2026/5/22
『播磨国風土記』に宿る古代の地名と伝承

『播磨国風土記』には何が書いてあるのか?詳しく知りたい
キュリオす
『播磨国風土記』は、和銅6年の詔により編纂された古代の地誌。地名説話や土地の評価、神話や伝承など、古代の人々が播磨の地をどう見ていたかを伝える。現存する五つの風土記の中でも、神と天皇に関する説話がバランス良く収録され、在地伝承の改変が少ない特徴を持つ。
兵庫県南西部に広がる播磨平野に足を踏み入れると、瀬戸内海の穏やかな気候とは裏腹に、かつてこの地が日本の歴史の重要な結節点であったことを示す痕跡が点在している。古墳の連なり、古社寺の佇まい。しかし、それらの具体的な意味を深く探ろうとすると、現代の案内板だけでは捉えきれない、土地固有の物語の断片にたどり着くことがある。その声なき声に耳を傾ける手がかりの一つが、奈良時代初期に編纂された『播磨国風土記』だ。現存する数少ない風土記の中でも、その記述は今日に何を伝えているのだろうか。単なる地誌を超え、古代の人々がこの地をどう見ていたのか、その問いの答えは、書物の中に息づく地名や伝承の奥に隠されている。
『播磨国風土記』が編纂されたのは、和銅6年(713年)に元明天皇が全国の国々に命じた「地誌撰上(ちしせんじょうの詔)」が契機である。これは、好ましい漢字を用いて郡郷の名を記し、産物、土地の肥沃さ、山川原野の地名由来、そして古老が伝える旧聞異事を報告させるというものであった。律令国家の体制を整える中で、中央政府が地方の実情を正確に把握し、租税制度や統治の指針とするための、いわば「古代の国勢調査」であったと言えるだろう。
しかし、この詔によって提出された全ての国の「風土記」が今日まで残っているわけではない。現在、まとまった形で現存するのは『常陸国風土記』『出雲国風土記』『播磨国風土記』『肥前国風土記』『豊後国風土記』の五か国のみであり、そのうち『出雲国風土記』がほぼ完本とされる。 『播磨国風土記』は、平安時代末期に書写された「三条西家本」と呼ばれる写本が唯一の伝本として国宝に指定され、天理大学附属天理図書館に所蔵されている。 この写本は、長らくその存在が知られていなかったため、世に紹介されたのは江戸時代後期、寛政8年(1796年)に柳原紀光が筆写し、嘉永5年(1852年)に谷森善臣が改めて書写したのがきっかけとされる。
成立年代については、風土記に記されている地方行政組織が「国・郡・里」であり、霊亀元年(715年)あるいは霊亀3年(717年)に「国・郡・郷・里」へと移行する以前の記述であることから、和銅6年(713年)から霊亀元年(715年)頃までの間に編纂されたと考えられている。 この時期の国司であった巨勢邑治や大石王、石川君子、大目であった楽浪河内らが編纂に携わった可能性が指摘されているが、確固たる定説には至っていない。 『播磨国風土記』には、官命の冒頭書式とされる「解」(げ)の形式には欠損があるものの、「前述の解と同様である」といった一文があることから、本来は報告書として書かれたものであることがわかる。
『播磨国風土記』に記されている内容は多岐にわたるが、その核心をなすのは、やはり地名にまつわる物語と、土地の具体的な評価である。播磨国内の地名は360例以上に及び、郡・里・村のほか、山・川・原・野、さらには墓・井・津・社といった細かな場所までが記録されている。 特に特徴的なのは、「地名説話」と呼ばれる、それぞれの地名の由来を語る伝承の豊富さだろう。これは、単なる行政的な記録に留まらず、その土地に暮らす人々の記憶や信仰、古代の出来事を物語として後世に伝えようとする意図が感じられる。
例えば、現在の西脇市から多可町にかけての「託賀(多可)郡」の章には、いくつかの地名説話が収められている。黒田庄町に残る「黒田」の地名は、「土黒きを以て名と為す」と記され、その土壌の色に由来するとされる。 また、西脇市から比延地区の「都麻里(つま)」は、女性首長である播磨刀売(はりまとめ)が井戸水を飲み、「此の水有味(うま)し」と語ったことが地名の起源とされている。 品太天皇(応神天皇)が巡行中に鈴を落とし、土を掘って見つけたという「鈴堀山」は現在のテレビ塔山(西脇市堀町)とされ、その山麓には天皇の猟犬の墓跡に立つという犬次神社があるという伝承も残る。
地名説話の他にも、土地の肥沃度に関する詳細な記述も『播磨国風土記』の重要な要素である。土地の良し悪しを「上の上」から「下の下」まで九段階で評価し、それぞれの里の産物や特徴が記されている。 これは、中央政府が徴税の基礎資料とするために、極めて実用的な情報として求められたものであり、当時の播磨国の経済基盤をうかがい知る貴重な手がかりとなる。また、神々の争いや大汝命(オホナムチノミコト)と小比古尼命(スクナヒコネノミコト)の逸話、謎の石造物、巨人の伝説など、記紀神話にも通じるスケールの大きな物語から、人々の日常に根ざした素朴な伝承まで、幅広い内容が収められている。
現存する五つの風土記の中で、『播磨国風土記』はどのような位置づけにあるのだろうか。例えば、ほぼ完本として知られる『出雲国風土記』は神に関する説話が多く、その土地の神話的世界観が色濃く反映されている。 一方、『常陸国風土記』や『肥前国風土記』、『豊後国風土記』では天皇などの人間に関する説話が多く見られる傾向がある。 その中で『播磨国風土記』は、神と天皇、双方に関する説話がバランス良く収録されており、両者の折衷的な特徴を持つと言えるだろう。
また、他の風土記と比較して、『播磨国風土記』は在地伝承の改変が少ないと考えられており、比較的素朴な形で地元の伝承が残されている点が指摘される。 これは、律令制下で中央集権化が進む中で、地方の多様な文化や信仰がどのように記録され、あるいは再解釈されていったかを探る上で、重要な視点を提供する。例えば、記紀神話では英雄的に描かれるヤマトタケルノミコトの逸話が、『古事記』や『日本書紀』とは異なる形で『尾張国風土記』逸文に記されている例もあるように、風土記は中央の歴史書とは異なる、地方からの視点を提供することがある。
さらに、『播磨国風土記』は、その記述から古代の人々の生活や願望を読み取れる資料としても評価される。恋愛や怨恨、争奪といった人間的な感情が描かれた伝承が多く含まれており、当時の為政者の視点だけでは捉えきれない、民衆の生の声を伝える側面があるのだ。 これは、『万葉集』や『日本霊異記』といった他の古代文献と並び、古代社会の多様な側面を理解するための重要な情報源となる。風土記が単なる行政文書ではなく、その土地に息づく多層的な物語を内包していることが、比較を通して見えてくる。
『播磨国風土記』は、1300年以上前の記録でありながら、現代の播磨地域、すなわち兵庫県西南部の各地にその痕跡をとどめている。風土記に登場する地名が、形を変えながらも今も使われていたり、伝承の舞台となった場所が史跡として残されていたりするのだ。例えば、加西市では『播磨国風土記』に賀毛郡として登場し、根日女伝承の舞台である玉丘古墳をはじめ、ゆかりの地が点在する。 また、加古川市の日岡山古墳群にある日岡陵は、景行天皇の皇后である播磨稲日大郎姫命(いなびのおおいらつめのみこと)の陵とされており、その伝承は『播磨国風土記』にも記されている。
こうした古代の記録は、現代の地域活性化や観光においても重要な役割を担っている。NPO法人による「はりまのくに」プロジェクトのように、風土記の記述を現代に活かし、食・工芸・芸術・産業など多角的な視点から地域のストーリーを発信する取り組みも進められている。 兵庫県立歴史博物館では、『播磨国風土記』に登場する郡と地名に関する神話や説話を紹介し、地域住民や来訪者が古代の播磨に触れる機会を提供している。 研究者たちも、地名説話の分析を通じて、当時の地域社会の構造や、王権と広域権力による地域編成の一断面を解明しようと試みている。 『播磨国風土記』は、単なる歴史資料ではなく、地域が自らのルーツを再認識し、未来へと繋ぐための生きた財産として、現代に息づいているのだ。
『播磨国風土記』が今日に伝えるものは、単に古代の地名や産物の羅列ではない。そこには、中央政府の命によって編纂されたという性質を持ちながらも、在地の人々が自らの土地をどのように認識し、そこにどのような意味を見出していたのかという、多層的な視線が織り込まれている。地名にまつわる説話の多くが、神々や天皇の巡幸、あるいは地元の豪族の行動に起因するとされる一方で、その語り口には、当時の人々の素朴な驚きや、自然への畏敬、そして日々の暮らしの中で培われたユーモアが感じられる。
特に興味深いのは、渡来人に関する記述である。例えば、手刈丘の地名起源説話には、韓人が鎌を知らず手で稲を刈っていたと記されており、当時の播磨の人々が渡来人を「遅れた人々」と見ていた可能性を示唆している。 これは、朝鮮半島から先進的な稲作技術が伝播したという戦後の一般的な認識とは異なる視点であり、古代における地域間の文化交流の複雑さを物語っている。風土記は、中央が求める「好字」による地名表記の裏で、土着の言葉や習俗、そして人々の間にあった微妙な力関係や認識のずれを、意図せずとも映し出しているのだ。書かれた文字の奥に、古代の人々がそれぞれの土地で何を思い、何を感じていたのか。その視線に触れることこそが、『播磨国風土記』を読む醍醐味と言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。