2026/5/29
浜松餃子の円盤と茹でもやし、その歴史的背景とは

浜松はなぜ餃子の街になったのか?浜松餃子の歴史について知りたい。
キュリオす
浜松が餃子の街となったのは、戦後の食文化と「やらまいか」の気風、そして「お持ち帰り文化」が要因。円盤焼きともやし添えは、効率性と食の工夫から生まれた。宇都宮との違いは、家庭の日常食としての側面にある。
浜松の街を歩くと、餃子を扱う店の多さに気づく。持ち帰り専門店から老舗の食堂、居酒屋まで、餃子は市民の生活に深く根ざしているようだ。そして、その多くで提供されるのが、鉄板で円形に焼かれた餃子の中央に、こんもりと茹でもやしが盛られた独特の姿である。なぜ浜松はこれほどまでに餃子の街となり、なぜその餃子にはもやしが添えられるのか。その問いは、戦後の混乱期から高度経済成長期にかけての、この街の食文化と産業の変遷を紐解く鍵となるだろう。
日本の焼き餃子文化が本格的に広まったのは、第二次世界大戦後、中国方面からの復員兵たちが現地での食体験を元に商売を始めたことが大きなきっかけとされる。戦後の物資不足の中、手軽に作れて栄養がとれる餃子は、多くの人々に受け入れられたのだ。浜松もまた、この全国的な流れと無縁ではなかった。しかし、浜松の餃子の歴史は、さらに大正時代にまで遡るという説もある。大正時代後期には、浜松市連尺町に「東洋軒」という店が存在し、焼き餃子を提供していたという記録も残されているのだ。その餡には、現在と同じくキャベツが多く使われていたとされる。
戦後の浜松は、スズキやヤマハ、ホンダといった世界的メーカーが本拠地を置く「ものづくりの街」として発展した。 工場が多く、共働きの家庭が多かったこの街では、仕事帰りの母親が夕食の支度を簡便にするために、安価で手軽な餃子を総菜として持ち帰る文化が根付いた。 この「お持ち帰り文化」が、浜松に餃子店が多数存在し、市民の食卓に浸透する大きな要因となった。 浜松市民には「やらまいか」(「やってやろうじゃないか」という遠州地方の方言)の気風があるとされ、新しいものを取り入れ、工夫を凝らすことに積極的だったことも、餃子がこの地で独自の発展を遂げる土壌となったのかもしれない。
浜松餃子の特徴としてまず挙げられるのは、キャベツを中心とした野菜たっぷりの餡である。浜松市や隣接する愛知県はキャベツの産地であり、地元の玉ねぎも豊富に生産されていたため、戦後の物資が不足する中でも安定して材料を確保できたのだ。 豚肉も養豚業が盛んであったことから、あっさりとした野菜の甘みと豚肉のコクを併せ持つ餃子ができあがった。
そして、その見た目の特徴である「円盤焼き」と「茹でもやし」には、合理的な理由と工夫が込められている。多くの店が屋台から始まった戦後、一度に大量の餃子を効率よく焼く必要があった。そこで考案されたのが、フライパンの縁に沿って餃子を円形に並べ、真ん中に空間を作る焼き方である。 この「車盛り」と呼ばれる焼き方は、一度に多くの餃子を焼き上げられるだけでなく、見た目にも華やかさを添えた。
しかし、円形に並べると皿の中央にぽっかりと空間が生まれる。この「穴」を埋めるために、初代店主が試行錯誤の末にたどり着いたのが「茹でもやし」だったという。 もやしは安価で手に入りやすく、餃子のラードによる脂っこさをさっぱりとさせる効果もあった。 また、もやし自体にも餃子のタレがよく合い、口直しとして機能することで、より多くの餃子を食べられるようにしたとも言われる。 このもやしを添えるスタイルは、「石松餃子」が発祥とされているのだ。
浜松市が「餃子の街」として全国的な知名度を得る上で、栃木県宇都宮市との長年にわたる「餃子購入額日本一」の争いは避けて通れない。総務省の家計調査において、両市はたびたび首位を入れ替え、そのたびにメディアで大きく報じられてきた。 この「餃子戦争」は、両市がそれぞれ独自の餃子文化を築き上げてきた結果と言える。
宇都宮の餃子は、戦前、旧満州に出兵していた日本陸軍第14師団の駐屯地が宇都宮であったことに起因するとされる。 復員兵たちが中国での食体験を持ち帰り、多くの専門店が生まれたことで、宇都宮は餃子の街として発展したのだ。 宇都宮餃子もまた野菜が多めの餡が特徴とされるが、浜松のように「円盤焼き」や「もやし添え」といった普遍的な盛り付け方があるわけではない。むしろ、各店舗が独自の味とスタイルを競い合う多様性を持つ。
一方、浜松の餃子は、ものづくりの街という産業構造と、そこから生まれた共働きの家庭の「お持ち帰り文化」がその普及を後押しした。 家庭の食卓に並ぶ日常食としての餃子の存在が強く、この点が宇都宮との大きな違いとして挙げられる。宇都宮が「餃子専門店で食べる」文化が先行したのに対し、浜松では「家庭で焼く、持ち帰って食べる」という側面も強かったのだ。 この背景には、総務省の家計調査が「小売店での生餃子や焼き餃子の購入額」を統計対象としていることも影響しているとされる。
現在、浜松市内には約80軒の餃子専門店があり、居酒屋や持ち帰り専門店を含めれば300軒以上の店が餃子を提供していると言われる。 浜松餃子の定義として、浜松餃子学会は「3年以上浜松に在住し、浜松市内で製造されている」ものを浜松餃子と定めている。 この定義は、単なる地理的なものではなく、この地で育まれた食文化へのこだわりと、地域への愛着を象徴していると言えるだろう。
2004年には「浜松餃子学会」が発足し、B級グルメブームの中で浜松餃子の魅力を全国に発信する活動を積極的に行ってきた。 2006年には第一回浜松餃子まつりを開催し、翌2007年には浜松餃子マップを発表するなど、地域振興の旗印として餃子を活用している。 近年では、宮崎市も餃子の街として台頭し、三つ巴の様相を呈しているが、浜松市は2023年から2025年にかけて3年連続で餃子購入額日本一を獲得するなど、その存在感を示し続けている。
浜松が餃子の街として発展した背景には、戦後の混乱期における食糧事情と、ものづくり都市としての産業構造が深く関わっていた。安価で栄養があり、手軽に食卓に並べられる餃子は、共働き家庭の多い浜松において、まさに「ソウルフード」として定着したのだ。
円盤型に焼かれ、中央にもやしが添えられる独特のスタイルは、効率性を追求する中で生まれた工夫と、脂っこさを和らげてさらに多くの餃子を楽しんでもらおうという「おもてなし」の心が形になったものだろう。宇都宮が「外食としての餃子」で名を馳せたのに対し、浜松の餃子は「家庭の食卓を支える日常食」としての側面を強く持つ。この違いこそが、両者の「餃子文化」の根底にあるものと言える。浜松の餃子を味わうとき、私たちは単なる一品料理ではなく、この街の歴史と人々の暮らしが凝縮された、ある種の必然の形を目にしているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。