2026/5/20
闇と篝火に包まれる小瀬鵜飼の古式ゆかしい漁

小瀬の鵜飼について知りたい。
キュリオす
岐阜県関市小瀬の長良川で行われる鵜飼は、古代から権力者に保護され、宮内庁の管理下で伝統を守り続けている。人工の光を排した闇の中で、鵜匠が海鵜を操り鮎を獲る様は、自然と人間の共生を映し出す。
岐阜県関市小瀬の長良川に立つと、そこを流れる水は穏やかながら、どこか張り詰めた空気を帯びている。夜が深まり、周囲の山々が漆黒の闇に沈む頃、川面には篝火の赤い光が揺らめき始める。それは観光地によく見られる賑やかさとは異なり、静寂の中に響く水音と、火の爆ぜる音だけが際立つ空間である。なぜこの地で、これほどまでに古式に則った鵜飼が継承され、見る者に特定の感覚を呼び起こすのか。その問いは、川の流れとともにあるこの地の歴史を紐解くことから始まる。
小瀬の鵜飼がいつ、どのような経緯で始まったのか、その正確な起源は判然としない。しかし、鵜を使った漁の歴史は古く、奈良時代に作成された正倉院の戸籍帳には既に「鵜飼」の記述が見られることから、この漁法が古代から存在したことは確かである。小瀬の地における鵜飼の始まりについては、足利時代初期、永正元年(1504年)に黒野の鵜漁者が長良村、さらに岩田村を経て小瀬に移住したという伝承がある。また、小瀬の名主がこの地域の漁業権を掌握していたことや、「足立新兵衛名主の世話にて鵜飼を営み天文二年十一月十五日死去」という文献が残されており、足立新兵衛が小瀬鵜飼の始祖の一人とされている。足立家は室町時代から代々続く鵜匠の名家として知られ、現在の鵜匠もその血筋を受け継いでいる。
鵜飼は時代ごとの権力者によって保護されてきた歴史を持つ。平安時代には醍醐天皇から賞賛を受け、戦国時代には織田信長が鵜匠という名称を与えたと伝えられている。さらに、徳川家康には小瀬で獲れた鮎を使った鮎ずしが献上されたという記録も残る。 明治23年(1890年)には宮内省(現在の宮内庁)の直轄となり、小瀬の鵜匠は宮内庁式部職鵜匠として宮中の御用を務める存在となった。この制度は今日まで続き、小瀬の鵜匠たちは伝統的な漁法を守りながら、皇室への鮎の献上も行っている。 2015年には、「長良川の鵜飼漁の技術」として岐阜市長良の鵜飼とともに国の重要無形民俗文化財に指定され、その歴史的価値が改めて認識されることになった。
小瀬の鵜飼の最大の特徴は、その環境と漁の様式にある。長良川のさらに上流、奥長良川県立自然公園内の小瀬の里で行われる鵜飼は、周囲に人工的な照明や道路の明かりがほとんどなく、一面の山を背景に漆黒の闇の中で繰り広げられる。 鵜舟の篝火と観覧船の蝋燭の灯りだけが川面を照らし、静寂の中で鵜匠の掛け声「ホウホウ」や、鵜が鮎を捕らえる水音、篝火の爆ぜる音が際立つ。
漁の進行も特徴的である。鵜匠が乗る鵜舟と観覧客が乗る屋形船は、エンジンを持たず、船頭が棹と櫂だけで操る手漕ぎ船である。 これにより、モーター音に邪魔されることなく、川の流れや風を肌で感じながら鵜飼の現場へと向かうことができる。小瀬鵜飼の主な見どころは「狩り下り」と「付け見せ」の二つである。狩り下りでは、鵜舟と屋形船が並行して川を下り、観覧客は鵜匠の巧みな手縄さばきや、鵜が鮎を捕らえる瞬間、その息遣いまでを間近で観察できる。 鵜匠は風折烏帽子に漁服、胸当て、腰蓑という古式ゆかしい装束を身につけ、10羽前後の海鵜を操る。 鵜が捕らえた鮎は、喉の紐で調節されているため、一定の大きさ以下の鮎は鵜の胃袋に入らず、鵜匠によって吐籠に吐かせられる仕組みだ。 狩り下りの後には、屋形船を岸に留め、鵜舟が目の前を通る「付け見せ」が行われることもある。
鵜飼に用いられる鵜は、茨城県日立市(旧十王町)で捕獲される野生の海鵜である。 川鵜に比べて体が大きく丈夫な海鵜が選ばれ、捕獲後約3年間の訓練を経て一人前の鵜となる。鵜匠は年間365日、鵜の健康管理を欠かさず、日々鵜と向き合い、絆を深めている。 このように、小瀬の鵜飼は、自然環境、漁法、そして鵜と鵜匠の関係性において、昔ながらの姿を色濃く残している。
鵜飼は全国各地で行われているが、長良川という同じ水系で行われる岐阜市の長良川鵜飼と小瀬の鵜飼を比較すると、その性格の違いが浮き彫りになる。長良川鵜飼が大規模な観光鵜飼として知られ、多くの屋形船が連なり、食事や花火といった要素が組み合わされるのに対し、小瀬鵜飼はより「漁」としての原初的な姿を保っている。
岐阜市の鵜飼では、複数の鵜舟が広範囲に展開し、その壮大さで観客を魅了する。一方、小瀬鵜飼は観覧船の数が少なく、鵜舟と屋形船が一体となって川を下る「狩り下り」を主軸とすることで、より間近で鵜と鵜匠の動きを観察できる。 また、長良川鵜飼では屋形船で食事を楽しむのが一般的だが、小瀬鵜飼では基本的に船上での食事は提供されず、純粋に鵜飼という漁そのものを鑑賞することに重きが置かれている。 観覧前には鵜匠が焚き火をする廻し場の見学や、鵜飼終了後の鵜の片付けを間近で見られる機会も設けられており、これは観光客に漁の裏側を見せる試みとも言える。
この違いは、それぞれの鵜飼が地域の中で果たしてきた役割の差に起因すると考えられる。岐阜市の長良川鵜飼が早くから観光資源としての価値を見出され、発展してきたのに対し、小瀬の鵜飼は、その地理的な条件や規模から、より地域に根ざした、素朴な漁の伝統として維持されてきた側面がある。両者ともに宮内庁式部職鵜匠が存在し、皇室御用の鵜飼である点では共通しているものの、その見せ方や体験の設計には明確な差異が見られるのだ。
小瀬の鵜飼は、1000年以上の歴史を持つ伝統漁法でありながら、現代においてもその姿を守り続けている。毎年5月11日から10月15日までの期間、増水時を除いて毎夜行われる。 現在、小瀬には3名の宮内庁式部職鵜匠がおり、彼らは代々世襲制でその技と心を受け継いでいる。 しかし、伝統文化の継承は容易ではない。鵜匠の後継者育成はもちろんのこと、鵜飼船を動かす船頭の確保も急務とされている。関遊船株式会社では、伝統ある小瀬鵜飼を将来にわたり継承するため、船頭の募集や見習い期間を設けるなど、後継者育成に力を入れている。
観光客にとって、小瀬鵜飼は単なる伝統芸能の鑑賞にとどまらない体験を提供している。周囲の明かりが遮られた中で、篝火の光と水音に包まれる空間は、日常から隔絶された感覚を呼び起こす。また、鵜匠が鵜を操る様子や、鵜が魚を捕らえる瞬間を間近で見られることは、野生の生命力と人間の技術が交錯する様を目の当たりにする機会となる。 鵜飼観覧と鮎料理、宿泊を組み合わせたパックも提供されており、伝統漁法を通じて地域の食文化や自然に触れることができるよう工夫されている。 これらの取り組みは、単に観光客を誘致するだけでなく、小瀬鵜飼という文化財を現代社会に位置づけ、その価値を再認識させる役割も担っていると言える。
小瀬の鵜飼が、長良川の他の鵜飼と比較して「素朴さ」や「原初性」を強調されるのは、単に規模が小さいからではない。そこには、人工の光を極力排除し、川と山が織りなす自然の闇を舞台とすることで、篝火の光と水音、そして鵜と鵜匠の動きという、鵜飼の本質的な要素を際立たせる意図がある。この環境は、鑑賞者に余計な情報を与えず、五感を通して漁の営みを直接的に感じさせる。
観客が目の当たりにするのは、一千年以上も前から続く人間の知恵と、野生の鵜が持つ本能が、互いに寄り添い、鮎を獲るという共通の目的に向かって協働する姿である。それは、自然を支配するのではなく、自然の摂理の中に自らの生業を見出し、そのリズムに合わせて生きる人々の姿を映し出す。小瀬の鵜飼は、闇の中でこそ、人間と自然、そして過去と現在が交錯する、ある種の「共生」のあり方を静かに提示しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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