2026/5/28
江尻の追分羊羹と羽衣餅、名物菓子に隠された街道と港の物語

江尻の追分羊羹と羽衣餅について教えて。名物らしい。
キュリオす
東海道の宿場町・江尻で生まれた追分羊羹と羽衣餅。江戸時代初期創業の羊羹は旅人をもてなし、明治期に生まれた餅は三保の松原の伝説にちなむ。街道と港、そして風土が育んだ二つの名物の歴史を辿る。
東海道五十三次、その十六番目の宿場である江尻宿。現代の静岡市清水区にあたるこの地は、古くから駿河湾の恵みにあずかり、また富士川の水を湛える肥沃な土地として知られてきた。港町としての活気、そして街道を行き交う旅人たちの喧騒。そうした風景の中に、なぜ「追分羊羹」と「羽衣餅」という二つの甘味が、これほどまでに確固たる名声を得てきたのか。その背景には、単なる土産物にとどまらない、土地の歴史と人々の営みが複雑に絡み合っているように見える。
江尻の甘味の歴史を紐解くと、まず「追分羊羹」の名が浮かび上がる。その創業は江戸時代初期、寛永年間(1624~1644年)にまで遡るとされる。当時の江尻宿は、東海道と清水湊(現在の清水港)を結ぶ交通の要衝であり、多くの旅人や商人が行き交う場所だった。こうした人々をもてなすため、宿場には茶屋が軒を連ね、そこで供されたのが、日持ちが良く、手軽に栄養補給ができる羊羹であった。追分羊羹は、小豆と砂糖、寒天を練り上げた棹物(さおもの)の羊羹で、特に黒糖を用いた独特の風味と、竹の皮に包まれた素朴な姿が特徴とされてきた。
一方の「羽衣餅」は、より近代に近い明治時代に生まれたとされる。その名の由来は、三保の松原に伝わる「羽衣伝説」から。この餅は、求肥(ぎゅうひ)を主体とした柔らかな餅に、きな粉をまぶしたもので、口どけの良さと上品な甘さが特徴だ。追分羊羹が旅の土産として重宝されたのに対し、羽衣餅は三保の松原への観光客や、地元の人々の間で愛されてきた歴史を持つ。どちらの菓子も、江尻という土地が持つ「街道の宿場」と「景勝地」という二つの顔を映し出しているのだ。
なぜ江尻でこれらの甘味が花開いたのか。そこには複数の要因が重なっている。第一に挙げられるのは、やはり江尻が東海道の宿場町であったことだ。長旅の疲れを癒やす甘味は、旅人にとって重要な存在であり、宿場は菓子の需要を常に生み出す市場だった。追分羊羹が竹の皮で包まれ、日持ちするように工夫されたのも、旅の携行食としての役割を意識したものだろう。
第二に、清水湊という港の存在が大きい。港は物資の集散地であり、砂糖などの貴重な原材料が比較的容易に入手できたと考えられる。特に江戸時代には、黒糖が薩摩藩などから回送され、その流通経路が追分羊羹の風味形成に影響を与えた可能性も指摘されている。また、港を通じての情報交換や文化交流も、菓子の製法や嗜好に影響を与えたかもしれない。
そして第三の要因として、この地域の気候風土が挙げられる。温暖で水資源に恵まれた駿河の地は、小豆や米といった菓子の原材料の栽培にも適していた。さらに、富士山を望む景勝地としての魅力が、羽衣餅のように観光客を意識した菓子の誕生を促したのだ。街道、港、そして風土。これら三つの必然が重なり、江尻の甘味文化を育んだと言えるだろう。
東海道には多くの宿場町があり、それぞれに名物菓子が存在した。例えば、小田原宿の「ういろう」、藤枝宿の「丁子屋の丸子とろろ汁」(菓子ではないが名物として)、あるいは京都の「八ツ橋」など、その土地ならではの味が旅の記憶と結びついてきた。しかし、江尻の追分羊羹と羽衣餅には、他とは異なる側面が見られる。
多くの宿場菓子が特定の原料や製法に特化しているのに対し、江尻の場合は「羊羹」と「餅」という異なる系統の菓子が、それぞれ異なる時代背景と需要に応える形で定着している点だ。追分羊羹が旅の疲れを癒やす「実用的な甘味」としての性格が強かった一方、羽衣餅は、より「観光地としての物語性」をまとった贈答品としての性格が強い。これは、江尻が単なる通過点としての宿場機能だけでなく、清水湊という港、そして三保の松原という景勝地を抱えることで、多様なニーズに応える必要があったことを示唆している。
また、追分羊羹の竹の皮で包むという製法は、現代の個包装菓子が生まれる以前の、日持ちと携行性を両立させる知恵であり、他の地域で見られる箱詰めの羊羹とは一線を画す。このように、江尻の菓子は、その土地が持つ多面的な性格と、旅人や地元住民の具体的な生活様式に深く根ざした結果として、独自の進化を遂げてきたのだ。
現代の江尻、すなわち静岡市清水区では、追分羊羹と羽衣餅は今も地域を代表する銘菓として親しまれている。追分羊羹は、創業以来の製法を守り続ける老舗が複数軒あり、昔ながらの竹の皮に包まれた羊羹を製造・販売している。店舗を訪れると、その素朴な佇まいから、古くからの旅人たちが感じたであろう、変わらぬ安心感を覚えるだろう。一方、羽衣餅も、その柔らかさと上品な甘さで、地元の人々のお茶請けや、観光客の土産物として愛され続けている。
これらの菓子は、単に「昔からあるもの」として存続しているわけではない。現代の食の嗜好や衛生基準の変化に対応しながらも、伝統の味と製法を守るための工夫が重ねられている。例えば、追分羊羹は、竹の皮の風味を保ちつつ、長期保存が可能な個包装タイプも開発され、より多くの人々に届けられるようになっている。また、羽衣餅も、求肥の柔らかさを保つための技術や、きな粉の配合など、見えない部分での進化が続いているのだ。
江尻の追分羊羹と羽衣餅を巡る旅は、単に甘いものを味わうだけではない。そこには、東海道を行き交った人々の足跡、港で交わされた物資と文化、そして地域が育んできた知恵と工夫の痕跡が色濃く残されている。羊羹を一口噛みしめれば、遠い昔の旅人が感じたであろう疲労と、それを癒やす甘味の喜びが、竹の皮の香りとともに伝わってくるようだ。また、羽衣餅の柔らかさは、三保の松原の穏やかな風景と、そこに伝わる優美な物語を想起させる。
これらの菓子が現代まで受け継がれてきたのは、単なる美味しさだけではない。それは、江尻という土地が持つ歴史と文化を、五感を通じて伝える「語り部」としての役割を担ってきたからだろう。街道が廃れ、港の役割が変わっても、甘味は変わらずにその地の記憶を宿し続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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