2026/5/21
薩摩はなぜパリ万博で「薩摩国」として単独出展できたのか

薩摩はなぜパリ万博で単独で出展したのか?できたのか?
キュリオす
1867年のパリ万博で、薩摩藩は徳川幕府とは別に単独で出展した。これは、幕末の国内情勢と薩摩藩のしたたかな外交戦略、そしてフランス政府との交渉が重なった結果である。薩摩藩は自らを独立した「薩摩国」として国際社会に提示し、その後の日本のあり方を模索する先駆的な試みとなった。
1867年、パリ。セーヌ川沿いのシャン・ド・マルスに設けられた万国博覧会会場には、世界各国から集まったパビリオンが立ち並んでいた。その中に、ひときわ異彩を放つ一角があった。「日本」の展示区画は、徳川幕府の公式な出展と、もうひとつ「薩摩」の名を冠した区画に分かれていたのだ。日本というひとつの国家の代表が複数存在する状況は、当時の来場者にとって奇妙に映ったに違いない。なぜ、薩摩藩は単独で、しかも日本とは異なる旗を掲げて世界に自らの存在を示したのか。この問いは、幕末日本の複雑な政治状況と、ある藩のしたたかな外交戦略を浮き彫りにする。
薩摩藩がパリ万博で単独出展を果たした背景には、19世紀半ばの日本が置かれていた特異な状況がある。開国を迫られ、国内では尊王攘夷運動が激化する中で、徳川幕府の権威は揺らいでいた。一方で、薩摩藩や長州藩といった有力な雄藩は、幕府を介さずに独自に西洋諸国との接触を深めていたのである。薩摩藩は特にイギリスとの関係が深く、1863年の薩英戦争を経て、敵対関係から一転して友好関係を築くに至った。この戦争で西洋の軍事力の優位を痛感した薩摩藩は、急速な軍事・産業近代化を推し進め、蒸気機関や洋式紡績機を導入するなど、その実力は一地方藩の域を超えつつあった。
このような状況下で、薩摩藩は幕府に代わる新たな国家形成の担い手としての自覚を強めていた。西洋列強との直接交渉は、単に物資や技術の獲得に留まらず、国際社会における自らの地位を確立し、ひいては国内政治における発言力を強化する狙いがあった。幕府が依然として外交の全権を握るという建前を維持する中で、薩摩藩は巧みにその「余白」を突いていくことになる。彼らにとってパリ万博は、単なる文化交流の場ではなく、世界に向けて「薩摩」という独立した政治・経済主体をアピールする絶好の機会と捉えられていたのだ。
薩摩藩がパリ万博で単独出展できたのは、複数の要因が偶然に、そして必然的に重なり合った結果である。まず、幕府が1865年にフランス政府から万博への参加要請を受けた際、当初は日本の出展を単一のものとして計画していた。しかし、幕府は国内の事情に疎く、また国際的な博覧会に対する理解も十分ではなかったとされる。これに対し、薩摩藩は早くから「琉球国」名義での出展を画策し、フランスの駐日公使レオン・ロッシュを通じてフランス政府に直接働きかけていた。
薩摩藩が用いた戦略の一つは、琉球王国の宗主国としての立場を前面に出すことだった。幕府も琉球を薩摩の支配下にあると認識していたため、この名義での出展は、表向きは日本の「地方」からの参加という形をとりつつ、実質的には薩摩藩が主導する独立した展示を可能にした。さらに、薩摩藩は五代友厚や新納久脩(にいろ ひさのぶ)といった有能な人材を派遣し、フランスとの直接交渉を進めた。彼らはフランス政府関係者に対し、薩摩が幕府とは異なる独自の文化と経済力を持つことを強調し、独立した展示区画の確保に成功したのである。
この時期、幕府は開国に伴う国内の混乱と、列強との不平等条約改正交渉に追われており、地方藩の動きを細かく統制する余裕がなかった。また、フランス側も、日本という未知の国からの参加者を増やすことで万博の国際色を豊かにしたいという思惑があり、薩摩藩の申し出を容認した側面もあるだろう。結果として、パリの会場では「日本政府」のパビリオンと並んで、「薩摩国」の赤い十字旗が翻るという、前代未聞の光景が現実のものとなったのである。
パリ万博における薩摩藩の単独出展は、当時の国際博覧会における「国」のあり方を問い直す視点を提供する。一般的に、19世紀後半の万博では、宗主国が植民地を「展示」する構図が多く見られた。例えば、フランスやイギリスのパビリオン内には、それぞれの植民地から集められた物産や、時には「人間」が展示されることもあった。これらは宗主国の支配と文明化の象徴として位置づけられていたのである。
しかし、薩摩藩のケースはこれとは全く異なる。薩摩は、幕府という「宗主国」から半ば独立した形で、自らの意志で国際舞台に打って出た。彼らの展示は、植民地としての従属を示すものではなく、むしろ「薩摩焼」をはじめとする工芸品や農産物を通じて、独自の文化と産業の力を世界にアピールし、未来の国家を担う主体としての自立性を主張する試みだった。これは、フランスの「アンナン(ベトナム)」やイギリスの「インド」といった植民地展示が、本国のパビリオンの一部として統合されていたのとは対照的である。
この薩摩藩の行動は、明治維新後の日本が、西洋列強の植民地となることを避け、近代国家として自立していく過程の萌芽とも解釈できる。単に製品を売るだけでなく、国際社会における自らのアイデンティティを確立しようとするその姿勢は、当時の日本の他の地域には見られなかった先見性を示していたと言えるだろう。彼らは、国際博覧会が単なる経済活動の場ではなく、政治的メッセージを発信する場であることを見抜いていたのである。
パリ万博での薩摩藩の出展は、欧州の人々に強い印象を与えた。特に、色鮮やかな薩摩焼は「サツマ・ウェア」として人気を博し、ヨーロッパ各地で模倣品が作られるほどのブームを巻き起こしたという。薩摩藩は万博で得た利益を元手に、フランスから軍艦や兵器を購入し、さらに留学生を派遣して西洋の技術や知識を学ばせた。五代友厚らは、万博を通じて確立した人脈を活かし、帰国後も精力的に西洋諸国との交渉を続けた。
この経験は、薩摩藩の近代化を一層加速させ、幕府に対する優位性を確立する上で決定的な役割を果たした。万博で得た国際的な評価と実利は、薩摩藩が倒幕運動において中心的な役割を果たす原動力の一つとなったことは疑いない。パリでの経験は、単なる一地方藩の外交的冒険に留まらず、その後の明治維新という日本の大変革の胎動でもあったのだ。帰国した使節団の面々は、フランスで見た近代国家の姿を日本に持ち帰り、新しい国づくりへの具体的な青写真を描き始めた。
薩摩藩がパリ万博で単独出展したという事実は、当時の「国」という概念が流動的であったことを示す。近代国家としての「日本」がまだ確立されていない幕末において、薩摩藩は自らを独立した「薩摩国」として世界に提示した。これは、単なる強引な外交ではなく、来るべき国家の姿を模索する試みであったと捉えることができる。幕府の権威が揺らぎ、各藩が独自の外交を展開しようとする中で、万博は彼らにとって国際的な承認を得るための重要な舞台となったのだ。
薩摩藩の行動は、国際社会が「日本」という枠組みをどのように認識していたか、そしてその枠組みをいかに活用し、あるいは逸脱しようとしたかという問いを投げかける。最終的に、薩摩藩は日本の統一を主導する勢力の一つとなるが、その道のりにおいて、彼らがパリの地で掲げた「薩摩国」の旗は、単なる地方の意地ではなく、新しい日本の形を模索する先駆的な試みであったと言えるだろう。それは、現代の国家観からすれば異例中の異例だが、まさにその異例さが、幕末日本の多層的な政治構造と、その後の変化を予見させるものだった。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。