2026/5/19
日本人の腸内細菌は海藻を分解する酵素を持つ?分解の仕組みと言説の真実

海藻を分解する酵素は日本人しか持たないというのは本当か?分解する仕組みは?
キュリオす
日本人の腸内細菌が海藻のポルフィランを分解する酵素遺伝子を持つという研究結果は、食文化と微生物の共進化を示す稀有な例です。この遺伝子水平伝播の仕組みと、日本人だけに特有ではない海藻分解能力について解説します。
食卓に並ぶ海藻料理は、日本人にとってごく日常的な光景だ。味噌汁の具材から、酢の物、煮物、そして寿司を巻く海苔まで、私たちは海藻を様々な形で享受してきた。その中で、時折耳にするのが「日本人は海藻を分解する特別な酵素を持っている」という話である。特に、欧米人には消化できない海藻も、日本人なら問題なく食べられる、といった文脈で語られることが多い。果たしてこの話はどこまで真実なのだろうか。
この「日本人と海藻」を巡る興味深い説は、2000年代後半に発表されたある研究に端を発している。2008年、フランスの科学者たちは、日本の特定の海域で採取された海洋細菌「ゾベリア・ガラクタニボランス」が、海藻の細胞壁を構成する多糖類の一種である「ポルフィラン」を分解する酵素を持っていることを発見した。ポルフィランは、紅藻類、特にアサクサノリなどに多く含まれる成分である。
そして2010年、彼らはさらに驚くべき報告をした。日本人の腸内細菌の中に、この海洋細菌由来のポルフィラン分解酵素の遺伝子を持つものが存在するというのだ。具体的には、腸内細菌の一種である「バクテロイデス・プレビウス」が、この遺伝子を水平伝播によって獲得していたことが示された。これは、腸内細菌が環境中の微生物から遺伝子を取り込むことで、新たな代謝能力を獲得した稀有な事例として注目されたのである。この発見こそが、「日本人は海藻分解酵素を持っている」という言説の科学的根拠となった。
では、具体的にどのような仕組みでこの酵素が機能するのか。ポルフィランは、ガラクトースという糖が硫酸基と結合した複雑な構造を持つ多糖類だ。この結合を効率的に切断するには、特定の「ポルフィラナーゼ」という酵素が必要となる。海洋細菌が持つこの酵素は、海藻が豊富な環境で生きる上で有利な能力であり、海藻を栄養源として利用するために不可欠なものだ。
日本人の腸内細菌がこのポルフィラナーゼ遺伝子を獲得した経緯としては、海藻を多く摂取する食文化が深く関わっていると考えられている。海苔などの加工品を通じて、海藻に付着していた海洋細菌が繰り返し体内に取り込まれるうちに、腸内細菌との間で遺伝子の水平伝播が起こったのではないか、という見方である。つまり、腸内に住み着いた細菌が、外から入ってきた別の細菌の有用な遺伝子を取り込み、自らの能力としてしまったのだ。これにより、日本人の腸内細菌はポルフィランを効率的に分解し、そこからエネルギーを取り出すことができるようになった、というわけである。
この「海藻分解酵素を持つ腸内細菌」の発見は、日本人の食文化と遺伝的背景、さらには微生物の進化という壮大なテーマを結びつけるものだった。しかし、「日本人だけが」という点については、より慎重な見方が必要だろう。実際には、ポルフィラン以外の海藻多糖、例えばアガロースやカラギーナンなどを分解する酵素は、日本人以外の地域に住む人々の腸内細菌からも見つかっている。例えば、北米の人々も、海藻由来の多糖を分解する酵素を持つ腸内細菌を一部保有しているという報告もある。
このことは、海藻を食べる文化が異なる地域でも、それぞれの食習慣に応じて腸内細菌が適応してきた可能性を示唆している。日本人の腸内細菌がポルフィラン分解酵素を獲得したのは、彼らが大量のアサクサノリを日常的に摂取してきたという、特定の食文化が背景にある。対照的に、他の地域の腸内細菌は、その地域で消費される別の種類の海藻多糖に対応する酵素を発達させてきた、と捉えることができるだろう。つまり、特定の海藻多糖に対する分解能力は地域によって特異的であるものの、海藻全般を分解する能力自体は、必ずしも日本人だけに限定されるものではない、ということだ。
現在、この海藻分解酵素の研究はさらに進められている。初期の研究では日本人の約15%からこの遺伝子を持つ腸内細菌が見つかったと報告されたが、その割合や分布は食習慣の変化とともに変動する可能性も指摘されている。現代の食生活では、伝統的な海藻の摂取量が減少したり、食のグローバル化によって多様な食材が取り入れられたりしている。このような変化が、私たちの腸内環境、ひいては腸内細菌の持つ酵素のレパートリーにどのような影響を与えるのかは、興味深い研究テーマである。
また、この酵素の発見は、腸内細菌が持つ機能の奥深さを改めて浮き彫りにした。遺伝子の水平伝播という現象は、生命が環境に適応し、進化していく上で重要な役割を果たす。私たちの腸内には、宿主である人間だけでは消化できない様々な物質を分解する細菌たちが共生しており、彼らの持つ酵素の多様性が、私たちの健康や栄養摂取に大きく貢献しているのだ。
「日本人は海藻を分解する特別な酵素を持っている」という言説は、部分的には真実であり、同時に限定的でもある。確かに、アサクサノリのポルフィランを分解する特定の酵素遺伝子を、日本人の腸内細菌が海洋細菌から獲得したという事実は、私たちの食文化と微生物の共進化を示す稀有な例だ。しかし、他の海藻多糖を分解する酵素は、他の地域の腸内細菌にも見られる。
この発見が示唆するのは、ある特定の食文化が、その地域の人々の腸内細菌叢に具体的な変化をもたらし、結果としてその地域の食生活への適応を深めてきた、という動的な関係性である。海藻を食べるという行為は、単なる栄養摂取に留まらず、私たちの腸内で静かに、しかし確実に、微生物の進化を促してきたのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。