2026/5/28
按針の造船から温泉献上まで、伊東の歴史を辿る

伊東の歴史について教えて欲しい。どういう場所だったのか?
キュリオす
伊東は平安時代末期から伊東氏が治め、江戸時代には按針が西洋式帆船を建造。温泉は江戸城へ献上され、石材運搬の拠点ともなった。明治以降は鉄道開通で観光地化し、港町としての顔も持ちながら発展してきた。
伊東の歴史は古く、平安時代末期には藤原氏から分かれた伊東氏がこの地を治めていた。彼らは伊豆一円を統合する勢力を持ち、源頼朝の監視役を務めた伊東祐親の名は、『曽我物語』を通じて全国に知られることとなる。祐親は頼朝の旗揚げに際し平家方として戦い、命を落としたという。この時代から、伊東は伊豆における政治的な要衝の一つであった。
江戸時代に入ると、伊東の地は日本の歴史における重要な転換点に関わることになる。1604年(慶長9年)、徳川家康の外交顧問となったイギリス人航海士ウィリアム・アダムス(日本名:三浦按針)が、伊東の松川河口で日本初の西洋式帆船を建造したのだ。家康は、80トンと120トン、計2隻の船を造らせ、特に120トン級の「サン・ブエナ・ベンツーラ号」はメキシコまで航海している。この造船は、当時の日本が西洋の技術を取り入れようとする意欲と、伊東がそのための適地であったことを示している。伊東市では、按針の功績を称え、毎年8月に「按針祭」が開催されている。
また、この頃から伊東温泉は湯治場としてその名を知られていた。江戸時代には、3代将軍徳川家光に伊東のいで湯が樽詰めされ、船で江戸城へ献上された記録が残る。大名や庶民からも愛された伊東の湯は、江戸との間で活発な交流を生み出したのである。さらに、江戸城築城の際には、その膨大な石垣用の石材が伊豆から運ばれ、伊東もその中心的な産地の一つだったという。毎月2度、3,000艘もの船が江戸と伊東の間を往復したとされる。このように、伊東は古くから港と湯、そして技術と物資の交流拠点として機能していた。
伊東が現代に繋がる観光地としての姿を確立するのは、明治以降の交通網の整備と温泉掘削技術の進歩が大きく作用している。明治中期には汽船の利用が始まり、東京方面からの来遊者が増加した。しかし、当時は自噴する温泉を遠くまで引く技術が未熟だったため、温泉宿は限られた場所に集中していたという。
転機は明治末期に訪れる。新たな温泉掘削技術が開発されると、伊東の各地で温泉が掘られ、利用されるようになった。大正時代には松川の両岸に多くの温泉旅館や別荘が建てられ、温泉地としての賑わいを見せ始める。そして、昭和初期には鉄道の開通が決定的な役割を果たす。1938年(昭和13年)に伊東線が全線開通し、伊東駅が開業すると、伊東は首都圏からのアクセスが格段に向上した。これにより、伊東は「東海の熱海」と称されるほどの賑わいを見せ、多くの文人墨客が訪れる地となった。与謝野晶子や木下杢太郎など、多くの文学者が伊東の地を愛し、作品を生み出した記録が残されている。
第二次世界大戦後もこの流れは加速する。1961年(昭和36年)には伊豆急行線が伊東・下田間に開通し、伊東市南部での別荘開発が進展した。これにより、伊東は湯治客中心からリゾート・周遊型の観光客を誘致するようになり、1970年代にはリゾート型温泉保養地として大きく発展していく。しかし、その後のバブル崩壊と長期的な経済不況は、伊東を含む多くの観光地と同様に、観光客数の減少という課題を突きつけることとなる。
伊豆半島は、約2000万年前は本州から遠く離れた海底火山群であったという特異な地質を持つ。その成り立ちから、半島全体に豊富な温泉が湧出し、多様な自然景観が広がる。しかし、その中でも伊東は、他の伊豆の地域とは異なる独自の発展を遂げてきた側面がある。
例えば、伊豆半島の中央部に位置する修善寺温泉が古くからの湯治場としての趣を色濃く残し、文学的な雰囲気を纏う一方で、伊東は早くから港と温泉という二つの顔を持っていた。三浦按針による洋式帆船建造という歴史的エピソードは、伊東が単なる温泉地ではなく、交易や技術交流の拠点としての役割も担っていたことを示している。これは、伊豆半島の中でも特に東海岸に位置し、相模湾に面する地理的条件がもたらしたものであろう。
また、熱海温泉が明治以降、首都圏に最も近い「玄関口」として急速に発展し、歓楽街としての性格を強めたのに対し、伊東は温泉の豊富さに加えて、漁業が盛んな港町としての顔も持ち続けた。江戸時代には伊東のサバが江戸に運ばれ、今日でも地元の朝市や港町の風景にその名残が見られる。伊東港は古くから水産物の水揚基地としての役割を果たし、現在も観光港としての機能と並行して、漁業活動が営まれている。この港と温泉、そしてリゾート開発が複合的に絡み合った歴史が、伊東を「伊豆」という大きな枠組みの中で、より多角的な魅力を放つ場所へと昇華させたと言える。
「国際観光温泉文化都市」の指定を受けた伊東市は、現在もその名に恥じない観光地としての歩みを続けている。市域の約44.7%が富士箱根伊豆国立公園に指定され、2018年には伊豆半島全体がユネスコ世界ジオパークに認定されたことで、大室山や城ヶ崎海岸といった豊かな自然が再評価されている。
伊東港には、初島への定期旅客航路が発着し、伊東マリンタウンには海の見える日帰り温泉や足湯、地物土産を扱う商業施設が並ぶ。オレンジビーチのような人工海浜も整備され、夏には多くの海水浴客で賑わう。温泉旅館やホテルも多様な形態で存在し、源泉かけ流しを謳う宿も多い。
しかし、観光客のニーズの多様化や経済状況の変化は、伊東にも課題を投げかけている。かつての団体旅行ブームのような勢いはなく、観光客数は減少傾向にあるという。これに対し、伊東市では外国人観光客の誘致や地域資源を活用した観光マーケティング活動の強化など、新たな観光振興戦略を模索している。漁業においても、後継者不足や高齢化が進む中で、定置網漁による年間150種以上の魚の水揚げを活かし、六次産業化を目指す取り組みも進められている。
伊東の歴史を振り返ると、そこには常に海と山、そして豊富な温泉という三つの要素が深く関わってきたことがわかる。古くは伊東氏の支配、按針による造船、江戸への湯の献上、そして漁業の営み。近代以降は、鉄道による首都圏との接続が温泉観光地としての発展を加速させた。
伊東が「伊豆」の中で独特の雰囲気を放つのは、こうした多様な歴史が重なり合っているためだろう。単一の魅力に特化するのではなく、港町としての活気、湯治場としての癒し、そしてリゾート地としての開放感が、それぞれの時代で形を変えながら共存してきた。大室山から見下ろす相模湾の青と、街中に漂う湯の香り、そして港に揚がる新鮮な海の幸。そのどれもが、伊東という土地が持つ多面的な歴史を静かに語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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