2026/5/29
粟ヶ岳の磐座は、阿波々神社の古い信仰の証か

阿波々神社についても知りたい。磐座があるので古い場所なのか?
キュリオす
静岡県掛川市の粟ヶ岳にある阿波々神社には、巨石群である磐座が祀られている。磐座は社殿が建立される以前の祭祀跡とされ、神が降臨する依り代として信仰されてきた。この記事では、磐座が示す神社の始原や、他の磐座との比較を通して粟ヶ岳の独自性を探る。
静岡県掛川市の東部に位置する粟ヶ岳は、遠州灘や駿河湾からもその姿を望める標高532メートルの山である。山頂付近には、ヒノキの立木で描かれた巨大な「茶」の文字が遠くからも視認でき、現代のランドマークとして親しまれている。しかし、この山が古くから持つもう一つの顔は、阿波々神社が鎮座する神域としての顔だ。
阿波々神社は、その境内に巨石群を擁しており、これらが「磐座(いわくら)」として祀られている。磐座とは、古神道において神が降臨する依り代、あるいは神そのものとして信仰された岩石のことである。現代の神社建築が確立される以前、人々は自然の巨石や山そのものに神を見出し、祭祀を行ってきた。この粟ヶ岳の磐座は、阿波々神社が単なる創建年を記された社殿を持つだけでなく、それ以前の、より根源的な信仰の形を今に伝えているのではないか、という問いを投げかける。
阿波々神社の創建は、奈良時代の天平8年(西暦736年)と伝えられている。平安時代の法典である『延喜式神名帳』にもその名が記されており、1250年以上の長きにわたり、遠江・駿河地方の人々から広く崇敬されてきた古社であることがわかる。主祭神は、生産、子授け、安産成就の神とされる阿波比売命(あわひめのみこと)である。この神は、粟の穀霊を祀る神とも考えられていたようだ。
中世に入ると、阿波々神社は掛川城主である朝比奈氏から厚い崇敬を受け、荘厳な社殿が寄進されたという。しかし、戦国時代末期の元亀・天正年間、武田氏と徳川氏による遠江をめぐる攻防の中で兵火に見舞われ、社殿は焼失したと伝えられている。この戦乱により、神社の整備は長らく停滞し、古記録もほとんど失われたという。
明治時代に入り、神仏分離令が発せられると、神社と寺院の区別が明確になり、阿波々神社は郷社に列せられた。明治17年(1884年)には本殿や拝殿が改築されるなど復興が進んだが、太平洋戦争後は交通の便の悪さから一時的に参拝者が減少した時期もあった。しかし、車道の整備が進み、粟ヶ岳が桜の名所や眺望の素晴らしい場所として知られるようになると、再び多くの人が訪れるようになった。昭和61年(1986年)には創祀1250年記念事業として、本殿が山頂の現在地に移築され、拝殿や覆殿なども改築された。これは、かつて山頂が神の座であり、社殿は麓にあったという説に照らすと、現代における信仰のあり方の変化を示す出来事とも言える。
阿波々神社の境内、特に現在の社殿周辺には、複数の巨石が散見される。これらは「磐座」として祀られており、社殿が建てられる以前の古代祭祀の跡が残っているとされる。日本における磐座信仰は、社殿建築が普及する以前の古神道における根源的な信仰形態であり、特定の岩石に神が降臨すると考えられ、祭祀の中心とされてきた。
一般的に、磐座は神の「座」と書かれるが、岩そのものが神ではなく、神を迎えるための神聖な場所、あるいは神が宿る依り代として大切にされてきた。阿波々神社の場合、現在の本殿が昭和後期に山頂に移築されるまで、鳥居の奥は磐座がご神体として崇められ、神域として立ち入りが禁じられていた時期もあったという。これは、社殿が建立された後も、磐座が持つ本来の聖性が維持されてきたことを示唆する。
磐座の存在は、神社の歴史を単なる創建年や社殿の変遷だけでなく、さらに古い時代の自然崇拝へと遡らせる。神話によれば、天照大神が天岩戸に籠った話や、大国主命が出雲で国づくりを行った際に磐座が神々との会議の場として使われた伝承など、岩石は神が臨在する媒介や儀式空間として明確な役割を担ってきた。阿波々神社の磐座群も、単なる自然石ではなく、古くからこの地の人々が神の存在を感じ、畏敬の念を抱いてきた証と言えるだろう。
日本全国には数多くの磐座が存在し、それぞれが地域の信仰や歴史と深く結びついている。例えば、三重県熊野市の花の窟神社や、大阪府交野市の磐船神社、和歌山県新宮市の神倉神社のゴトビキ岩などは、代表的な磐座として知られている。これらの磐座は、いずれも神話や古文書に登場し、古代から現代に至るまで信仰の対象であり続けている。
奈良県の三輪山に点在する磐座群もその一つで、山そのものがご神体とされ、社殿を持たない「社なき神道」の原形を今に伝えている。また、兵庫県高砂市の生石神社にある「石の宝殿」のように、人為的に加工された巨大な石がご神体として祀られ、「日本三奇」の一つに数えられる例もある。これらの磐座は、自然の造形をそのまま尊ぶもの、あるいは人手が加わり信仰の対象となったものと、その形態は多様だ。
阿波々神社の磐座は、粟ヶ岳の山中に点在する巨石群が、古代の祭祀跡として位置づけられている点に特徴がある。社殿が整備される以前の祭祀場であったとされる平坦な場所も確認されており、自然の巨石を神の降臨地として直接崇拝する形態が色濃く残されていたことがうかがえる。これは、三輪山のように山全体を神体とする信仰に近い側面を持ちながらも、特定の巨石群を「座」として認識し、その前で祭祀を行っていたという、より具体的な古代祭祀の痕跡が明瞭に残されている点で、独自の価値を持つ。多くの磐座が社殿の奥に隠されたり、信仰の対象が社殿そのものに移ったりする中で、阿波々神社では磐座が神社の核心部分として認識され続けてきた。
現在の阿波々神社は、粟ヶ岳の山頂に本殿が鎮座し、参拝者は車道を利用して山頂までアクセスできる。境内には杉の巨木が立ち並ぶ原生林が広がり、その中に磐座群が点在している。訪問者は、社殿で参拝した後、遊歩道を進むことでこれらの巨石群を間近に見ることができる。
また、阿波々神社には「無間の鐘」という遠州七不思議の一つに数えられる伝説が残っている。かつて粟ヶ岳にあった観音寺の鐘をつくと、現世で巨万の富を得る代わりに、来世で無間地獄に落ちるとされた。この鐘は住職によって井戸に沈められたと伝えられ、その井戸跡が「無間の井戸」として境内に残されている。さらに、磐座群の中には「地獄穴」と呼ばれる岩の裂け目もあり、欲望のままに鐘をついた者が地獄に落ちたという伝説と結びつけられている。これらの伝説は、神仏習合の時代に形成されたものであり、現代の参拝者にとっては、単なるパワースポットとしてだけでなく、この地が持つ歴史的な奥行きを感じさせる要素となっている。
山頂からの眺望は素晴らしく、駿河湾や遠州灘を望むことができるため、桜の名所としても知られ、多くの観光客が訪れる。近年では、創祀1280年式年大祭が斎行されるなど、伝統の継承にも力が入れられている。阿波々神社は、古代の磐座信仰と中世以降の神仏習合、そして現代の観光文化が重なり合う、多層的な信仰の場として機能している。
阿波々神社の磐座は、この地が単に古くから信仰されてきた場所であるというだけでなく、日本の信仰形態の変遷を静かに物語っている。磐座は、神社という建築物がない時代から、人々が神の存在を感じ、畏敬の念を抱いてきた対象である。その意味で、磐座が残る阿波々神社は、まさに「古い場所」と呼ぶにふさわしい。
しかし、その「古さ」は単なる時間の長さだけではない。社殿が兵火で焼失し、神仏習合を経て、近代の神仏分離、そして現代の観光化に至るまで、磐座は形を変えずそこにあり続けた。社殿の移築や整備が進む現代においても、磐座が神社の核心として認識され、神域の象徴として存在している事実は、信仰が特定の形式に縛られることなく、自然物への畏敬という原初的な感覚に根差していることを示唆している。阿波々神社の磐座は、日本の神社のルーツ、そして信仰の連続性を考察する上で、具体的な手がかりを提示していると言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。