2026/5/29
菊川の「間の宿」とは?小夜の中山を控えた休憩地の役割

静岡の菊川の歴史についても知りたい。間の宿とはなんなのか?
キュリオす
江戸時代の東海道で、菊川は正式な宿場ではなく「間の宿」として機能した。金谷宿と日坂宿の間に位置し、小夜の中山という難所を控えていたため、旅人の休憩需要が高かった。間の宿は、宿場間の距離や難路を補完する役割を担い、地域の経済や旅の風景に影響を与えた。
静岡県中西部、東海道の宿場町が連なるこの地に、菊川という地名がある。しかし、東海道五十三次を辿る旅人が地図を広げても、「菊川宿」という正式な宿場の名は見当たらないだろう。現在の静岡県島田市菊川地区に位置するこの場所は、江戸時代に「間の宿」として機能していた。宿場と宿場の間にひっそりと、しかし確実に旅人の往来を支えた「間の宿」とは、一体どのような存在だったのか。そして、なぜ菊川はこの特別な役割を担うことになったのか。その問いの答えは、この土地の地理的条件と、人々の生活の知恵に求められる。
菊川の歴史は古く、中世には既に集落が栄え、「菊川宿」として知られていたという。詩歌や伝説にも詠まれ、戦国時代には天正5年(1575年)の諏訪原城の戦いで武田氏と徳川氏の激戦地となり、里の人々が流亡した記録も残る。
江戸時代に入り、徳川家康による慶長6年(1601年)の東海道宿駅制の整備が始まると、日本橋から京都までの五十三次が定められた。しかし、このとき菊川は正式な宿場としての指定から外れることとなる。西は日坂宿、東は金谷宿という二つの宿場に挟まれた位置にあり、特に距離が長いわけではなかったものの、間に小夜の中山という難所を控えていたため、旅人にとっては休憩の需要が高かったのだ。
この宿駅指定から外れた経緯については諸説あるが、戦乱による疲弊や、隣接する宿場の影響などが考えられる。しかし、たとえ公認されなくとも、旅人の需要は消えない。戦乱が収まり人々が戻ってくると、茶屋などを営む者が現れ、自然発生的に旅人を迎え入れる場所として発展していったのである。こうして菊川は、公的には宿場ではないが、旅の途中の重要な休憩地点、すなわち「間の宿」としての役割を担うことになった。
「間の宿」とは、江戸時代の主要街道において、公的に認められた宿場と宿場の間に自然発生的に成立した休憩用の町場を指す。その成り立ちには、宿場間の距離が長い場合や、峠越えなどの難路がある場合など、旅人に多大な負担を強いる地理的条件が背景にある。菊川の場合、金谷宿と日坂宿という二つの宿場の間に位置し、特に西に「小夜の中山」、東に「菊川坂」という難所を控えていたことが、間の宿としての発展を促した主要因であった。
正規の宿場では、公用の旅行者や貨物を扱う伝馬制度の義務があり、その経費を宿場が負担していた。幕府は宿場を保護するため、旅籠の営業を宿場に限定し、間の宿での宿泊は原則として禁じていたとされる。しかし、これはあくまで名目上のことであったようだ。間の宿には米屋や酒屋といった各種商店が軒を連ね、周辺の村落住民も利用する商店街のような機能を持っていた。また、大井川の川留めなど、旅人の宿泊施設が不足する非常時には、間の宿での宿泊が公認されることもあったという。菊川では、茶店や農家が急ごしらえで旅籠の役割を果たすこともあったのだ。
間の宿は、公役を負担しない分、正規の宿場よりも割安な料金でサービスを提供できたという側面もある。例えば、小田原と箱根の間にある梅沢の間の宿では、酒匂川の川留め時に旅人が割安な間の宿を利用した例が指摘されている。菊川もまた、旅人が難所を前に一息つき、次の宿場までの体力を整えるための、費用対効果の高い休憩拠点として重宝されたことだろう。
東海道には、菊川以外にもいくつかの「間の宿」が存在した。例えば、愛知県の有松は、池鯉鮒宿と鳴海宿の間に位置し、東海道を行き交う旅人への土産物として「有松絞り」が考案され、街道の名産品として発展した。また、静岡市駿河区にある宇津ノ谷も、宇津ノ谷峠の東の麓に位置し、峠越えを控える旅人の休憩場所として茶屋が立ち並んだ間の宿であった。
これらの間の宿と菊川を比較すると、共通して宿場間の距離や峠などの難所が背景にある点が挙げられる。しかし、その発展の仕方は一様ではない。有松のように、特色ある産業を育み、それが町のアイデンティティとなった場所もあれば、宇津ノ谷のように峠越えの直前という立地が休憩需要を強く生んだ場所もある。菊川の場合は、金谷宿と日坂宿の間にあり、小夜の中山という難所を前にした休憩地としての性格が強かった。
正規の宿場は、幕府の統制下で伝馬役や助郷役といった公役を担い、その代わりに商業活動や宿泊業が保護された。しかし、間の宿はこうした公役の義務がなかったため、自由な経済活動が許される側面があった。旅籠の営業が原則禁止されていたにもかかわらず、実質的に宿泊を伴うサービスが提供されることもあったのは、旅人の切実な需要と、それに応えようとする住民の経済活動が、幕府の規制と現実の間で揺れ動いていたことを示している。間の宿は、画一的な宿駅制度の網の目からこぼれ落ちた、旅と地域の多様な関係性を象徴する存在であったと言えるだろう。
現在の菊川は、静岡県島田市菊川地区にその名が残る。かつての間の宿としての面影は、直接的な形で多く残されているわけではないが、その歴史を伝える遺構や、地域の人々の取り組みに見出すことができる。
例えば、旧東海道の「菊川坂石畳」は、平成12年(2000年)の発掘調査で江戸後期のものと確認された全長約690mの石畳の一部が、平成13年(2001年)に周辺住民の助郷役によって整備・復元されている。この石畳は、かつて旅人が難所を越えるために粘土質の山道を通行しやすくする目的で敷かれたものであり、往時の旅の厳しさと、それを支えた地域の労力を今に伝える。
また、菊川の里会館前には、鎌倉幕府倒幕を企てた藤原宗行卿と日野俊基卿の詩碑・歌碑が立つ。彼らが鎌倉へ護送される道中、菊川の地で悲嘆の歌を詠んだという伝説は、間の宿が単なる休憩地ではなく、様々な境遇の旅人が交錯する場所であったことを示唆している。現在の菊川市は、牧之原台地に広がる「お茶のまち」として知られているが、その一方で、間の宿としての歴史もまた、地域の文化史の一部として大切にされているのである。
東海道五十三次という、幕府によって厳格に定められた宿駅制度は、街道の物流と人の移動を円滑にするための重要なインフラであった。しかし、菊川のような「間の宿」の存在は、その制度の「隙間」や「余白」から生まれた、もう一つの旅の風景を示している。公的な規定だけでは賄いきれない旅人の細やかなニーズや、地域の地理的条件が織りなす必然性が、非公式な形で宿場に準ずる機能を生み出したのだ。
間の宿は、正規の宿場が持つ伝馬役や宿泊施設といった公的な機能を持たなかった一方で、茶屋や商店を通じて旅人に休息と物資を提供し、地域経済の一翼を担った。それは、幕府の統制と、現場の現実的な需要との間の、ある種の均衡点であったとも言える。菊川の間の宿としての歴史は、街道が単なる通過点ではなく、そこに暮らす人々の営みや、旅人の生身の体験と深く結びついていたことを教えてくれる。そして、現代においても、地域の歴史を再発見し、その価値を再認識する視点を提供しているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。