2026/5/29
宿場に常備された伝馬、目的地からどうやって元の場所へ戻った?

宿場におかれた伝馬は、どうやって返却されたの?勝手には帰ってこれないでしょ?
キュリオす
江戸時代の伝馬制度では、目的地まで運ばれた馬は原則として空馬で元の宿場へ引き返した。この負担を軽減するため、帰り荷の活用や宿場間の連携、助郷の協力といった工夫が凝らされ、街道の物流と情報網を支えていた。
江戸時代の街道を旅する。それは現代の移動とはまるで違う、時間と労力を要する営みであった。旅籠に宿をとり、次の宿場を目指す。その道中で人や荷物を運ぶために欠かせなかったのが「伝馬」である。宿場に常備された馬と人夫によって、公用の荷物や幕府の役人、大名行列などが効率的に運ばれた。しかし、そこで素朴な疑問が浮かぶ。目的地まで運ばれた伝馬は、一体どうやって元の宿場へ戻されたのだろうか。勝手に来た道を帰るわけにもいかないだろう。その背後には、緻密に練られた制度と、それを支える人々の労苦があった。
伝馬制度の原型は、鎌倉時代にまで遡ると言われている。幕府が各地に設けた駅家(うまや)がその始まりとされるが、本格的に整備されたのは江戸時代に入ってからであった。徳川家康は、関ヶ原の戦い以前から主要街道の整備に着手し、慶長6年(1601年)には東海道の宿駅伝馬制度を定めている。これは、幕府が公用の人馬を継ぎ立てるために、各宿場に一定数の人夫と馬を常備させることを義務付けたものだった。この制度は「伝馬役」と呼ばれ、宿場の重要な負担となった。当初、東海道の宿場には馬36疋、人夫36人が常備されたという。これらの人馬は、公用優先であり、一般の旅人は自力で人馬を調達するか、宿場の余力に頼るしかなかった。五街道が整備されるにつれて、この伝馬制度は全国に拡大し、日本列島を繋ぐ物流・通信の動脈を形成していったのである。
伝馬の運用は「継ぎ立て」を基本としていた。これは、ある宿場から次の宿場まで人馬を交代させながら進む方式である。例えば、品川宿から川崎宿へ荷物を運ぶ場合、品川宿の伝馬が川崎宿まで荷物を運び、そこで川崎宿の伝馬に引き継がれる。この継ぎ立てによって、馬は長距離を連続して走る負担から解放され、効率的な運用が可能になった。問題は、次の宿場まで運んだ馬をどうやって元の宿場へ戻すか、という点である。
原則として、目的地まで運ばれた伝馬は、その場で次の公用を待つか、あるいは「空馬(からうま)」として元の宿場へ引き返すことになっていた。この空馬での帰還には、通常、運賃は発生しない。そのため、宿場にとっては、馬を送り出すたびに、その馬が戻ってくるまでの間、人馬が不足するリスクと、空馬を帰らせる労力が生じることになった。
この負担を軽減するために、いくつかの工夫が凝らされた。一つは、次の宿場から送られてくる公用の荷物や人、あるいは一般の旅人の荷物などを、帰りの伝馬に積んで運ぶ「帰り荷」の仕組みである。これにより、空馬で帰るよりも効率が上がり、宿場の収入にも繋がった。また、宿場間で馬のやり取りを記録する帳簿が整備され、どの馬がどの宿場へ行ったのか、いつ戻る予定なのかが管理された。さらに、街道を往来する他の伝馬や、時には「助郷(すけごう)」と呼ばれる周辺農村からの臨時の人馬が、空馬の帰還を助けることもあったという。助郷は、伝馬だけでは賄いきれない需要に対応するため、周辺の村々に課せられた負担であり、彼らもまた伝馬制度を支える重要な存在であった。
伝馬制度のような馬による継ぎ立て方式は、古代ローマの「クルスス・プブリクス」や、中国の「駅伝制」など、世界各地の帝国で類似のシステムが見られる。これらの制度に共通するのは、広大な領土を効率的に統治し、情報と物資を迅速に流通させる必要性から生まれた点である。例えば、ローマ帝国では、駅ごとに馬や車両を常備し、公用使者が交代で乗り継ぐことで、広大な帝国内の情報を数週間で伝達することを可能にした。中国の駅伝制もまた、官吏の移動や公文書の輸送に用いられ、帝国の維持に不可欠な役割を果たした。
しかし、日本の伝馬制度が特徴的だったのは、その後の発展において、公用だけでなく次第に民間の物流にも門戸を開いていった点だろう。当初は公用優先だった伝馬も、余力があれば一般の旅人や荷物も運ぶようになり、街道沿いの経済活動を活性化させた。また、ヨーロッパの郵便馬車のように、民間企業が主導する形で発展したシステムとは異なり、日本の伝馬制度は幕府主導で整備され、宿場がその運営を担うという公的な性格が強かった。このため、宿場の負担は大きかったものの、安定した交通網が確保され、全国的な文化交流や経済発展の基盤となったのである。
現代において、伝馬が街道を駆ける姿を見ることはない。しかし、その痕跡は今も日本の各地に残されている。例えば、東海道や中山道沿いには、かつての宿場町の面影を色濃く残す場所が少なくない。間口の狭い短冊型の敷地や、本陣・脇本陣の跡、あるいは問屋場(といやば)の遺構などは、当時の宿場の構造を今に伝える貴重な手がかりである。問屋場は、伝馬役を担う宿場の中心施設であり、人馬の手配や荷物の管理、そしてまさに伝馬の帰還に関する記録など、多岐にわたる業務を担っていた。
また、宿場が持つ経済的な機能も、その後の町の発展に影響を与えた。伝馬制度によって人や物が集中した宿場は、商業や文化の中心地となり、独自の発展を遂げた場所も多い。一方で、伝馬役という重い負担は、宿場を構成する人々にとって決して楽なものではなかった。馬の飼育や人夫の確保、施設の維持管理には莫大な費用と労力がかかり、時には宿場の財政を圧迫することもあったという。伝馬制度は、街道を往来する人々の便宜を図るとともに、宿場の人々に大きな責任と負担を課していた側面も忘れてはならない。
宿場に置かれた伝馬がどうやって返却されたのか、という問いは、一見すると単純な物流の課題に見える。しかし、その背景には、公用優先という建前の中で、いかに効率を上げ、負担を分散させるかという、当時の人々の工夫と知恵が見え隠れする。空馬での帰還を原則としつつも、帰り荷の活用や、宿場間の連携、そして周辺農村からの助郷の協力といった多層的な仕組みによって、この大規模なネットワークは維持されていたのだ。
街道を歩くとき、かつてここを駆け抜けた伝馬と、その馬を送り出し、そして無事に帰還させるために奔走した宿場の人々の姿を想像してみる。彼らの地道な努力と、制度の隙間を縫うような工夫が、約260年にわたる江戸の平和な時代を支え、日本各地を結びつける物流と情報の動脈を機能させていたのである。それは、現代の物流システムとは異なるが、限られた資源の中で最大限の効率を追求した、人間らしい解決策の積み重ねだったと言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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