材の色を活かすために少量で味を調える必要があったためだろう。関西の料理では、昆布だしや鰹だしといった繊細な出汁の風味を大切にし、素材そのものの色合いを損なわないことが重視されてきた。薄口醤油は、そうした関西の食文化の要請に応え、料理の脇役として素材の持ち味を引き立てる役割を担ってきたのである。
「薄口醤油」という言葉の初出は、元禄2年(1689年)の文献に見られるが、「濃口醤油」という言葉が一般的に使われるようになるのは、それよりもかなり後のことだという。これは、もともと色の濃い醤油が主流であった時代に、新しく開発された淡い色の醤油を区別するために「薄口」という表現が生まれたことを示唆している。醤油の種類が分化し、それぞれの地域の食文化に深く結びついていった過程が見て取れるだろう。
現代においても、龍野は薄口醤油の「聖地」としてその地位を保ち続けている。日本最大の薄口醤油の生産地であり、複数の醤油製造会社がこの地に点在している。特に「ヒガシマル醤油」は、龍野を代表するメーカーの一つとして全国にその名を知られている。
たつの市には「うすくち龍野醤油資料館」があり、龍野醤油の歴史と醸造技術を今に伝えている。かつてのヒガシマル醤油本社社屋を利用したこの資料館では、江戸時代から使われてきた醤油醸造用具など約2400点もの貴重な資料が展示されており、先人たちの知恵と工夫に触れることができる。観光客は、城下町の風情を残す町並みを散策しながら、醤油工場や「醤油まんじゅう」といった地域ならではの看板を目にすることも少なくない。中には、珍しい醤油の自動販売機を設置している場所もあるという。
近年では、地域の醤油メーカーが協業工場を設立するなど、品質の安定化や効率的な生産体制の構築にも取り組んでいる。また、第二次世界大戦中には、食糧難から米を原料とする薄口醤油の製造中止が危ぶまれた時期もあったが、関西での根強い需要に支えられ、その危機を乗り越えてきた歴史もある。戦後、食生活の変化とともに薄味嗜好が広がるにつれて、薄口醤油の需要は再び拡大していった。
龍野の薄口醤油が辿ってきた道のりは、単なる産業の発展史ではない。それは、地域の自然条件、人々の暮らし、そして食文化という複数の要素が複雑に絡み合い、一つの調味料を形作ってきた過程を物語っている。揖保川の軟水という、ある意味で酒造りには不向きとされた自然条件が、視点を変えれば薄口醤油の醸造には最適な環境となった。そこに、播磨平野の豊かな農産物、赤穂の塩、そして京阪の食文化からの明確な需要が重なったことで、龍野は薄口醤油の産地としての地位を確立したのである。
特に、素材の色と味を尊重する関西の食文化が、薄口醤油の誕生とその洗練を強く促した点は注目に値する。醤油が料理の主役ではなく、あくまで素材を引き立てる「縁の下の力持ち」としての役割を求められた結果、色を抑えつつ旨味と塩味を両立させるという、独自の進化を遂げたと言えるだろう。甘酒を用いる伝統的な製法は、その工夫の象徴であり、現代の食卓にもその名残を留めている。龍野の薄口醤油は、特定の風土と文化の中で育まれ、現代にまで受け継がれてきた調味料の奥行きを静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。