2026/5/23
讃岐うどんの変遷、弘法大師の伝承から「うどん県」へ

讃岐うどんの歴史についてめちゃくちゃ詳しく知りたい。昔から同じなのか?変遷はあるのか?
キュリオす
讃岐うどんのルーツは弘法大師空海が伝えた製法とされるが、現代の麺の形は江戸時代以降に確立。瀬戸内の風土が小麦、塩、醤油、イリコを揃え、庶民の食として定着。戦後、製麺所の増加や観光客の増加で全国区となり、「うどん県」キャンペーンで地域ブランドを確立した。
讃岐うどんのルーツを語る上で、弘法大師空海の存在は欠かせない。香川県善通寺市で生まれた空海が、唐での修行を終えて帰国した延暦23年(804年)頃、小麦の製粉技術や麺の製法を日本に伝えたという説は広く知られている。特に、故郷である讃岐の地にその技術を広めたことが、讃岐うどんの始まりとされる物語の核にある。しかし、当時の麺が現代のような細長い形状であったかといえば、諸説あるが、丸みのある団子状の「はくたく」と呼ばれるものであった可能性が高いとされている。現在の麺の形が確立されたのは、室町時代以降、あるいは江戸時代に入ってからだと考えられているのだ。
讃岐におけるうどん文化の浸透を示す具体的な資料としては、江戸時代中期、元禄年間(1688年〜1704年)に描かれた「金毘羅祭礼図屏風」が挙げられる。この屏風絵には、金刀比羅宮の門前町に三軒のうどん屋が描かれており、当時の参詣客がうどんを食していた様子がうかがえる。また、1712年頃に編纂された百科事典『和漢三才図会』には、「諸国に皆これがあるが、讃岐丸亀の産を上とする」と記されており、讃岐のうどんがその品質において既に評価されていたことがわかる。このように、弘法大師の伝承から数百年を経て、江戸時代には讃岐の地でうどんが庶民の食として根付き、その存在が記録に残されているのだ。
讃岐の地でうどん文化が深く根付いた背景には、この地域の地理的・気候的な条件が大きく影響している。香川県を含む瀬戸内海沿岸は、温暖で雨が少ない「瀬戸内海式気候」に属する。この気候は、稲作には不向きな一方で、小麦の栽培、製塩、そしてうどんのだしに欠かせないイリコ(煮干し)の生産に適していた。
具体的には、讃岐平野は降水量が少なく、度々干ばつに悩まされたため、米の安定生産が困難であった。そのため、水田を必要としない小麦が重要な作物として広く栽培され、米が贅沢品であった時代には、麦で作られたうどんが農民たちの日常食、あるいは「生きるための知恵」として不可欠な存在となっていった。
また、瀬戸内海の遠浅の海岸線は塩田の展開に適しており、江戸時代には入浜式塩田が開発され、坂出市を中心に良質な塩が大量に生産された。さらに、小豆島では古くから醤油の醸造が盛んであり、伊吹島周辺の燧灘ではイリコとなるカタクチイワシが豊富に獲れた。このように、うどんの主要な材料である小麦、塩、醤油、イリコがすべて地元の良質な特産品として揃っていたことが、讃岐うどんが発展し、定着した決定的な要因となったのである。これらの条件は、単にうどんが作られるだけでなく、その品質を高め、讃岐独自の麺文化を形成する基盤となった。
日本における麺文化は、地域によって異なる発展を遂げてきた。しばしば「東のそば、西のうどん」と称されるように、関東ではそばが、関西ではうどんが主流となる傾向がある。この東西の対比は、単なる嗜好の違いに留まらず、それぞれの地域の歴史的背景や社会構造を映し出している。
江戸時代、武士階級が中心であった江戸では、そばが「質素倹約」の精神に合致する食べ物として広まった。また、そばに含まれる栄養素が体調管理に良いとされ、常に身体能力を維持する必要があった武士にとって理想的な食事であったとも言われる。一方、商人の町として栄えた大坂を中心とする上方(関西)では、うどんが庶民の日常食として広く親しまれた。うどんの太さや腹持ちの良さは、力仕事をする労働者の空腹を満たすのに適しており、実用的な食べ物として重宝されたのだ。
讃岐うどんも、このような西日本のうどん文化圏の中で独自の進化を遂げてきた。米作に適さない土地で小麦を育て、それを食料とする「生きる知恵」から生まれたうどんは、他の地域のうどんが持つ高級性や特定の階級性とは異なり、より生活に密着した、日常の糧としての性格が強かった。例えば、秋田の稲庭うどんが献上品として食され、一般にはあまり流通しなかったとされるのに対し、讃岐のうどんは家庭で手打ちされ、ハレの日のご馳走として、あるいは日々の食事として、広く人々に食べられてきた。この「日常性」こそが、讃岐うどんを他の麺とは異なる軌跡で発展させた要因の一つである。
戦後の食糧事情の変化は、讃岐うどんのあり方にも大きな影響を与えた。1952年(昭和27年)に食糧管理法が改正され、配給制が撤廃されると、製麺所が増加。競争が激化する中で、製麺所が自らの軒先でうどんを食べさせるようになる。これが、今日の「製麺所うどん」や「セルフうどん」の原型となった。
「讃岐うどん」という呼称が一般的に使われ始めたのは1960年代頃からとされる。そして、1970年(昭和45年)の大阪万博での出店をきっかけに、讃岐うどんは全国的な知名度を獲得し、第一次うどんブームが到来した。さらに1988年(昭和63年)の瀬戸大橋開通は、香川県へのアクセスを劇的に改善し、うどんを求める観光客を増加させた。この頃には冷凍うどんの品質も向上し、全国的な普及に拍車がかかった。
2000年代に入ると、地元メディアによる「怪しいうどん屋巡り」がブームとなり、香川県内の個性的なうどん店が注目を集める。2002年(平成14年)には、セルフ方式の讃岐うどん店が首都圏に進出し、全国的にそのスタイルが広まった。そして2011年(平成23年)、香川県は「うどん県」への改名を宣言する観光キャンペーンを展開。この大胆な施策は大きな反響を呼び、讃岐うどんを地域ブランドの象徴として確立させた。かつては家庭で足踏みによって作られていた生地も、衛生面や効率化の観点から、1965年(昭和40年)には製塩業の藁加工機を応用した混捏用機械が開発されるなど、製法も進化を遂げている。
讃岐うどんの歴史を振り返ると、それは決して固定されたものではなく、常に変化と適応を繰り返してきたことがわかる。弘法大師の伝承に始まり、団子状の「はくたく」から長麺へと形を変え、米作が困難な土地の知恵として庶民の食卓に定着した。江戸時代の屏風絵にはすでにうどん屋の姿が描かれ、明治・大正期を経て、戦後の経済成長と交通網の発達が、その地位を大きく押し上げた。
特に現代においては、「讃岐うどん」というブランドが確立され、全国的な知名度を得たことで、その定義や本質が改めて問われるようになった。香川県内で製造され、手打ちまたは手打ち式、特定の加水量と食塩量、熟成時間を経て、十分なアルファ化がされていること、といった具体的な基準が設けられている。しかし、その一方で、伝統的な製法を守り続ける店と、観光客のニーズに応えるべく多様なメニューやサービスを提供する店が混在しているのが現状である。
「昔から変わらない」というイメージは、長い歴史の中で積み重ねられてきた事実の一部に過ぎない。讃岐うどんは、その時々の風土、技術、社会情勢に応じて姿を変え、そのたびに新たな価値を見出してきた。現代においても、地元の小麦「さぬきの夢」の開発や、出汁の工夫、多様な食べ方の提案など、その進化は続いている。一杯のうどんが、過去と現在、そして未来へと繋がる、柔軟な食文化の象徴として、その土地の物語を語り続けている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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