2026/5/19
肥前国一宮・與止日女神社:嘉瀬川の水神信仰と一宮の地位を巡る葛藤

備前国一宮の與止日女神社について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
欽明天皇25年(564年)創建と伝わる與止日女神社は、肥前国一宮として栄えた。主祭神は水神・與止日女命で、嘉瀬川流域の水神信仰と深く結びついている。一宮の地位を巡り千栗八幡宮と争った歴史や、金精さん信仰、川上峡の景観についても解説する。
與止日女神社の創建は、欽明天皇25年(564年)と伝えられる。これは『肥前国風土記』逸文に記された「與止姫の神」がこの地に鎮座したという記述に基づくものだ。主祭神は與止日女命(よどひめのみこと)で、神功皇后の妹、あるいは竜宮城の乙姫様として知られる豊玉姫命と同一視されることもある。この神は海の神、川の神、水の神として広く信仰を集め、農業や諸産業、厄除開運、交通安全の守護神とされてきた。
平安時代に入ると、この神社は肥前国の一宮としてその地位を確立する。延喜式神名帳には「與止日女神社」として記載され、当時の朝廷からの評価の高さがうかがえる。さらに時代が下り、弘長元年(1260年または1261年)には、神社の最高位である正一位の神階を授与された。これは鎌倉幕府をはじめとする武門や、後の領主である鍋島家など、歴代の権力者からの篤い尊信があったことを物語る。江戸時代初期の慶長7年(1602年)には、後陽成天皇から「大日本国鎮西肥前州大一之鎮守」の勅額を賜り、その地位は不動のものとなった。
しかし、その歴史は平坦ではなかった。文化10年(1813年)に火災で社殿を焼失するも、当時の藩主である鍋島家によって文化13年(1816年)には再建され、現在の姿へと復元された。また、弘安の役(1281年)の際には、與止日女大神の神霊が敵の船を打ち砕いたという伝説も残されており、この地の人々にとって、単なる信仰の対象を超えた、精神的な支柱であったことがうかがえる。
與止日女神社がこの地に深く根差した背景には、その地理的条件が大きく関わっている。神社が鎮座する佐賀市大和町川上は、嘉瀬川(別名:川上川)が流れる「川上峡」と呼ばれる景勝地であり、その一帯は「九州の嵐山」とも称される風光明媚な場所である。嘉瀬川は筑後川を除けば、佐賀平野において流域面積・延長ともに最大の河川であり、古くから人々の生活を支える重要な水脈であった。
この嘉瀬川にまつわる水神信仰は特に深く、流域は古来より聖地とされ、殺生禁断の地であったという。なかでも、ナマズは與止日女命の神の使い(御眷属)として崇められ、この地では食用としない慣習が今も残る。『肥前国風土記』には、川上に石神「世田姫(よどひめ)」がいて、海の神であるワニ(鰐魚)が常に流れに逆らって遡上し、その神のもとに海の小魚が多く従うという説話が記されている。この説話に登場する魚がナマズであると考えられており、水神としての與止日女命と川の生態系、そして人々の暮らしが密接に結びついていたことを示唆している。
また、神社の境内には「金精さん」と呼ばれる陽石が祀られている。これは子宝に恵まれない女性が肌を触れると子を授かるという信仰があり、古くから庶民の縁結びや子宝の神として信仰されてきた。このような生殖器崇拝は、水と豊穣を結びつける原始的な信仰の一形態であり、與止日女神社が単に特定の神を祀るだけでなく、生命の根源的な力への畏敬を包含する場所であったことを示している。さらに、平安時代には田島坐神社(現・田島神社)が肥前国で唯一の大社として崇敬されていたが、中世以降、国府に近い與止日女神社の実質的な地位が高まり、一宮として崇敬されるようになったという見方もある。これは、地理的な利便性と地域の政治的な中心地との関係が、神社の勢力図に影響を与えた一例と言えるだろう。
「一宮」という呼称は、律令制下で国司が任国内の諸社を巡拝する際の第一の神社に由来するとされる。しかし、その地位は常に不動のものではなく、時代とともに変化し、時には複数の神社がその名を争うこともあった。肥前国においても、與止日女神社はもう一つの有力な神社、千栗八幡宮(ちくりはちまんぐう)との間で、一宮の地位を巡る長きにわたる論争を抱えていた。
この論争は、慶長7年(1602年)に後陽成天皇が與止日女神社に「大日本国鎮西肥前州大一之鎮守」という一宮を称する勅額を下したことに端を発する。ところが、その7年後の慶長14年(1609年)には、千栗八幡宮にも「肥前国総廟一宮鎮守千栗八幡大菩薩」の勅額が下賜されたため、両社の間で約60年に及ぶ紛争が勃発したという。最終的には江戸幕府が「どちらも一宮の呼称を許さない」という形で決着を図ったとされるが、現代においては両社とも「肥前国一宮」を称している。
このような一宮を巡る争いは、肥前国に限った話ではない。相模国や佐渡国でも同様の論争があったことが知られている。これらの事例は、一宮という概念が単なる中央集権的な序列ではなく、地域の歴史的経緯、政治的力関係、そして地元の人々の信仰の篤さによって形作られてきた複雑なものであることを示している。備前国の一宮とされる吉備津彦神社や石上布都魂神社も、それぞれの地域において独自の歴史と信仰を背景にその地位を確立してきた。與止日女神社の場合、国府に近接する地理的優位性と、嘉瀬川の水神信仰という地域固有の要素が、その地位を支える大きな要因となったと言えるだろう。
現在の與止日女神社は、佐賀市景観重要建造物に指定された境内と社殿が、川上峡の豊かな自然の中に溶け込んでいる。参道を進むと、市指定文化財である「肥前鳥居」と呼ばれる独特の形状を持つ三の鳥居が目に留まる。柱が下に向かって太くなるその姿は、佐賀県地方でしか見られない特徴だ。
境内でひときわ目を引くのは、樹齢約1500年と伝わる大楠である。かつて落雷で倒れた先代の大楠の跡も残されており、その壮大さがうかがえる。拝殿の天井には、中国人画家による250枚もの天井画が描かれ、訪れる者の視線を引きつける。
年間を通じて様々な祭事が行われるが、特に春祭り(4月18日)と秋祭り(おくんち、10月10日)は、地域の人々にとって重要な行事である。春には川上峡に鯉のぼりが泳ぎ、屋形船が運航されるなど、観光客も多く訪れる。地元では親しみを込めて「淀姫さん」と呼ばれ、家内安全や交通安全、そして子授けや安産を願う人々が後を絶たない。かつては殺生禁断の地であった嘉瀬川も、今では川上峡の美しい景観を形成する一部として、人々に親しまれている。
肥前国一宮としての與止日女神社を訪れると、川という存在が、いかにこの土地の歴史と人々の精神性深く関わってきたかを実感する。嘉瀬川のほとりに鎮座し、水神を祀り、そしてナマズを神の使いとする信仰は、単なる伝承ではなく、水害と恵みを繰り返してきた川との共生の中で育まれた知恵と畏敬の念の表れだろう。
かつての一宮を巡る争いは、中央の権力と地域の固有性がせめぎ合い、その中で土地のアイデンティティが形成されていく過程を示している。與止日女神社は、国府に近接した立地という政治的な優位性と、嘉瀬川に根差した水神信仰という地域に固有の文化が結びつくことで、その地位を確固たるものとしてきた。
現代において、この神社は観光地として多くの人々を迎え入れる一方で、「淀姫さん」として地域の人々の日常に寄り添い続けている。川の流れが土地の風景を形作り、人々の暮らしを潤すように、與止日女神社の存在は、肥前国の歴史と文化の層を深く刻み込み、今もなお、その川辺で静かに土地の記憶を語り継いでいる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。