2026/5/23
丸亀城と金毘羅参詣、うちわ産業が結びついた町の歴史

丸亀の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
丸亀城は生駒、山崎、京極の三家によって築かれ、瀬戸内海の港として金刀比羅宮への玄関口となり栄えた。参詣客の往来は丸亀うちわ産業の発展を促し、塩田も町の産業を支えた。現代に続く城と港、手仕事の歴史を辿る。
丸亀の町を訪れると、まず目に飛び込むのは、幾重にも連なる壮麗な石垣の上にそびえる丸亀城の姿だろう。瀬戸内海の穏やかな水面を背景に、標高66メートルの亀山に築かれたその城は、白亜の天守が空に映え、見る者に静かな威厳を感じさせる。しかし、この城が立つ地が、単なる堅牢な要塞であったわけではない。そこには、海の道を行き交う人々の往来と、遠く京阪から信仰を集めた「こんぴらさん」への祈りが交錯する、豊かな歴史が息づいている。なぜこの地に、これほどまでの城が築かれ、そして人々の信仰と産業が結びついていったのか。その問いは、瀬戸の風が運ぶ潮の香りの向こうに、この町の持つ多層的な顔を浮かび上がらせる。
丸亀の歴史は、室町時代初期に管領細川頼之の重臣、奈良元安が亀山に砦を築いたことに始まるとされるが、城としての本格的な姿を現すのは、豊臣政権下、讃岐国を領した生駒親正の時代である。慶長2年(1597年)、親正は高松城を本城としつつ、西讃岐統治の要として亀山に支城の築城に着手した。慶長7年(1602年)にはほぼ現在の城郭が完成したものの、元和元年(1615年)の一国一城令により、丸亀城は破却の危機に直面する。当時の藩主であった生駒正俊は、城の要所を樹木で覆い隠し、立ち入りを厳しく制限することで、その危機を乗り越えたという。
しかし、寛永17年(1640年)に生駒家はお家騒動「生駒騒動」により改易され、出羽国矢島へ転封となる。翌寛永18年(1641年)、肥後国富岡(現在の熊本県天草郡苓北町)から山崎家治が5万石で入封し、丸亀城を本城とする丸亀藩が成立した。山崎家治は幕府の許可を得て、廃城となっていた丸亀城の再築に着手し、天守は寛永20年(1643年)に改築された。山崎家は三代で世継ぎが途絶え、万治元年(1658年)に再び改易となるが、その翌年、播磨国龍野から京極高和が6万石で入封し、以後、明治維新まで京極氏が丸亀藩主を務めることになる。京極氏の時代には、寛文10年(1670年)に大手一の門、二の門とその間の枡形が築造され、現在の丸亀城の姿が完成した。
こうして丸亀城は、生駒、山崎、京極と三家の藩主が入れ替わりながらも、瀬戸内を望むこの地に堅牢な城郭を築き、城下町の発展を支えてきた。特に京極氏は、丸亀の地を二百年以上にわたり治め、その治世は町の文化や経済に大きな影響を与えた。
丸亀が城下町として発展した背景には、その地理的条件と、金刀比羅宮への信仰という二つの大きな要素が挙げられる。丸亀港は、鎌倉時代には既に「丸亀浦」として存在し、江戸時代中期以降、金刀比羅宮の玄関港、そして大坂への綿の積出港として栄えた。大坂と丸亀港の間には定期の月参船や廻船が運航され、19世紀初頭には大規模な港の整備拡張が行われ、「四国一の港」と称されるまでに発展したという。港の周辺には旅籠や貸座敷が立ち並び、金毘羅参詣客や商人たちで賑わった。
「一生に一度は、こんぴらさんへ」という言葉が示すように、江戸中期以降、金刀比羅宮への参詣は庶民の間で広く流行した。丸亀港から上陸した参詣客は、本町から通町、冨屋町を通り、城下の出口である中府口へと向かう「丸亀街道」を歩いた。この街道は金毘羅五街道の中でも最も栄え、道標や丁石、灯籠が今もその面影を伝えている。
こうした参詣客の往来が、丸亀に新たな産業をもたらした。それが「丸亀うちわ」である。江戸時代初期、金毘羅宮参拝の土産として考案され、寛永10年(1633年)には金毘羅大権現の別当が、天狗の羽うちわにちなんだ「丸金」印の朱赤地渋うちわを売り出し、人気を博したという。天保年間(1830年〜1843年)には、丸亀藩が財政難の対策として下級武士の内職にうちわ作りを奨励し、これが地場産業として定着する。安政年間(1854年〜1859年)には年間80万本ものうちわが生産されていたとされる。うちわの材料となる竹が周辺で豊富に手に入ったこと、そして金毘羅参詣という確かな需要があったことが、丸亀うちわの発展を後押ししたのだ。
丸亀のような城下町でありながら、大規模な港湾機能を持ち、さらに伝統工芸品が発達した事例は、日本の他の地域にも見られる。たとえば、北前船の寄港地として栄えた日本海側の港町では、廻船問屋が富を蓄え、独特の文化や産業を育んだ。また、城下町の中には、特定の藩が特産品を奨励し、それが現代にまで続く伝統工芸品となっている例も少なくない。
しかし、丸亀の特徴は、その規模の大きな城郭と、広範な信仰を集めた金刀比羅宮への玄関口という二つの要素が、絶妙なバランスで結びついていた点にあるだろう。多くの城下町が内陸に位置するか、あるいは港が小規模であるのに対し、丸亀は城のすぐ外堀から海へと繋がり、金毘羅参詣客を乗せた船が直接乗り入れることができた。この「城と港の近接性」が、参詣客の利便性を高め、うちわ産業の発展を促した要因の一つと考えられる。
また、丸亀を含む讃岐地域は、年間降水量が少なく、水不足に悩まされてきた土地でもある。このため、江戸時代を通じてため池の造成が進められ、記録に残るだけで4,000基を超えるため池が築かれたという。この気候条件は、稲作には不利であった一方で、塩の生産には適していた。慶長年間(1600年頃)には入浜式塩田の築造が始まり、遠浅の海岸と潮の干満差を利用した製塩技術が導入された。明治時代には、香川県で全国の約3分の1の塩が生産され、坂出市が中心地となるが、丸亀周辺でも塩田が造成され、町の産業を支えた。この塩田の存在は、港町としての丸亀に、物資の集散地という顔だけでなく、生産拠点としての側面も与えていたのだ。
現代の丸亀市は、かつての城下町の面影を色濃く残している。市の中心部には、日本一の高さとされる60メートルにも及ぶ石垣を持つ丸亀城がそびえ、その威容は今も変わらない。天守は現存する十二天守の一つとして国の重要文化財に指定されており、四国最古の木造天守でもある。城の周囲には、武家屋敷の町割りが一部残り、丸亀高校周辺では当時の武家屋敷建築も散見される。
丸亀うちわもまた、現代に受け継がれる伝統工芸品だ。明治時代以降、機械化が進み、大正初期には脇竹次郎による「切込機」や「穴開け機」の発明によって大量生産が可能になった。これらの技術革新により、丸亀は全国の竹うちわ生産量の8〜9割を占める「日本一のうちわどころ」としての地位を確立した。現在でも、うちわの港ミュージアムではその歴史と製造工程を見学でき、地域の重要な産業であり続けている。
かつて金毘羅参詣客で賑わった丸亀港は、現代では塩飽諸島へのフェリーが発着する旅客港としての役割に加え、臨海工業地帯が開発され、大型船が行き交う工業港としての性格も強めている。太助灯籠は、その歴史を伝えるシンボルとして港に残り、往時の賑わいを静かに物語る。
丸亀の歴史を辿ると、そこに重層的な町の姿が見えてくる。堅牢な城郭が権威の象徴として存在し、同時に瀬戸内海の豊かな海上交通が経済の基盤を築いた。そして、金刀比羅宮への信仰という目に見えない力が、人々の往来を生み出し、うちわという手仕事の文化を育んだ。城と港、そして信仰と産業が互いに影響し合い、町の骨格を形成していったのだ。
特に興味深いのは、うちわ作りが藩士の内職として奨励されたという経緯である。武士が刀を置いても、その手で竹を割り、紙を貼る。それは、士農工商という身分制度の中にあっても、生活の糧を得るための柔軟な姿勢と、地域経済を支えようとする藩の現実的な対応を示唆している。丸亀の町は、ただ歴史の変遷を受け入れただけでなく、その時々の条件を読み解き、新たな価値を見出すことで、その形を変えながらも存続してきた。高石垣が風雪に耐え続けるように、丸亀の町もまた、瀬戸の光の中で静かにその歴史を紡ぎ続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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