2026/5/20
もみじ饅頭はいつ誕生?宮島の紅葉に重ねられた明治の物語

広島を代表する銘菓、もみじ饅頭はいつできた?
キュリオす
広島銘菓もみじ饅頭の起源は明治時代後期。有力説は1906年の高津常助による考案だが、伊藤博文の冗談説も。観光土産として誕生し、機械化や多様な餡の登場を経て、今も進化を続ける。
広島県宮島を訪れると、多くの土産物店で焼きたてのもみじ饅頭が並ぶ光景を目にする。その名の通り、紅葉の葉をかたどった菓子は、今や広島を代表する銘菓として全国に知られている。しかし、この愛らしい饅頭が一体いつ、どのようにして生まれたのか、その起源を詳細に辿る者は意外と少ない。多くの人が当たり前のように手に取るこの菓子には、明治時代の宮島における観光と文化、そして人々の創意工夫が凝縮されている。
もみじ饅頭の誕生は、明治時代後期に遡る。最も有力な説は、1906年(明治39年)に宮島の和菓子職人、高津常助が「紅葉形焼饅頭」を考案したというものだ。高津は、紅葉の名所である紅葉谷公園内にあった老舗旅館「岩惣」に菓子を納めており、その女将から「紅葉谷の名にふさわしい菓子を」と依頼されたことがきっかけとされる。試行錯誤の末、紅葉の葉を模した焼き饅頭が誕生したのだ。
もう一つの説には、初代内閣総理大臣である伊藤博文が関わるとされる逸話がある。伊藤博文は度々宮島を訪れ、紅葉谷の茶屋で休憩した際に、給仕の娘の手を見て「なんと可愛らしい、もみじのような手であろう。焼いて食うたらさぞ美味しかろう」と冗談を言ったという。この言葉を耳にした岩惣の女将が、和菓子職人に紅葉の形をした菓子の考案を依頼した、という物語である。この「伊藤博文の冗談説」は、当時から伊藤博文が厳島びいきで知られ、「女好きの好々爺」というイメージが定着していたため、広く民衆に受け入れられたようだ。ただし、公式な記録として残っているわけではないため、あくまで俗説の域を出ないという見方もある。しかし、高津堂が伊藤博文の定宿であった岩惣の門前に位置し、取引関係にあったことを考えると、高津常助と伊藤博文が互いを認識していた可能性は否定できない。
いずれの説にせよ、もみじ饅頭が宮島の紅葉という自然美をモチーフとして、明治時代に観光土産菓子として誕生したことは共通している。当初はこしあん入りのカステラ状の焼き饅頭のみであったが、1910年(明治43年)には高津常助が「紅葉形焼饅頭」として特許庁より商標登録を取得している。この時点では高津堂による独占的な製造販売であったが、高津常助がその製法を独占しなかったため、その後、多くの菓子店が「もみじ饅頭」の製造に乗り出すこととなる。
もみじ饅頭が宮島の名物として定着し、全国的な知名度を獲得する背景には、いくつかの要因が重なっている。まず、その発祥の地が、日本三景の一つである厳島、通称「安芸の宮島」であったことが大きい。厳島神社への参拝客や観光客が絶えず訪れる地であり、紅葉の名所としても知られていたため、もみじの葉をかたどった菓子は土産物として自然に受け入れられたのだ。
大正時代から昭和初期にかけて、もみじ饅頭の製法は各店で洗練されていった。職人たちが原料の選定、生地の配合、焼き加減などに独自の工夫を凝らし、手作業で一つ一つ丁寧に焼き上げる製法が確立された。この時期、宮島島内にはもみじ饅頭を販売する店が10数軒に達していたという。
大きな転換期は、第二次世界大戦後に訪れる。1960年代に広島市内の業者が「もみじ饅頭焼成機」を開発したことで、機械による大量生産が可能になったのだ。この回転式の焼成機は、焼き型を次々と回転させながら一定の品質の饅頭を効率的に製造できるもので、多いものでは1時間あたり2500個の製造能力を持つとされる。機械化によって供給量が飛躍的に増え、価格も安定したことで、もみじ饅頭は宮島だけでなく広島県全体を代表する銘菓として全国に広がる基盤を築いた。
さらに、昭和後期には漫才コンビB&Bの島田洋七によるギャグ「もみじまんじゅう!」が全国的なブームを巻き起こし、その知名度を飛躍的に向上させた。同時期、1975年(昭和50年)の山陽新幹線開通も、広島への観光客増加に繋がり、もみじ饅頭の普及を後押ししたと言える。このブームを機に、従来のこしあんだけでなく、つぶあん、抹茶あん、チーズ、チョコレートなど、多様な餡のバリエーションが登場するようになる。
もみじ饅頭が広島の象徴的な銘菓として確立した経緯は、日本各地に存在する他の地域銘菓の発展と共通する部分もあれば、異なる側面も持つ。例えば、福岡の「博多通りもん」や名古屋の「ういろう」のように、単一のメーカーがその名を全国に広めた事例は少なくない。これに対し、もみじ饅頭は高津常助がその製法を独占しなかったため、多くのメーカーが「もみじ饅頭」の名称で製造・販売し、それぞれが独自の味や製法で競い合ってきたという特徴がある。これは、消費者が複数のメーカーの味を比較する楽しみを生む一方で、全国的なお土産ランキングなどでは単一メーカーの銘菓と比べて不利になるという指摘もある。
また、観光地における土産物としての発展という点では、京都の「八ツ橋」や鎌倉の「鳩サブレー」などと軌を一にする。これらの菓子も、古くからの名所を訪れる人々に向けた土産として定着し、その土地の文化や歴史と深く結びついてきた。しかし、もみじ饅頭の場合、明治期の文明開化と観光振興の波に乗って、いち早く機械化による大量生産体制を確立した点が注目される。これは、手焼きの伝統を守りつつも、現代のニーズに応じた生産効率を追求した結果であり、その後の全国的な普及に大きく貢献したと言えるだろう。
さらに、餡の種類や生地のバリエーションの多様化も、もみじ饅頭の独自性を際立たせている。伝統的なこしあんに加え、つぶあんの発祥を岩村もみじ屋が担ったとされる逸話や、チーズ、チョコレート、カスタードといった洋風の餡の登場は、1980年代のブーム以降、消費者の嗜好の変化に柔軟に対応してきた証左である。これは、伝統を墨守するだけでなく、革新を取り入れることで、幅広い世代に受け入れられる菓子へと進化を遂げた好例と言える。
現代の宮島や広島市内を歩けば、至るところでもみじ饅頭の専門店や土産物店が軒を連ねている。焼きたてのもみじ饅頭をその場で提供する店も多く、観光客は製造工程を間近で見学し、できたての温かい味を楽しむことができる。これは、単なる土産物としてだけでなく、現地での体験価値を高める工夫と言える。
餡の種類は、こしあん、つぶあんといった定番に加え、抹茶、チョコレート、チーズ、カスタード、さらには季節限定の桜あんやレモン餡など、数百種類に及ぶとも言われるほどの多様さを見せる。生地の面でも、従来のカステラ生地に加え、米粉やもち粉をベースにした「生もみじ」のような、もちもちとした食感のものが登場し、新たなファンを獲得している。また、「揚げもみじ」のように、もみじ饅頭を油で揚げて提供するスタイルも人気を集めている。
こうした多様化は、各メーカーが伝統を守りつつも、現代の消費者の嗜好やニーズに応えようとする努力の表れである。例えば、藤い屋のように、小豆の栽培から手掛けることで、素材へのこだわりを深めるメーカーも現れている。また、高津堂のように、一度は途絶えた「元祖」の味を、創業者である高津常助の孫が復活させ、手焼きの製法を継承する動きも見られる。宮島島内では、観光客が自分でもみじ饅頭を作る手焼き体験ができる施設もあり、菓子を「買う」だけでなく「作る」楽しみを提供する観光コンテンツとしての側面も強めている。もみじ饅頭は、単なる土産菓子を超え、広島県の文化的なアイデンティティの一部として、今もなお進化を続けているのだ。
もみじ饅頭の歴史を辿ると、単なる菓子の起源に留まらない、より広い視点が見えてくる。明治期に宮島の観光振興と結びついて誕生し、その後、機械化による大量生産、漫才ブームによる全国的な知名度獲得、そして多様なバリエーションの展開と、それぞれの時代における社会の変化や技術の進歩を巧みに取り込みながら発展してきた。
特に興味深いのは、その製法が高津常助によって独占されなかった点である。これにより、多くの菓子店が参入し、それぞれが味や製法に工夫を凝らすことで、結果的に菓子全体の品質向上と多様化を促した。これは、競争がイノベーションを生み、地域全体のブランド力を高めるという、現代の地域振興にも通じる構図を示している。
また、伊藤博文の逸話に象徴されるように、人々の記憶や物語が菓子のイメージ形成に深く関わってきたことも見逃せない。公式な記録がなくとも、語り継がれるエピソードは、菓子に親しみやすさや物語性をもたらし、その魅力を一層深める役割を果たした。もみじ饅頭は、宮島の美しい紅葉を映すだけでなく、時代ごとの人々の営みや、菓子に託された様々な思いを映し出す鏡のような存在である。その形状と味の変遷は、常に移り変わる社会の中で、いかにして伝統が継承され、そして更新されていくのかを静かに示している。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。