2026/5/29
うなぎパイに鰻は入っていない?「夜のお菓子」の謎を辿る

浜松のうなぎパイの歴史について知りたい。そもそも鰻入ってなくない?
キュリオす
浜松銘菓「うなぎパイ」の歴史と謎に迫る。鰻のエキスを練り込んだパイの秘密と、「夜のお菓子」というキャッチフレーズに込められた本来の意味、そしてそれが世間でどのように解釈されていったのかを解説する。
浜松駅の土産物売り場に立つと、数ある菓子の中でもひときわ目を引く箱がある。「夜のお菓子 うなぎパイ」。その名前を聞けば、多くの人が抱く疑問は共通しているだろう。そもそも、このパイの中に鰻は入っているのか、そして「夜のお菓子」とは一体どういう意味なのか。知識としては知っていても、その背景に触れると、やはり立ち止まってしまうのだ。この一枚のパイ菓子が、なぜこれほどまでに多くの人の記憶に残り、浜松の顔として定着したのか。その答えは、単なる材料や味だけでは語れない、幾層もの物語の中にある。
春華堂の創業は明治20年(1887年)、初代・山崎芳蔵が岡部町で茶屋を営み、甘納豆を売り出したことに始まる。東海道線の開通とともに明治22年(1889年)に浜松へ店を構え、戦後、二代目社長の山崎幸一が「浜松らしい新しい土産菓子」の創作に乗り出すことになる。当時の浜松は、ヤマハやスズキといった世界的企業が拠点を置く工業都市へと発展する途上にあったが、まだ全国的な知名度は高くなかったのだ。
幸一社長は、旅先での何気ない会話の中にヒントを見出す。自身の出身地を「浜松」と伝えても相手に伝わらず、「浜名湖の近くです」と補足したところ、「ああ、うなぎの美味しいところですよね」という返答があったという。このやり取りから、幸一社長は浜松の象徴が「うなぎ」であることを確信し、うなぎをテーマにした菓子の開発を決意する。
菓子職人たちは試行錯誤を重ねた。当時、洋菓子自体がまだ珍しかった時代に、魚介類であるうなぎを洋菓子と結びつける発想は異例だったろう。フランスのパイ菓子「パルミエ」を参考に、うなぎを想起させる形状を目指し、幾度もの試作を経て現在の形が生まれたのだ。そして昭和36年(1961年)、ついに「夜のお菓子 うなぎパイ」は世に送り出される。発売後、昭和39年(1964年)の東海道新幹線開通、昭和44年(1969年)の東名高速道路開通といった交通インフラの整備が、うなぎパイの全国的な知名度を一気に押し上げる追い風となった。年間売上は昭和37年(1962年)の60万本から、わずか3年後の昭和40年(1965年)には700万本へと急増し、昭和41年(1966年)には1000万本の大台を突破している。
うなぎパイの核心にある問い、「本当に鰻は入っているのか」という点について、答えは「はい、入っている」となる。ただし、蒲焼きのような身がそのまま入っているわけではない。浜名湖産のうなぎの骨や頭から抽出したエキスを粉末にし、それをパイ生地に練り込んでいるのだ。このエキスは、うなぎ特有の風味を強く主張するものではなく、お菓子としての味を損なわないよう、あくまで「隠し味」としての役割を担っているという。さらに、仕上げに塗られる秘伝のタレには、少量のガーリックが使われている。これは、うなぎエキスにわずかに残る生臭さを打ち消し、パイ全体の風味に深みを与えるための工夫である。つまり、うなぎパイは「うなぎの味」を目指したのではなく、「うなぎの栄養価」と「浜松の象徴」としての存在感を菓子に託したのだ。
もう一つの謎である「夜のお菓子」というキャッチフレーズは、二代目社長・山崎幸一が考案したものである。うなぎパイが誕生した昭和30年代は、高度経済成長期にあり、共働き家庭が増え、家族全員が揃って食卓を囲む時間が減り始めていた時代だった。幸一社長は、「忙しい一日を終え、夕食後に家族が団欒するひとときに、うなぎパイを囲んでほしい」という願いを込めて、このフレーズを付けたという。
しかし、このキャッチフレーズは世間で思わぬ方向に解釈されることになる。うなぎが古くから滋養強壮や精力増強の食材として知られていたことと、「夜」という言葉が結びつき、本来の「家族団欒」とは異なる、やや大人の意味合いで受け取られるようになったのだ。春華堂は当初の意図とは異なるこの「あらぬ解釈」を逆手に取り、パッケージの色を当時の栄養ドリンクを思わせる赤、黒、黄色の三色に変更するなど、話題性をさらに高めていく。結果として、この「夜のお菓子」というフレーズは、うなぎパイの知名度を全国区に押し上げる大きな要因となったのである。
全国各地には、その土地ならではの特産品や文化を冠した土産菓子が数多く存在する。仙台の「萩の月」や京都の「生八ツ橋」、福岡の「博多通りもん」などは、その地域を代表する銘菓として広く知られているだろう。これらの多くは、その土地で親しまれてきた素材や製法を直接的に菓子に落とし込んだものである。例えば、萩の月はカスタードクリームの味わいが特徴であり、生八ツ橋は京都の伝統的な和菓子である八ツ橋を柔らかく仕上げたものだ。
しかし、うなぎパイのアプローチは、これらの菓子とは一線を画している。うなぎパイは、浜松の象徴である「うなぎ」という強力なブランドイメージを借りながらも、その味を前面に出すことはしない。むしろ、うなぎの「エキス」という形でその存在を秘め、サクサクとしたパイ菓子としての完成度を追求した。これは、地元の名産品を「そのまま」菓子にするのではなく、その「精神」や「象徴」を抽象化して取り込む手法と言える。
「白い恋人」(北海道)や「東京ばな奈」(東京)のように、特定の素材を直接的に連想させないが、都市や地域の「顔」として定着した菓子もある。これらの菓子は、その土地を訪れた記憶や、贈る相手への心遣いを乗せる「媒体」としての役割を強く持っている。うなぎパイは、この「媒体」としての役割を果たす上で、浜松名物の「うなぎ」という具体的なアイコンと、「夜のお菓子」という物語性を巧みに融合させた点で独自性を持つ。味覚だけでなく、知的好奇心やユーモアに訴えかけることで、単なる土産物の枠を超えた存在となっているのだ。
発売から60年以上の時を経た今も、うなぎパイは浜松を代表する土産菓子としてその地位を保ち続けている。その人気の背景には、単なる味だけでなく、製造元である春華堂の取り組みも大きい。平成17年(2005年)には、製造工程を一般公開する「うなぎパイファクトリー」を開設した。ここでは、パイ生地が作られ、焼き上げられ、秘伝のタレが塗られるまでの工程をガラス越しに見学できる。年間を通して多くの観光客が訪れ、累計来場者数は数百万人に達している。この透明性の高い工場見学は、消費者に安心感を与えるとともに、うなぎパイの物語をより身近に感じさせる機会となっている。
また、うなぎパイは時代とともに進化も遂げてきた。「うなぎパイ ナッツ入り」は昭和44年(1969年)に東名高速道路開通記念として限定販売され、平成5年(1993年)には、より高級感を追求した「真夜中のお菓子 うなぎパイV.S.O.P.」が登場した。ブランデーが香るこのV.S.O.P.は、「元祖を超える最上級のうなぎパイを」という想いから生まれたという。さらに、手軽に楽しめる「うなぎパイ ミニ」も同年に誕生し、多様なニーズに応えている。
浜松がうなぎの養殖発祥の地であるという歴史的背景も、うなぎパイの物語を支える重要な要素だ。明治時代、服部倉治郎が浜名湖でうなぎの養殖を始めたことが、浜松を「うなぎの街」として確立させた。うなぎパイは、その地域の歴史と産業を菓子という形で現代に伝える役割も担っているのだ。一方で、うなぎパイが名古屋駅などでも販売されていることから、愛知県の土産と誤解されるケースも散見されるという課題も抱えている。春華堂は、うなぎパイ以外のブランド展開にも力を入れ、「五穀屋」や「coneri」といった新ブランドを立ち上げ、一本足打法からの脱却を図っている。
うなぎパイの歴史を辿ると、最初抱いた疑問は、単なる事実確認にとどまらない奥行きを持つことに気づかされる。鰻が入っているか否か、そして「夜のお菓子」の真の意味。これらは、単なる菓子の説明ではなく、春華堂が浜松という土地の個性をどう捉え、どう表現しようとしたのかという問いに繋がっている。
うなぎの「気配」をパイに練り込み、その味を直接主張しない選択は、菓子としてのおいしさを追求しつつ、地域との繋がりを保つ巧妙なバランスを示している。もしストレートにうなぎの味がするパイだったなら、これほど長く愛される銘菓にはならなかったかもしれない。そして「夜のお菓子」というフレーズは、本来の家族団欒への願いという温かい意味合いに加え、世間が勝手に作り上げた「大人のユーモア」を結果的に取り込むことで、記憶に残る強烈な個性を獲得した。
うなぎパイは、浜松という地域の象徴を、味覚だけでなく、物語性や言葉の遊び、そして少しの誤解すらも味方につけて、全国へと広げていった稀有な事例と言えるだろう。その一枚のパイには、作り手の創意工夫と、それを受け止める人々の想像力が重なり合って生まれた、豊かな「夜の物語」が今も息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。