2026/5/29
家康も食した?金谷宿の名物「勝鬨餅」の由来

金谷の名物の勝鬨餅について知りたい。家康にちなんだ甘味?
キュリオす
東海道の宿場町・金谷宿で親しまれた飴餅は、徳川家康が関ヶ原の戦いの前に食し、勝利後に「御開運の飴餅」と名付けたという伝説を持つ。一度は姿を消したが、現代に再現され、地域の歴史を伝える甘味となっている。
東海道二十四番目の宿場町、金谷宿は、江戸時代の交通の要衝として栄えた。東には「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」と歌われた大井川が流れ、西には金谷坂や小夜の中山峠といった難所が控えていたのである。大井川には橋が架けられず、旅人は川越人足の肩や蓮台に乗って渡るのが常であった。川留めになれば、数日から半月もの間、足止めを食らうことも珍しくなかったという。こうした地理的条件が、金谷宿を旅人にとって重要な滞在地とした。 この過酷な道中、旅人たちの間で親しまれたのが「飴餅」と呼ばれる餅菓子であった。特に金谷地区にあった「間の宿菊川」や日坂宿の名物として知られ、江戸時代の道中記にもその名が記されている。 葛飾北斎が描いた浮世絵「東海道五十三次 金谷」にも、飴餅を作る茶屋の様子が見られるという。 白い餅に水飴を絡めた素朴な菓子は、長旅の空腹を満たし、疲労を和らげる役割を担っていたのだろう。
「勝鬨餅」という現代の呼び名には、徳川家康との結びつきが色濃く反映されている。その由来は、関ヶ原の戦いに遡る伝説にある。慶長五年(1600年)、天下分け目の合戦へと向かう徳川家康が、この地を通過した際に「飴餅」を食したと伝えられているのだ。 掛川城主であった山内一豊が、家康をもてなすために献上したのがこの飴餅であったとも言われる。 家康はその味を気に入り、関ヶ原での勝利を収めた後、自らこの餅を「御開運の飴餅」と名付けたという。 この逸話が、餅に「勝鬨」という縁起の良い名を冠する根拠となった。江戸時代には数十軒の茶屋が飴餅を売っていたというが、明治に入り、峠を迂回する日本初の有料道路が開通すると、旅人の往来が減り、飴餅は次第に姿を消していった。 一時途絶えたこの歴史ある甘味は、2015年に島田市と藤枝市による「東海道街道文化創造事業」の一環として、江戸時代のレシピを基に再現され、「家康公の勝鬨餅」として現代に蘇ったのだ。
「家康公の勝鬨餅」は、江戸時代の主流であった「ういろう餅」を使い、小夜の中山に残る麦芽糖の「子育飴」を合わせて作られる。 ほどよい堅さとさっぱりとした甘さが特徴とされ、当時の旅人が求めたであろう滋養と食べやすさを現代に伝えている。この餅は、単なる菓子としての価値だけでなく、徳川家康という歴史上の人物との結びつきによって、地域に特別な意味を与えられていると言えるだろう。 「勝鬨」とは、勝利を収めた時に上げる鬨の声のことである。 この名には、家康の天下統一という偉業にあやかり、食べる者に開運や勝利をもたらすという願いが込められている。現代においても、勝負事を控えた人々が、その験を担ぐために求めることがあるという。このように、地域の特産品が歴史的背景や人物と結びつくことで、単なる飲食物を超えた象徴的な存在となることは少なくない。
歴史上の人物にちなんだ甘味は、金谷の勝鬨餅だけではない。例えば、静岡市を代表する銘菓「安倍川餅」も、徳川家康が名付け親と伝えられている。 伝承によれば、家康が安倍川のほとりに立ち寄った際、茶屋の主人が餅にきな粉をまぶし、安倍川上流の金山で採れる砂金に見立てて「金な粉餅」として献上したところ、家康が「安倍川餅」と命名したという。 また、豊臣秀吉にゆかりのある「柏餅(勝和餅)」も存在する。 天正十八年(1590年)の小田原攻めの際、秀吉が白須賀宿(現在の湖西市)の茶屋で出された柏餅を気に入り、「猿がばばの勝和餅」と名付けたという逸話が残る。 これらの例に共通するのは、名だたる武将が特定の甘味を食し、その勝利や功績と結びつけることで、その菓子が地域の名物として定着し、後世に語り継がれてきたという点である。しかし、勝鬨餅が一度廃れてから再現された経緯は、安倍川餅や柏餅が比較的継続して作られてきた歴史とは異なる。一度途絶えたからこそ、現代においてその再現が「街道文化の創造」という文脈で捉えられ、地域の取り組みとして再評価されている側面があるのだ。
現代の金谷では、「家康公の勝鬨餅」は、かつての旅人が行き交った街道の記憶を伝える役割を担っている。島田市金谷の菓子処「叶家」などで販売され、地元の人々はもちろん、東海道を訪れる観光客にも親しまれているのだ。 観光案内所や地域のイベントでも、「かなや名物、あめのもち~御開運の飴餅~」として紹介され、その歴史と物語が語り継がれている。 かつて旅人たちが難所を越える力を得たように、現代の私たちも、この餅を通して金谷の歴史や文化に触れることができる。地域の活性化を目指す取り組みの中で、失われかけた食文化を再発見し、現代の価値観に合わせて再構築する試みは、全国各地で見られる傾向だ。金谷の勝鬨餅もまた、そうした流れの中で、単なる土産物ではなく、地域の歴史と結びつく「生きた文化財」としての存在感を放っていると言えるだろう。
金谷の「勝鬨餅」は、徳川家康の故事に由来する甘味である。しかし、その価値は単に家康が食べたという事実だけに留まらない。一度歴史の表舞台から姿を消しながらも、地域の努力によって現代に再現されたという経緯は、この餅が持つ意味をより深くしている。 街道を行き交う人々が、困難な旅路の中で口にした素朴な甘味。それが天下人である家康の勝利と結びつけられ、「御開運の飴餅」として語り継がれた。そして現代、その物語とともに再び息を吹き返したこの餅は、過去と現在をつなぐ媒介となっている。菓子という日常的な存在が、時に歴史の大きな節目と交差し、人々の願いや記憶を乗せて時代を超えてゆく。その静かな力は、金谷の地を訪れる者に、街道が持つ物語の豊かさを伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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