2026/5/23
道後温泉と松山城、二つの顔を持つ街の歴史

松山の歴史ついて詳しく教えて欲しい。
キュリオす
約3000年の歴史を持つ道後温泉と、江戸時代に築かれた松山城。古代からの湯の里と近世の城下町という異なる起源を持つ二つの核が、地理的条件や歴史的背景の中で互いに影響し合い、現在の松山の姿を形作ってきた道のりを辿る。
松山を訪れると、まず二つの異なる空気が存在する。一つは、道後温泉の湯煙が立ち上る、古くからの湯の里の穏やかな気配。もう一つは、市街地の中心にそびえる松山城が放つ、かつての城下町の厳格な佇まいである。この二つの顔が、それぞれ独立した歴史を歩んできたように見えながら、実は互いに影響し合い、現在の松山の姿を形作ってきた。なぜ、この地には日本最古の温泉と、江戸時代に築かれた壮麗な城が並立しているのか。その問いは、この街がたどってきた道のりの中に答えがある。
松山の歴史は、まず道後温泉の存在にまで遡る。道後温泉は、約3000年という日本最古級の歴史を持つ温泉地として知られ、その名は『日本書紀』にも登場するほどだ。古くは「伊予の湯」あるいは「熟田津の湯」と呼ばれ、大化の改新以降に「道後」の名が定着したという。聖徳太子が来浴したという伝説や、白鷺が傷を癒したという「白鷺伝説」など、その歴史は神話や伝承に彩られている。飛鳥時代には、斉明天皇をはじめとする多くの天皇が訪れたとも伝えられている。 この湯の里は、権力者にとっても重要な場所であり続け、人々の生活と密接に結びついていたことがうかがえる。
一方、現在の松山市の中心部が城下町として姿を現すのは、はるか後の江戸時代初期、慶長年間に入ってからである。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方し、その功績によって伊予国を与えられた加藤嘉明が、慶長7年(1602年)に勝山に築城を開始したのが松山城の始まりだ。 嘉明は、それまで居城としていた正木城(現在の松前町)が手狭になったと考え、松山平野の中央に位置する勝山を選んだ。慶長8年(1603年)には、この地を「松山」と命名し、20万石の伊予松山藩が立藩した。
松山城の築城工事は約25年という長い歳月を要したが、嘉明は完成を目前にして会津へ転封となる。その後、蒲生忠知が入封して築城を完成させたものの、忠知が嗣子なく急逝したため、蒲生家は断絶する。 寛永12年(1635年)、徳川家康の甥にあたる松平定行が伊勢桑名から15万石で入封し、以降、久松松平家が明治維新まで14代にわたって藩主を務めることとなる。 松平家による治世の初期には、天守が落雷で焼失する不運に見舞われたが、文政3年(1820年)から再建に着手し、35年の歳月をかけて安政元年(1854年)に現在の天守が完成した。 このように、松山は古代から続く湯の里と、近世に新たに築かれた城下町という、異なる起源を持つ二つの核によって形成されていったのだ。
松山が城下町として発展した背景には、その地理的条件が大きく影響している。瀬戸内海に面し、海上交通の要衝であったことに加え、背後には松山平野が広がり、農業生産力も高かった。藩主となった加藤嘉明が松山城を築いたのは、瀬戸内海の防衛と政治の中心地とするためであった。 松山城の「連立式天守」と呼ばれる構造は、大天守を中心に小天守や櫓が連結され、敵の侵入を想定した防御上の工夫が随所に見られる。 この城は、単なる権力の象徴ではなく、実戦を強く意識した要塞としての機能を持っていたのだ。
江戸時代を通じて、松山藩は15万石の親藩として、武芸や学問を奨励した。 藩校では剣術、弓馬、槍術、柔道が必須とされ、国学や算術は排斥されるなど、武士の育成に重点が置かれた。 しかし、藩の財政は常に安定していたわけではない。江戸初期は経済的に豊かだったものの、寛文・延宝年間(1661-1680年)には干ばつや洪水による飢饉に見舞われ、以降は財政難が続いた。 特に享保17年(1732年)の享保の大飢饉では、領民の餓死者が3,500人にのぼる甚大な被害を受けながらも、藩士からは一人も餓死者が出なかったため、藩主は幕府から咎められ謹慎処分を受けることになった。 このような記録は、飢饉の厳しさと、当時の藩政における領民と藩士の間の格差を物語っている。
一方で、道後温泉は、その長い歴史の中で、常に人々の交流の場であり続けた。藩政期においても、貴族や武士、文化人たちが訪れ、温泉地としての名声を確立していく。 明治時代には初代町長・伊佐庭如矢の尽力により道後温泉本館が改築され、鉄道の引き込みも企図されるなど近代化が進んだ。 夏目漱石の小説『坊っちゃん』の舞台となったことで、道後温泉は全国的にその名を知られるようになる。 城下町としての松山と、湯の里としての道後が、それぞれ独自の役割と文化を育みながら、互いに隣接する形で発展していったのである。
日本の城下町は、多くの場合、戦略的な立地と経済的な要件によって形成された。松山も例外ではないが、道後温泉という古代からの湯の里が隣接している点は、他の多くの城下町とは異なる特徴として挙げられる。例えば、姫路城や熊本城のような大規模な城下町は、軍事的な拠点としての性格が強く、城郭を中心とした都市計画が徹底されている。これらの城下町にも門前町や商業地は発展したが、道後のように数千年の歴史を持つ温泉が、城の築城以前から独立した文化圏を形成していた例は稀である。
道後温泉の存在は、松山が単なる軍事・政治の中心地にとどまらない、多様な顔を持つ都市であることを示している。有馬温泉や白浜温泉といった他の日本三古湯と比較しても、道後温泉が城下町と密接に隣接し、その発展をある時期から共有するようになった経緯は特筆される。道後温泉は、聖徳太子や斉明天皇の来浴が伝えられるように、古くから貴人たちが訪れる場所であった。 その一方で、近世に築かれた松山城は、加藤嘉明が豊臣秀吉の「賤ヶ岳の七本槍」の一人であり、戦国時代の経験が築城に色濃く反映されている。 城郭が実戦を意識した連立式天守であること と、湯治場が古くから文化交流の場であったことの間には、対照的な性格が見て取れる。
また、松山港の歴史も、この地の多様性を物語る。松山港で最も古いとされる三津浜内港地区は、室町時代にまで遡る歴史を持ち、加藤嘉明の時代には松山城の築城に合わせて伊予水軍の拠点として整備された。 江戸時代には参勤交代の港として栄え、明治時代には高浜地区を中心に桟橋などの整備が進められ、夏目漱石の『坊っちゃん』にも当時の三津浜港の様子が描かれている。 松山は、陸の要衝である城と、海の玄関口である港、そして古からの湯の里という、複数の機能が複合的に発展した稀有な場所であったと言えるだろう。
明治維新後、松山藩は廃藩置県により松山県となり、後に愛媛県に編入された。 この時期、松山城は陸軍の管理下に置かれ、一時閉鎖される期間もあったが、大正12年(1923年)には旧藩主家当主の久松定謨が城郭を松山市に寄付し、市営の公園として再び公開されることとなった。 これにより、松山城は市民の憩いの場として、また観光資源としてその役割を変えていく。
しかし、松山は近代化の過程で大きな試練も経験している。太平洋戦争末期の昭和20年(1945年)7月26日深夜から翌日未明にかけて、松山は大規模な空襲に見舞われた。 アメリカ陸軍航空軍のB-29爆撃機128機が焼夷弾を投下し、旧市街地の大部分が焦土と化し、全戸数の55%、人口の53%が被災したという。 この空襲によって、松山城の乾門など一部の建物も焼失した。 市街地は壊滅的な被害を受けたが、幸いにも県庁や市役所などの主要な公共建築物は焼け残り、戦後の復興に役立ったとされる。
戦後の松山は、廃墟から立ち上がり、復興を遂げていった。松山城は昭和33年(1958年)以降、焼失した櫓などが木造で復元され、現在の姿を取り戻している。 道後温泉本館も、明治27年(1894年)に改築された木造三層楼の建物が、公衆浴場としては初めて国の重要文化財に指定され、今も現役で利用されている。 平成29年(2017年)には、飛鳥時代の建築様式を取り入れた道後温泉別館「飛鳥乃湯泉」が開業し、歴史ある湯の文化を現代に繋いでいる。 松山港も、明治以降の鉄道開通や阪神航路の就航を経て、現在では西瀬戸内経済圏の流通拠点として発展を続けている。
松山という都市は、その成り立ちにおいて、異なる時間軸が重なり合っている。道後温泉に代表される古代からの湯の文化と、江戸時代に築かれた城郭都市の歴史、そして近代の産業発展と戦災からの復興。これらが単に並列しているのではなく、互いに影響を与えながら、現在の松山の風景を形成してきた。
城下町として発展した松山は、その中心に権力の象徴である松山城を据え、周囲に武家屋敷や町屋が広がる都市構造を持っていた。一方で、少し離れた道後には、古くからの湯治場があり、身分や時代を超えて人々が集まる場所であった。この二つの異なる性格を持つ空間が、互いに補完し合い、松山の文化的な奥行きを深めてきた。城が政治の中心であると同時に、道後が文化交流の場として機能したことが、松山という都市の独自性を形作ったと言えるだろう。
現代の松山を歩くと、松山城の石垣の間に戦災を免れた古い建物を見つけたり、道後温泉本館の荘厳な木造建築に触れたりする。これらの風景は、この地がたどってきた幾多の変遷を静かに語りかけてくる。それは、古代からの普遍的な営みと、権力によって築かれた秩序、そして近代の破壊と創造が、一つの場所で交差してきた証左である。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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