2026/5/21
生麦事件から薩英戦争へ、薩摩藩はなぜイギリスと戦ったのか

薩英戦争について詳しく知りたい。なんでいち藩がイギリスと戦争してんの?
キュリオす
1862年の生麦事件をきっかけに、薩摩藩はイギリスからの賠償金要求を拒否。1863年、鹿児島湾で開戦した薩英戦争は、薩摩藩に西洋の軍事力と近代化の必要性を痛感させ、その後の開国・近代化への道を決定づけた。
薩英戦争に至る道のりは、幕末の開国と攘夷を巡る混乱の中で始まった。1862年、薩摩藩主の父である島津久光が率いる行列が江戸からの帰途、武蔵国生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区)を通過する際、騎馬で道を横切ろうとしたイギリス人商人チャールズ・リチャードソンらを薩摩藩士が殺傷する事件が発生した。いわゆる「生麦事件」である。この事件は、開国後の日本における外国人の安全確保という国際的な問題と、日本の伝統的な武士の作法、そして攘夷思想が衝突した結果として起きた。 イギリス政府は事件の責任を幕府と薩摩藩に問い、賠償金十万ポンドの支払いと、リチャードソン殺害に関わった藩士の処刑、そして久光の謝罪を要求した。しかし、幕府は賠償金の一部を支払ったものの、薩摩藩は事件の正当性を主張し、要求を拒否した。当時の薩摩藩は、藩主の島津忠義が若年であったため、久光が実質的な指導者として藩政を取り仕切っていた。久光は、攘夷を国是とする朝廷に配慮しつつ、一方で幕府の権威を回復させようとする「公武合体」路線を進めていたが、生麦事件はその外交路線に大きな影を落とした。 イギリス側は再三の交渉にも応じない薩摩藩に対し、武力による解決を決断する。1863年8月、イギリス東インド・中国艦隊司令長官オーガスタス・クーパー率いる七隻の軍艦が鹿児島湾に侵入。薩摩藩は、すでに西洋式兵器の導入を進め、海岸には砲台を整備していたものの、その戦力は近代的なイギリス海軍に比べて劣ることは明白であった。それでも薩摩藩は、藩の威信と攘夷の覚悟を示すため、徹底抗戦の姿勢を崩さなかった。
薩摩藩がイギリスとの戦争に踏み切った背景には、いくつかの複合的な要因があった。まず挙げられるのは、幕末の動乱期における薩摩藩の強い自意識と対外強硬路線である。生麦事件は、薩摩藩士の伝統的な武士道に基づく行動と解釈され、外国人に対する攘夷の感情と結びついていた。藩内では、外国の圧力に屈することは藩の誇りを傷つける行為であり、武力で対抗すべきだという意見が支配的であった。 次に、当時の国際情勢と列強の認識不足も一因だろう。アヘン戦争で清国がイギリスに敗北したことは知られていたが、それが日本にもたらす具体的な脅威の認識は、藩の指導層においてもまだ十分ではなかった可能性がある。自藩の軍事力を過信していたわけではないにしても、近代兵器を導入しつつあった薩摩藩には、ある程度の抵抗は可能だという判断があったのかもしれない。 また、幕府との関係も複雑に絡んでいた。薩摩藩は公武合体を推進しつつも、幕府の外交政策には必ずしも従順ではなかった。イギリスの要求を突っぱねることは、幕府の弱腰外交に対する批判の表明でもあり、藩としての独立性を内外に示す機会でもあった。 そして、1863年8月15日、イギリス艦隊は鹿児島市街への砲撃を開始。これに対し、薩摩藩も応戦し、砲台からイギリス艦隊に砲撃を加えた。この戦闘で、鹿児島市街の多くが焼失し、薩摩藩は大きな被害を受けた。イギリス艦隊も旗艦ユーライアラス号が損傷し、多数の死傷者を出した。 戦闘は二日間にわたり、最終的にイギリス艦隊は鹿児島湾を離れ、横浜へと引き上げた。薩摩藩は賠償金は支払ったものの、藩士の処刑と久光の謝罪という要求は拒否したままであった。この戦いは、薩摩藩が近代兵器の有効性を痛感すると同時に、イギリス海軍の圧倒的な軍事力を肌で知る契機となったのである。
薩摩藩がイギリスと直接交戦したという事実は、幕末の日本において特異な事例として位置付けられる。他の主要な雄藩や幕府が、列強に対しどのような姿勢をとったか、あるいはどのような結果を迎えたかを比較することで、薩英戦争の持つ意味合いがより明確になるだろう。 例えば、同じく攘夷を掲げ、西洋式兵器の導入に積極的であった長州藩は、1864年に下関海峡を通過する外国船を砲撃し、その報復として英・米・仏・蘭の四カ国連合艦隊による下関砲撃を受ける。この「四カ国連合艦隊下関砲撃事件」では、長州藩の砲台は壊滅的な打撃を受け、多額の賠償金を課せられた。長州藩も薩摩藩と同様に武力で列強に抵抗したが、その結果は藩の疲弊と外交的敗北であった。 一方、幕府はペリー来航以来、日米和親条約、日米修好通商条約といった不平等条約を締結せざるを得ず、外交交渉の場で列強の圧力に屈する場面が多かった。幕府は国内の攘夷感情と列強の要求との間で板挟みとなり、有効な対外政策を打ち出せずにいた。武力衝突を避け、交渉によって事態を収拾しようとする姿勢が強かったが、それがかえって国内の不満を高める結果にも繋がった。 清国に目を向ければ、1840年代のアヘン戦争、1850年代のアロー戦争など、イギリスを中心とする列強との大規模な戦争を経験し、そのたびに多大な賠償金と領土の割譲、開港を強いられてきた。清国の事例は、列強の圧倒的な軍事力の前に伝統的な体制が崩壊していく過程を示しており、日本の各藩や幕府が直面した危機感の源泉でもあった。 これらの事例と薩英戦争を比較すると、薩摩藩の行動は、単なる感情的な攘夷論に留まらない、したたかな現実主義の一面も見て取れる。長州藩が四カ国を相手にしたのに対し、薩摩藩はイギリス一国との交戦であった。また、薩英戦争での直接的な敗北が、薩摩藩に西洋の軍事技術と組織の優位性を痛感させ、その後の急速な近代化への道を決定づけたという点で、単なる敗北以上の意味を持った。他の事例が、列強との「力の差」を一方的に突きつけられた形であったのに対し、薩摩藩の場合は、その「力の差」を認識した上で、それを自らの発展に取り込むという、ある種の転換を果たしたのである。
薩英戦争は、薩摩藩にとって大きな痛手であった。鹿児島市街は焼失し、多くの犠牲者を出した。しかし、この敗北は、薩摩藩の対外政策を劇的に転換させる契機となった。藩の指導者たちは、攘夷の不可能性と、西洋の軍事技術の優位性を痛感し、これまでの排外的な政策から一転して、積極的に西洋文明を取り入れる「開明」路線へと舵を切ったのである。 戦後、薩摩藩はイギリスとの和解交渉を進め、最終的に賠償金を支払い、両者の関係は改善に向かった。そして、藩はイギリスから最新の兵器や技術を導入し、軍事力の近代化を加速させた。さらに、藩費で若者をイギリスへ留学させ、西洋の学問や技術を学ばせた。薩摩藩英国留学生、いわゆる「薩摩スチューデント」と呼ばれる彼らは、帰国後、明治維新や日本の近代化において重要な役割を果たすことになる。 現在の鹿児島市内には、薩摩藩の近代化への歩みを今に伝える場所が点在している。特に、集成館事業の跡地は、その象徴と言えるだろう。島津斉彬によって始められたこの事業は、鉄製大砲の製造、洋式帆船の建造、紡績機械の導入など、多岐にわたる産業の近代化を目指したものであった。薩英戦争によって一部は破壊されたものの、戦後すぐに復興が進められ、薩摩藩の近代化を支える拠点となった。現在、その一部は「旧集成館機械工場」として世界文化遺産に登録されており、当時の面影を偲ぶことができる。また、仙巌園には反射炉跡や異人館といった関連施設も残り、薩摩藩が西洋文明といかに向き合ったかを示す貴重な史跡となっている。 これらは、単に過去の遺物として存在するのではない。薩摩藩が一度は武力で対峙した相手から、敗北を糧にして学び取ったという、歴史の複雑な層を現代に伝えている。
薩摩藩がイギリスとの戦争に挑んだのは、一見すると無謀な挑戦に見える。しかし、この戦いは、単なる「いち藩がイギリスと戦争した」という事実以上の意味を日本史に残した。薩摩藩は、この直接的な対決を通じて、攘夷論の限界と、西洋列強の圧倒的な軍事・技術力を痛感した。この「敗北」が、結果として藩の指導者たちに、攘夷から開国・近代化への政策転換を促す決定的な契機となったのである。 もし薩摩藩がこの戦いを経験していなければ、あるいは戦わずして列強の要求を受け入れていれば、その後の日本の近代化の道筋は大きく異なったかもしれない。自らの手で列強の力を「体験」したことで、薩摩藩は、単に外国の技術を模倣するだけでなく、その背景にある思想や制度までも深く理解しようとする姿勢を持つようになった。これは、日本の近代化が単なる表面的な西洋化に留まらなかった理由の一つとして挙げられるだろう。 薩英戦争は、当時の日本の人々にとって、西洋列強の脅威を肌で感じる機会となった一方で、その脅威を乗り越えるための具体的な方策、すなわち「学び」と「変革」の重要性を薩摩藩に突きつけた。この一戦は、日本の近代国家形成において、外国との直接的な衝突が、ある種の「教育」として機能し、その後の日本の針路を決定づける重要な転換点となった、という視点を提供してくれる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。