2026/5/21
日本の塩作り、藻塩焼きからイオン交換膜法までの道のり

日本の塩作りの歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
日本は、岩塩層や広大な乾燥地帯を持たない地理的・気候的制約の中で、古代から独自の塩作りを発展させてきた。藻塩焼き、揚浜式、入浜式、流下式塩田を経て、現代のイオン交換膜法に至る技術の変遷と、その中で培われた知恵や工夫、そして現代に受け継がれる伝統製法について辿る。
日本の食卓に欠かせない塩は、単なる調味料以上の存在である。味噌や醤油、漬物といった発酵食品の基盤をなし、保存食文化を支えてきた。しかし、四方を海に囲まれた島国であるにもかかわらず、日本での塩作りは決して容易ではなかった。広大な乾燥地帯や岩塩層を持たない日本の風土は、海外の主要な製塩法とは異なる独自の道を歩ませたのだ。多湿な気候と狭い国土という制約の中で、いかに効率よく、安定して塩を得るか。この問いは、古代から現代に至るまで、日本の人々が知恵と労力を注ぎ込んできた歴史そのものである。
例えば、瀬戸内海の穏やかな入り江に立つと、かつてそこに広がっていたであろう塩田の風景が脳裏をよぎる。潮の満ち引きを利用し、人力で海水を運び、砂に塩分を凝縮させる。その重労働を想像すると、目の前の静かな海は、ただ美しいだけでなく、途方もない人の営みを内包してきた場所だと気づかされる。日本の塩作りの歴史は、自然の恵みに感謝しつつも、その厳しい条件を克服しようとする、たゆまぬ努力の物語である。
日本の塩作りは、今から3000年ほど前の縄文時代から弥生時代にかけて始まったとされる。 当時、人々の食生活が狩猟採集から稲作を中心とした農耕生活へと変化する中で、植物性食品に多く含まれるカリウムに対し、体内のナトリウムが不足しがちになったことが、塩への需要を高めた一因だという。 最初期の製塩法は「直煮(じきに)製塩」と呼ばれ、海水を直接土器で煮詰める原始的な方法であった。 製塩土器は全国各地の海岸部で出土しており、弥生時代の土器には、熱効率を考慮して底が丸く、縁が内側に丸められたものも見られる。
その後、奈良時代に入ると、より効率的な「藻塩焼き(もしおやき)」が登場する。これは、ホンダワラなどの海藻を積み重ね、海水をかけては乾燥させる工程を繰り返し、海藻に付着した塩分を濃縮させる。 塩分を含んだ海藻を焼いて灰にし、その灰に海水を加えて濃い塩水(かん水)を作り、それを煮詰めて塩を得る方法である。 『万葉集』にも「藻塩焼く」と詠まれるほど、当時の人々の暮らしに根付いていたことがうかがえる。 宮城県の塩竈神社では、現在も毎年7月に藻塩焼き神事が執り行われ、古代の製塩法が再現されている。 しかし、海藻は乾燥しにくく燃えにくいという難点があり、得られる塩の量はわずかであった。
8世紀頃には、海藻に代わって砂を利用してかん水を採る「塩田法」へと移行が進む。 海浜の自然の砂面を利用する「自然浜」から始まり、次第に人為的に海水を撒き、乾燥した砂を集める「塩田」の形態が整えられていった。 こうして、海水を濃縮する「採かん」と、それを煮詰める「煎熬(せんごう)」という、日本の製塩法の二段階の基本原理が確立されていく。 釜も製塩土器から貝釜、石釜、そして鉄釜へと進化し、大量のかん水を処理できるようになり、一ヶ所で大量の塩を生産する「塩田(塩浜)」が出現したのだ。
日本の塩作りは、その地理的・気候的制約の中で、海水をいかに効率よく濃縮し、塩を得るかという課題に常に直面してきた。海水の塩分濃度は約3%と低く、多雨多湿な日本では、太陽熱と風だけで海水を蒸発させる天日製塩は難しかったからである。 そのため、日本独自の採かん技術が発達した。
平安時代には「揚浜式塩田(あげはましきえんでん)」が確立される。これは、海面より高い場所に粘土で固めた塩田を作り、人力で海水を汲み上げて塩田の砂に撒き、太陽熱と風で水分を蒸発させる方法である。 塩分が付着した砂を集め、「沼井(ぬい)」と呼ばれるろ過槽で海水と混ぜて濃いかん水を抽出し、それを釜で煮詰めて塩を得た。 能登半島の一部では、現在もこの揚浜式塩田が伝統的な製法として守り継がれている。 揚浜式は多くの労働力を要する重労働であったが、天候に左右されにくいという利点もあった。
室町時代末期から江戸時代にかけて、瀬戸内海沿岸を中心に「入浜式塩田(いりはましきえんでん)」が発達する。 これは、潮の干満差を利用して海水を塩田に引き込み、毛細管現象によって砂の表面に塩分を析出させる方法である。 揚浜式に比べて海水を運ぶ労力が大幅に削減され、生産性が向上した。 遠浅の海岸と大きな潮の干満差に恵まれた瀬戸内海沿岸は、入浜式塩田の適地であり、江戸中期には日本の塩の約50%、江戸末期には80~90%を生産する一大産地となった。 この入浜式塩田は、昭和30年代まで日本の主要な製塩法として続いた。
戦後の昭和20年代後半から昭和46年(1971年)にかけては、「流下式塩田(りゅうかしきえんでん)」が導入される。 これは、ゆるやかな傾斜をつけた「流下盤」に海水を流し、太陽と風で水分を蒸発させて濃縮した後、さらに竹の枝を組んだ「枝条架(しじょうか)」の上から海水を滴り落とすことで、より効率的にかん水を濃縮する方法である。 ポンプで海水を汲み上げるため、入浜式に比べて労働力は10分の1程度にまで減少し、生産量も2.5〜3倍に増加した。 しかし、流下式塩田も屋外施設であるため、天候の影響を完全に排除することはできなかった。
そして昭和47年(1972年)以降、日本の製塩法は「イオン交換膜(電気透析)法」へと全面的に転換される。 これは、電気の力とイオン交換膜を使って海水中のナトリウムイオンと塩素イオンを分離・濃縮し、高濃度の純粋なかん水を作り出す技術である。 イオン交換膜法は、広大な塩田が不要で、天候に左右されず、24時間安定して高品質な塩を生産できる画期的な方法であった。 日本が世界に先駆けて実用化したこの技術は、製塩を農業から工業へと変貌させたといえる。
日本の塩作りが辿ってきた道のりは、世界各地の製塩法と比較すると、その特異性が際立つ。世界で生産される塩の約6割は岩塩であり、残りの多くは広大な塩田で太陽熱と風力のみを利用する天日塩である。 地中から採掘される岩塩や、乾燥地帯の塩湖から得られる湖塩は、採掘や自然乾燥という比較的シンプルな工程で大量の塩を供給できる。
しかし、日本には岩塩層や塩湖がなく、また多雨多湿な気候のため、メキシコやオーストラリアのような大規模な天日塩田は成立しにくい。 海水中の塩分濃度が約3%と低い中で、いかに効率的に水分を蒸発させ、塩を抽出するかという課題が常に付きまとったのだ。 この環境的制約が、日本の製塩技術に独自の進化を促した。
例えば、地中海沿岸諸国では、年間を通して乾燥した気候と豊富な日照を利用し、広大な塩田に海水を引き込み、自然に水分を蒸発させる方法が主流である。これは、人の手をほとんど介さずに塩を生産できるため、非常にコスト効率が良い。一方、日本の揚浜式や入浜式塩田は、潮の干満や毛細管現象といった自然の力を利用しつつも、海水を撒く、砂を集める、かん水を煮詰める、といった多大な人力を要する工程が不可欠であった。 これは、単に技術的な違いに留まらず、自然との向き合い方、資源の利用の仕方に根本的な差異があることを示唆している。
また、日本の塩作りは、単に塩化ナトリウムを得るだけでなく、かん水に含まれるマグネシウムやカリウムといった「にがり」成分を適度に残すことを重視してきた側面もある。 これは、塩の味の深みや複雑さにつながり、日本の伝統的な食文化、特に発酵食品の風味形成に大きく寄与してきた。海外の多くの岩塩や工業的に精製された塩が、純粋な塩化ナトリウムを志向するのに対し、日本の伝統的な塩は、海のミネラルバランスを比較的そのまま保持しようとする傾向があったと言える。 この違いは、日本人が塩に求めてきたものが、単なる「しょっぱさ」だけでなく、「旨み」や「まろやかさ」といった、より複雑な味覚であったことを物語っている。
1972年(昭和47年)に全面的に導入されたイオン交換膜法は、日本の塩生産に大きな変革をもたらした。 この技術により、天候に左右されず、広大な土地も不要な工場生産が可能となり、安価で安定的に高品質な塩が供給されるようになった。 食用塩の約85%が国内生産されており、そのほとんどが海水由来の塩である。
しかし、1905年(明治38年)から1997年(平成9年)まで続いた塩専売制度の廃止と、2002年の完全自由化は、日本の塩業界に新たな動きをもたらした。 それまで日本専売公社(後に日本たばこ産業)が一元的に管理していた塩の製造・販売が自由化されたことで、多種多様な塩が市場に出回るようになったのだ。
現在、日本の塩市場では、イオン交換膜法で製造された精製塩が大量生産を担う一方で、伝統的な製法で「自然海塩」を生産する小規模な事業者が注目を集めている。 例えば、能登半島では、日本で唯一、揚浜式塩田が観光用に維持され、その重労働と伝統的な製法が体験できる場所となっている。 また、広島県の上蒲刈島では、万葉集に歌われた「藻塩焼き」が、古代遺跡から出土した製塩土器の研究を基に再現され、地域の特産品として生産されている。
これらの伝統製法による塩は、現代の効率的な製法とは異なり、生産量が限られ、手間もかかる。 しかし、海水や海藻由来のミネラルを豊富に含み、まろやかで奥深い味わいを持つことから、高価格帯の食用塩として、あるいは地域の文化資源として価値が見出されている。 現代の日本の塩の風景は、効率性を追求した工業生産と、手間を惜しまず伝統を守り続ける手仕事が共存する、多様な姿を見せているのだ。
日本の塩作りの歴史を辿ると、常に自然条件との対話があったことがわかる。岩塩を持たず、多雨多湿な気候という制約は、一見すると不利な条件に思える。しかし、この制約があったからこそ、日本人は海水を濃縮し、塩を結晶させるための多様な技術を編み出してきた。藻塩焼きから始まり、揚浜式、入浜式、流下式塩田、そしてイオン交換膜法へと至る技術の変遷は、単なる効率化の追求だけではない。そこには、限られた資源の中で最大限の恵みを得ようとする、粘り強い工夫と知恵の積み重ねがあった。
特に、揚浜式や入浜式塩田で培われた技術は、潮の干満や毛細管現象といった自然の摂理を巧みに利用し、人力と組み合わせることで成立していた。これは、自然を支配するのではなく、自然の動きを読み、それに寄り添うことで生産を行う、日本的なものづくりの姿勢を象徴しているとも言える。現代のイオン交換膜法は、天候に左右されない安定生産と高い純度を実現したが、その一方で、伝統的な製法が持つ地域性や、ミネラルバランスによる味の多様性は薄れることになった。
しかし、塩専売制度の廃止以降、改めて伝統製法が見直され、地域固有の「自然海塩」が再評価されているのは、単なるノスタルジーではないだろう。効率と生産性が追求された時代を経て、人々は再び、手間暇をかけた製法がもたらす、土地と深く結びついた味わいや、その背景にある物語に価値を見出している。日本の塩作りの歴史は、自然の厳しさに立ち向かいながら、技術を磨き、文化を育んできた人々の営みが、形を変えながらも現代に受け継がれていることを示している。それは、効率の先に何を残すべきか、という問いを私たちに投げかけているようでもある。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。