2026/5/24
明治の浮世絵に描かれた相撲会場、アリーナ級の熱狂は本当だった?

明治の浮世絵で相撲の仮設会場がアリーナのようになっている。どのくらいの人が集まったのか?
キュリオす
明治期の浮世絵に描かれた相撲の仮設会場は、現代のアリーナを思わせるほど大規模に見える。当時の仮設小屋の構造や、江戸から明治にかけての相撲興行の変遷、そして初代国技館の収容人数から、その熱狂の現場に迫る。
明治期の浮世絵に描かれた相撲の仮設会場は、しばしば現代のスタジアムにも劣らぬ規模に見える。多数の観客がひしめき合い、何層にもなった桟敷席が土俵を囲む構図は、絵師の筆による誇張ではないかと疑う者もいるだろう。果たして、当時の仮設の興行場は、本当にあれほどの規模を誇っていたのか。その疑問は、明治という時代における相撲の立ち位置と、興行形態の変遷を辿ることで、より具体的な像を結ぶ。
江戸時代から明治初期にかけて、大相撲の興行は主に寺社の境内に設けられた仮設の「小屋掛け」で行われてきた。特に、江戸では本所回向院(現在の両国回向院)がその中心地であり、天保4年(1833年)以降、定場所として年に二度の興行が開催されていた記録が残る。これらの仮小屋は、よしず張りでありながらも、二階席や三階席まで設けられた巨大な構造物であったという。天候に左右され、雨が降れば興行が延期されるという制約があったものの、観客は寒さや暑さに耐えながらも熱心に相撲を楽しんだ。
しかし明治維新後、相撲は文明開化の波の中で「蛮風」と見なされ、一時は存続の危機に瀕する。転機となったのは、明治17年(1884年)に明治天皇が延遼館で天覧相撲を観戦したことである。この出来事を契機に相撲人気は回復し、梅ケ谷藤太郎(初代)や常陸山谷右衛門といった名力士たちが活躍することで、再び大衆の娯楽としての地位を確立していく。この人気の高まりは、やがて常設の相撲場を求める声へと繋がっていく。
明治期に描かれた浮世絵に見られる相撲場の壮大さは、当時の仮設小屋が持つ物理的な規模を反映している。江戸時代後期には、本所回向院で大規模な興行が行われ、その観客席は「桟敷」(さじき)と呼ばれ、土間や板敷きから一段高く設けられていた。これらの桟敷席は、現代の国技館に見られる「枡席」の原型ともいえるもので、木組みによって四角く仕切られ、複数の観客が座れるようになっていた。仮設とはいえ、二階、三階と階層を重ねた構造は、限られた敷地の中でより多くの観客を収容するための工夫であっただろう。
明治42年(1909年)に両国回向院境内に竣工した初代国技館は、その集大成ともいえる施設だった。東京駅の設計で知られる辰野金吾博士が手がけたドーム型屋根の洋風建築で、その収容人数は1万3千人に達した。これは、従来の仮設小屋が収容できたおよそ2千人程度という規模から、一気に6.5倍もの増加を意味する。この「大鉄傘」の愛称で親しまれた常設館の誕生は、雨天順延の心配なく興行を行えるという実利だけでなく、相撲が「日本の国技」として認識される端緒ともなった。
江戸時代から明治にかけての相撲興行は、都市の盛り場において、他の芸能と並ぶ一大イベントであった。例えば、歌舞伎の芝居小屋でも枡席が普及し、一般に「土間」と呼ばれた最も安価な席から、中二階、三階の上桟敷まで多様な座席が設けられていた。相撲の仮設会場もこれに倣い、多層構造の観客席を設けることで、多様な階層の人々を誘引していたと考えられる。
勧進相撲が盛んだった江戸時代には、土俵はなく「人方屋」(ひとがたや)と呼ばれる人間の輪の中で取組が行われた時期もあったという。しかし17世紀半ばには、格闘技のリングのように紐で囲った場所が生まれ、やがて俵で囲んだ四角い土俵が定着した。この土俵の確立と、それを囲む観客席の構造化は、相撲を単なる見世物から、より洗練された興行へと発展させる上で不可欠だった。江戸期には年2回の場所が寺社境内で行われ、明治に入っても回向院での興行は続いたが、天候に左右される仮設の限界は常に存在した。明治42年(1909年)の国技館完成は、他の地域に相撲常設館が次々と建設されるきっかけともなり、相撲興行の基盤を安定させる大きな転換点となった。
現在の両国には、旧国技館跡を示す円形のモニュメントが残されており、かつてこの地に巨大なドームがそびえていたことを物語る。相撲興行は新国技館に移ったものの、回向院を中心とした一帯は、今も「相撲の街」としての記憶を色濃く残している。
明治期の浮世絵に描かれた相撲の仮設会場がアリーナのように見えるのは、絵師の想像の産物というよりも、当時の興行が持つ熱気と規模を写し取った結果と捉えるべきだろう。二階、三階建ての桟敷席を備えた仮小屋は、現代の私たちが想像するよりもはるかに大規模な構造物であった。そこに詰めかける観客の数もまた、当時の相撲人気を裏付けるものだった。明治42年に完成した初代国技館が1万3千人もの観客を収容できたという事実は、それ以前の仮設興行が、それに近い規模の需要に支えられていたことを示唆している。
明治の浮世絵に見られる相撲の仮設会場の描写は、単なる絵画表現の誇張に留まらない。そこには、江戸時代から続く勧進相撲の伝統と、明治期に「国技」へと昇華していく相撲の熱狂が凝縮されている。多層の桟敷席で構成された巨大な仮設小屋は、雨天順延という制約を抱えながらも、当時の人々にとってかけがえのない娯楽の場であった。
つまり、浮世絵が映し出す「アリーナのような」会場は、実物のもつ空間的な迫力と、そこへ集う人々の熱量を表現した結果と言える。そして、その視覚的情報が、明治末期に1万3千人収容の常設館「国技館」が誕生するに至るまでの、相撲という興行の成長と、それを支えた大衆の期待を雄弁に物語っている。絵師の筆は、単なる風景を描いたのではなく、時代の空気と人々の感情を捉えていたのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。