2026/5/21
平賀源内の『物類品隲』、湯島の物産会から国益を説く

平賀源内の『物類品隲』について知りたい。
キュリオす
平賀源内の主著『物類品隲』は、湯島で開催された物産博覧会「薬品会」で展示された品々を基に、国内での自給自足と国益増進を目指した書物である。讃岐での生い立ちから長崎での西洋文化との接触、そして実証精神と国益への意識が、その知識の源泉となった。
平賀源内の主著とされる『物類品隲』は、宝暦13年(1763年)に刊行された全六巻の書物である。この書は、源内が師である本草学者・田村藍水と共に、宝暦7年(1757年)から宝暦12年(1762年)にかけて江戸の湯島で開催した「薬品会」、すなわち物産博覧会に出品された二千余種の中から、特に重要な三百六十種を選び出して解説を加えたものだ。薬品会は当初、新たな薬品や医療器具を扱う本草学者の勉強会としての性格が強かったが、次第に珍しい自然産品や器物を展示する博物展覧会へと発展していったという。
『物類品隲』の本文は四巻、産物図絵が一巻、付録が一巻で構成される。巻之五の産物図絵には、出品物の中から選ばれた珍品三十六種が描かれている。さらに付録の巻之六では、当時海外からの輸入に頼っていた朝鮮人参やサトウキビの栽培法、そして砂糖の製法が図解入りで紹介されている点が特徴的だ。これは、単なる記録に終わらず、国内での自給自足と「国益」増進を目指す源内の思想を明確に示していると言えるだろう。
平賀源内が多様な作物や自然物に関する知識を深めた背景には、彼の生い立ちと、当時の時代状況が複雑に絡み合っている。享保13年(1728年)、讃岐国(現在の香川県)に下級武士の三男として生まれた源内は、13歳頃から藩医のもとで本草学を、儒者からは儒学を学んだ。この幼少期の学びが、彼の自然物への関心の基礎を築いたことは想像に難くない。
転機となったのは、宝暦2年(1752年)頃の長崎遊学である。鎖国体制下にあって唯一西洋文化に触れることができた長崎で、源内は約一年間、本草学のほか、オランダ語、医学、油絵といった幅広い分野に接したと推測されている。この経験が、彼に西洋の知識や技術への強い関心を抱かせ、その後の人生を大きく方向づけた。長崎から帰郷後、彼は高松藩の薬園での仕事にも関わったとされるが、翌宝暦4年(1754年)には藩の役目を辞し、家督を妹婿に譲って江戸へと向かう。江戸では、本草学者・田村藍水に師事し、漢学も学んだ。源内はオランダ語の読解には長けていなかったとされているものの、ドドネウスの『草木誌』をはじめとする西洋の博物図譜を収集し、視覚情報から多くの知識を得ていた。
このように、源内の知識は、古典的な本草学の素養に加え、長崎での西洋文明との接触、そして師である田村藍水との交流、さらには自ら企画した物産会での実物調査と分類作業を通じて、多角的に培われていったのである。
源内が多種多様な作物に詳しかった理由は、彼の持つ強い実証精神と、「国益」への意識に集約される。当時の本草学は、中国の古典『本草綱目』に依拠する文献研究が主流であった。しかし源内は、単に書物を読むだけの学問を「紙上の空論」と批判し、実物を見て、触れて、その性質を究める「格物窮理」の重要性を説いた。この思想は、彼が主催した薬品会にも表れている。全国各地から集められた二千種を超える品々を、実際に手にとって分類し、記録する作業は、まさに実証的な博物学の試みであったと言える。
さらに、源内の知識の源泉は、単なる好奇心だけではなかった。彼は、当時の日本が海外からの輸入に頼っていた薬用植物や鉱物、さらには砂糖のような生活必需品を、国内で自給自足することを目指した。例えば、『物類品隲』で朝鮮人参やサトウキビの栽培法を詳細に記したのは、これらの作物を国内で生産することで、外国への依存を減らし、国の富を増やすという明確な意図があったからだ。これは、本草学を単なる薬学の枠に留めず、殖産興業や産業振興といった実用的な側面へと拡張しようとする、源内独自の「国益」思想の表れである。彼の知識は、机上の空論ではなく、具体的な社会課題を解決するための手段として追求されていたのだ。
江戸時代の博物学、あるいは本草学の系譜を遡ると、源内以前にも多くの優れた研究者がいた。例えば、貝原益軒が宝永6年(1709年)に著した『大和本草』は、中国の『本草綱目』に載っていない日本固有の植物を多数収録し、実地調査や観察による実証研究を重視した点で画期的だった。また、寺島良安が正徳2年(1712年)に編纂した『和漢三才図会』は、天文から動植物、地理まであらゆる事柄を網羅した百科事典であり、その情報量は圧倒的である。
これらの先行する著作と比較すると、平賀源内の『物類品隲』は、その知識の「雑然さ」において特徴が見えてくる。益軒の『大和本草』が日本の固有種に焦点を当て、体系的な記述を試みたのに対し、源内の『物類品隲』は、薬品会というイベントで集まった多種多様な品々をそのまま解説する性格が強い。そこには、薬草だけでなく、鉱物や動物、さらには生活用品までが混在し、分類法も『本草綱目』に倣いつつも、西洋博物学の要素や、国益という実利的な視点から製法まで踏み込むなど、既存の枠組みに収まらない奔放さがあった。
この「雑然さ」は、源内が特定の学問分野に閉じこもらず、本草学、地質学、蘭学、医学、殖産事業、戯作、発明といった多岐にわたる顔を持っていたことの証左とも言える。彼は、西洋の博物学が「仕組み」や「体系」を追求したのに対し、東洋の博物誌が「仕分け」に留まっていたという指摘がある中で、『物類品隲』を通じて、単なる仕分けに終わらない、実用と国益に直結する知識の活用法を示したのである。それは、体系的な学問の構築よりも、目の前の「物」からいかに新しい価値を引き出すか、という点に重きを置いた結果であった。
平賀源内の『物類品隲』は、彼が獄中で病死した安永8年(1779年)から約250年を経た現在も、江戸時代の博物学を語る上で欠かせない資料として評価されている。彼の試みは、当時の日本において、単なる学術的な探求だけでなく、殖産興業という具体的な社会貢献を目指す「実学」の先駆けであったと言えるだろう。エレキテルの復元や火浣布の製造、鉱山開発への尽力など、彼の多彩な活動は、常に「世に役立つ」ことを意識していた。
現代の私たちは、博物館や資料館で『物類品隲』の実物や複製を目にすることができる。そこには、江戸時代の日本人がいかに多様な自然物と向き合い、それらを生活や産業に活かそうとしていたかという記録が残されている。物産会という形で全国の産物を集め、それを図譜と解説でまとめるという手法は、現代の博覧会や産業見本市にも通じるプロデュース能力の表れでもあった。彼が残した、朝鮮人参やサトウキビの栽培法といった具体的な記述は、当時の日本の産業技術がどこまで進んでいたのか、またどのような課題を抱えていたのかを知る手がかりとなる。
『物類品隲』は、単なる過去の遺物ではない。それは、目の前にある「物」の価値を見抜き、それを社会に還元しようとした一人の異才の軌跡であり、現代の地域資源活用や一次産業振興を考える上でも、示唆に富む視点を与え続けている。
平賀源内の『物類品隲』を読み解くとき、「なぜこれほど多くの作物に詳しかったのか」という問いは、彼の知識が特定の専門分野に限定されることなく、広範な領域にまたがっていたことを示唆する。彼は、本草学という伝統的な枠組みを基盤としつつも、長崎で得た西洋の知見、全国各地を巡る実地調査、そして自ら企画した物産会での膨大な実物との対峙を通じて、その知識を重層的に構築していったのである。
この知識の広がりは、彼が単なる分類学者や記録者ではなく、その知識をいかに実社会に活かすかという「国益」への強い意志を持っていたことと不可分である。彼の目指したものは、学問的体系の完成よりも、具体的な問題解決や産業振興であった。例えば、朝鮮人参や砂糖の国内生産を促す記述は、当時の輸入依存という経済的課題に対する、具体的な提案であった。
源内の多岐にわたる知識は、彼が「非常の人」と評されたゆえんでもある。それは、既存の学問領域や身分の壁を越え、好奇心と実用性を羅針盤として、自らの足で知識の網目を広げていった結果だろう。その乾いた事実の積み重ねの中に、現代を生きる我々が失いかけている、地に足のついた探求の姿勢が静かに横たわっている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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